死は勝利にのまれた!
死んだラザロを墓から生きかえらせたイエス様のことは、国中の評判になりました。祭司長たちはイエス様を殺そうと相談し、ついに捕縛命令を出しました。イエス様はそれをさけて、しばらく地方に逃れ、過越しの祭の前に再びラザロの家にやって来られました。そこはもうエルサレムの町の入り口です。今度の旅は、イエス様にとって最後の旅であり、いかなる死をとげるか、イエス様はすでに御承知でありました。 ラザロの家では、イエス様をむかえて、そこでやっと先日のラザロの復活の祝宴がはれたのです。その席上、ラザロの姉マリヤは、自分でも理解しかねる内から突きあげる衝動にかられて、高価で純粋なナルドの香油をイエス様の足にぬり、自分の髪の毛でそれをふきました。香油のかおりが家いっぱいに満ちました。すると、イスカリオテのユダが言いました。 「なぜこの香油を3百デナリ(今で言えば2百万円前後にあたる)に売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」 マタイ25:40の御言葉にしたがえば、このユダの言い分はもっともです。しかし、イエス様は言われました。 「この女のするままにさせておきなさい。わたしの埋葬の備えに、それを(多分、ラザロにも使わず?)とっておいたのだから。貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」(ヨハネによる福音書12:7、8) 先日、東京に行った時、クリスチャンが運営する日の出舎という重度の身障者の方々の授産施設に行きました。ある時、役人が来て、「キリスト教的朝礼などやめなさい」、と監査で注意したそうです。「これはキリストの精神でやっている施設です。それが出来ないならやめてしまいます」ときっぱり言ったら、役人は何も言えなかったそうです。 クリスチャンが、貧しい人々、悩む人々につくすのは、人道主義的な奉仕ではないのです。それ以上の事です。小さい人々、弱き人々の中にあるキリストに仕えるために、彼らにつくすのです。その為には、私どもの中にキリストが生きていなければなりません。 こんど、マザー・テレサが日本に来るそうです。マザー・テレサを単なる人道主義的実践者とみて、彼女を尊敬するのが、日本人全体の風潮です。しかし彼女の真実はそれ以上、キリストの内在と、キリスト御自身の実践力にあります。 自分の中に、キリストが生きていなければ、他者の中にひそむキリストは発見できません。 「貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいる!」、しかり、常に私どもの周囲には貧しい人、弱い人、がいます。そして彼らに仕える為に出ていく事は、大なり小なり、私どもの死を意味します。 「私(キリスト)はいつも共にいるわけではない」 とイエスは言われます。然り、そしてイエスが共にいなければ私どもに力はないのです。隣人に仕える力もなくなります。 死からよみがえって、死に勝利したもうたイエス様に、私の中に住んでいただくこと。死んでも死なない復活の生命力を私の中にいただく事。これが3百デナリの香油をイエス様に注いだマリヤの熱望であったと言えないでしょうか。 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」(第一コリント15:55) 【1981.4.19週報「キリストの福音」掲載】 #
by hioka-wahaha
| 2022-04-27 15:49
| 週報「キリストの福音」
《聖書のことば》聖句暗記コースE~3 他人のことも考えなさい 謙そん「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(ピリピ2:3、4) 人が旅行してきたとでも言うと、さっそく自分もそこに行ったことがある。ほかにもどこそこに行った、ここにも行ったという人がいる。人間は知らず知らずのうちに、自己中心になり、高慢になりやすい。 だれも私を理解してくれない、といってなげく人がいる。そんな人におすすめしたい。あなたがまず、あなたのイヤな人を理解するよう努めなさい。彼のことを心にとめ、心から祈ってあげなさい。 【1981.4.19週報「キリストの福音」掲載】 #
by hioka-wahaha
| 2022-04-01 18:13
| 週報「キリストの福音」
《聖書のことば》聖句暗記コースE~2 真実の愛 愛「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」(第一ヨハネ3:18) 今の時代は、多くの偽の愛で埋まっています。「言葉や口先だけでもよい、私に愛を下さい」とさえ思っている時代です。そして、時に実行的愛が見られるにしても、それはしばしば下心あっての事、真実ではないのです。 真実の愛は、許すべからざるものを命をかけて愛しぬくキリストのみにあります。このキリストの愛にふれて心の奥底より罪ゆるされ救われたという実感をもつ人のみが、多少ともキリストに似せられて、人を行いと真実で愛することができるのです。 【1981.4.5週報「キリストの福音」掲載】 #
by hioka-wahaha
| 2022-03-23 13:49
| 週報「キリストの福音」
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