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「歎異抄」を読む
最近、「歎異抄」の名が新聞の広告欄に大きく出始めています。歎異抄は私には懐かしい名です。 歎異抄の著者は親鸞です。親鸞の文章は名文ですね。古文ですから読みづらい点はありますが、読めない文章ではありません。昔、私たちが文語訳聖書を読んだのと、さして変わらない。 親鸞は法然の弟子でして、鎌倉時代、1200年前後の方です。鎌倉時代は日蓮さんも出ますが、日本ではそうした新宗教が花咲く時代でした。 法然は浄土宗の開祖、その後を親鸞が継ぎます。別に一派を立てた格好になりましたが、これは親鸞の本意では無いでしょう。 親鸞が法然を回顧する時、「この方のおっしゃる言葉を聞いて信じるほかには、何のややこしい理屈もいらないんだ」と、言いきっています。 またこう言います。「この方、法然様にだまされて、たとい念仏を唱えて地獄に落ちる結果になっても何の後悔もない。所詮、どんな信仰をもっても救われる筈のなかった人間が、こうして法然様に助けられて信心の喜びに溢れている、このほかに言うべき言葉は何もありません」。親鸞さんの述懐です。 私は戦時下の福岡の刑務所で、信仰を求めました。私はキリスト教的信条のもとに戦争に反対して、ついには刑務所に入ったわけですが、実はまだ本当の信仰を持っていなかった。 福岡市の当時、西新地にあった福岡刑務所に入れられ、初め他の囚人と一緒に入れられる雑居房にいましたが、1944年の7月だったか、監督官に呼び出されて、私の罪名を見て、「お前を一般収容者と一緒にしていたのは間違いだった、今日から独居房に入れる」と宣言されて、独居房に移されます。 あの頃、独居房に入れられるのは、共産党員か、右翼か、殺人犯だけでしたが、ともかく、宗教人にとり独居房は有難いです。他に顔を合わす人がいない。言葉を交わす相手もいない。一人、自分自身と相対すか、神様と顔を合わせるか。それしか無い。もちろん、孤独で、寂しい。心は暗中模索です。下手をすれば発狂でしょう。 私はいよいよ人生の究極の場所にきたな、と思いました。有難い。自分で、自分を確かめる時だと思いました。まず、看守に聖書を求めました。投獄された時、私は聖書を持っていましたが、聖書は私を非戦論に追いやった危険文書と刑務所のほうは踏んだらしい、刑務所は本来は聖書は囚人用携帯書としては奨励しているのですが、私だけは別。「こいつにとっては聖書は危険文書だ」というわけだったでしょう。私には持たされなかったのです。 さて、刑務所では月に一度、図書の貸出しが行われます。ここで、私は聖書と歎異抄の載っている真宗聖典をよく借り出したものです。囚人の図書係さんが「月に2冊だよ」と言いながら、図書カード箱を開いてくれます。私は奥さん殺しの殺人罪で無期懲役なんだと噂のある、その図書係に聖書も申込みますと、どうした訳か、2冊頼んだうちの歎異抄は私の独房に入ってくるが、聖書は入ってこない。刑務所教誨師は真宗の僧籍の方が多いから、真宗聖典は貸してくれる。だから歎異抄はよく読みました。 こうしたことの繰り返しでしたが、私は諦めず毎月聖書を申しこんだ。ところが10月だったか、相変わらず聖書を申し込んだ時、図書係の囚人さんが、私に目くばせしながら、聖書を持ってきて私の独房の差し入れ口にポンと入れてくれたものです。私は胸を湧かせながら聖書を開いたものです。 私は大喜びで聖書に取っ組みました。独房では封筒作り等の軽い作業をしていました。今はどうか知りませんが、独房は重大犯罪者のはいる所ですから、仕事はさせないで寂しい思いをさせ、自分の罪を十分反省させるのが本来の目的です。 仕事は、役付きの囚人、雑役と言いますが、その人が仕事の封筒の材料を各部屋に放り込んでくれます。そうすると仕事係の囚人さんが、私たちの顔を見て、好きな奴には仕事を沢山くれ、気に入らない奴には仕事を少ししかやらないのです。 寂しい独房の中では、少しでも気をまぎらわすため仕事を沢山ほしいのです。仕事が少ないと手持ち不沙汰で、時間がもたない。「もっと仕事をくれないかなあ」と封筒の材料を待っています。 私は、その雑役の囚人さんから気に入られていましたから沢山仕事の材料を貰いましたが、それでもいい按排の量でした。私は側に聖書をおいて、聖書を読みながら、封筒作りをすることができました。 ここで読む聖書は身に沁みましたね。旧約聖書の創世記から新約聖書のヨハネの黙示録まで、通して読むと、5日ほどで読み通しました。仕事しながら、夜は寝ているときも、看守の目を避けて読むのですが、何とかして読みました。見つかれば叱られます。 しばしば看守は任務上、私たちの独房の部屋の前を監視しつつ歩いて行きます。その足音の聞こえるつど聖書を伏せて私の背後に置きます。そうしている間、私は今読んだばかりの聖書の御言を心に暖め、あるいは暗唱し、祈るのです。お陰で御言は私の心のなかに浸透して来ます。 1944年11月19日、日曜日でした。刑務所は免業日(世間で言えば公休日)、私は朝から神様からの救を求めました。実は数日前から、私の魂は乾ききっていました。自分の罪に気づいて、苦しみ抜いていました、あれこれの具体的罪ではなく、私の心の中にひそむ汚れた罪の思いの固まりでした。 私は朝から夕まで食事を食べませんでした。当時の刑務所で断食することは、日ごろの食事の量も少ない時ですから、一度欠食したら、その後栄養を補う機会はないのだという不安感は一杯です。 しかし、その時の私は命がけでした。イエス様からの命、魂の救を求めたのです。肉体の命何ものぞ、霊の命をほしい。私は断食して命を求めたのです。 19日から4日目。11月23日、今ですと勤労感謝の日ですが、当時は秋季皇霊祭、夕刻になると、庭の桑の樹に雀たちが帰ってくるのでした。そのチュンチュン鳴く声が独房にも聞こえます。 私は自分の不埒な自我に悩みました、この自我が死ななければ、神様の命は頂けないという思いが迫りました、「そうだ、この自我が死なねばならないんだ。私は死のう、死ぬんだ、この自我が死ぬんだ」と自分に叫びつづけました。 しかし、どうしても自分では自我は死ねません。私の自我は「生きよう、生きよう」と強力です。この自我の胎動には呆れました。私は自分に言いつのりました。「死ぬんだ、死ぬんだ」と。しかし、死ねません。その時、御言がすっと心に浮かびました。これまで読んできた聖書のお言葉の一つが浮かび上がってきたのです。 「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」 (第二コリント5:14) 私はハッと悟りました。自分で、自分の我力で死ぬのではない。イエス様が私のために死んでくださったのだ。このイエス様の身がわりの死こそ、それが本当の私の死なのだ、と。 この不合理きわまりもないとも言うべき御言の理解が、私の魂にドンと入り込んできました。私は生き返る思いをしました。 私はこれを瞬間的イエス様体験と言う。「回心」とも呼びます。英語でコンバーションですが、これは実に神様からの絶対的恵みです。この恵みの体験は私に本当にすばらしかったので、この体験がなければ、本当の信仰ではないよと、よく言って来ました。 これは言い過ぎの感もあり、却って求道者からせっかくの信仰に入る機会を奪い、天国への門を閉じてしまう面もあります。しかし行き過ぎるくらいの言い方が、真理をはっきりさせる面もあります。 ともあれ、「でもこの回心経験は凄いんですよ」と言わねばおれない私の思いをお許し願いたいと、思います。《く》 〔あとがき〕 急に涼しくなりました。この夏は暑かったですね。いよいよ秋ですね。収穫の秋です。魂の収穫においても、実り豊かであることを祈っています。もちろん、能う限りの努力もしましょうね。《く》 ▲
by hioka-wahaha
| 2008-08-26 12:29
| 日岡だより
初代教会の回復
この8月13日から15日まで、宮崎福音キリスト教会において催されたイエス・キリスト福音の群れ主催の九州リバイバル聖会に出席して参りました。甲斐兄姉夫妻も私を同乗させてくれ、一緒に参加したことです。 最近は豊後大野を抜け、宇目の歌げんかの橋を渡って延岡に出るのが、標準コースになってしまいました。延岡で甲斐夫妻のそれぞれの里のお宅にお寄りできたのも感謝でした。(帰途はJRで10号線に沿って北上しました。市棚、宗太郎峠、重岡と私には懐かしい名の駅を幾つか通り越して行きますが、津久見駅で突然に夕立、激しい雨が列車のガラス窓に叩きつける、びっくりでした)。 宮崎市では、なんと言っても標準型の南国天気。暑さもさることながら、明るい青空が一杯ですが、西空に大きな積乱雲、つまり入道雲が浮かんでいるじゃないですか。張り切って写真を撮ろうとしましたが、古林先生と違ってカメラは鈍で下手。特に携帯の写真装置ではうまく撮れません、残念。 宮崎での宿泊は、いつもリッチモンドホテル。ここは宮崎駅に近くて、しかも植物園が目の前にあるかのようなロケーション、ゆっくり休めます。 ところで、大切な聖会は勿論、高森先生の宮崎福音キリスト教会。私はまだ、一度しか行ってませんでしたので、道は慣れていませんでしたが、甲斐兄のカーナビで難なく到着。時間ぎりぎりでした。 私が開会の挨拶のお約束でしたので、高森先生は玄関で待っていてくださいました。さっそく私を抱えるようにして迎えてくれました。 第一回の聖会は午後7時開会。聖歌隊の広やかな賛美と、姉妹たちのハレルヤ・ダンス。ああ、これは、うちの教会の皆さんに見せたかったなあ、無理にでも連れて来ればよかったなあ、などと後悔したことです。帰ってから皆さんに話して上げても、ピンとは来ないでしょう。「百聞一見にしかず」です。実際に来て見るほかは無いですからね。少々金も時間も使うけれども、次回は一緒に来てほしいなあ、と思いました。(それに、高森先生が祈って気合を入れて建築された見事な新会堂も見てほしいです。大分の教会もいつか新会堂が必要になる時が来ますからね。必ず来ますよ!)。 * 今回の聖会の主賓講師はレオ・ケーラー先生です。主賓講師というよりも、講師はケーラー先生お一人です。背は高いし、声は大きいし、日本語は日本人より明快で面白い。(誰かがなんとも返事をしない、というお話しをされた時、その表現が「ウンともスンとも言わない」なーんて、ですよ)。 さて、今回の中心テーマは「回復」でした。この言葉は英語でレストレイション、一時日本のキリスト教界でよく使われた言葉です。 さて、ケーラー先生のおっしゃるのは、「回復」と言っても、単に元にあった姿や、規模、数字に戻ると言うのではない。元の規模を越えて、もっと大きいものに立ち返るのでなければ、本当の回復ではない、と言うのです。 このことが、今回の先生の講演タイトルの真意でした。そのタイトルは、「世の終わりに輝く教会」という題でありました。 私どもの教会の礼拝堂の背後にアダムからノア、アブラハム、モーセからイエス様……、と聖書の歴史年表をかかげてありますが、立派な印刷ですね。伊藤兄弟が買って来て、貼ってくれました。 歴史というものは、過去を振り返って懐かしんだり、反省したりする道具になってはいますが、本当は未来を見る道具です。時間の流れを過去から未来へ流れる川のように見立てて、孔子ですと「川のほとりに立ちて言わく『逝くものは斯くの如きか』」と言うことになりますが、これが孔子の限界です。 時間を傍観しているだけでは大したものは発見できません。聖書では「時間は、神のみ前から流れ来る慰めの備えである」というように示してくれていますね(使徒行伝3:20)。 私たちは神の時間のただ中に立っているというのです。そして源流に向かって立つと、時間を泡立てている神様の手裁きが見えるし、そこに未来が見えてくるというわけです。そこに立つ人が聖書の預言者なのです。 * 未来を見据える神学、それが終末論でしょうか。終末というと、聖書では「ヨハネの黙示録」、封印が解け、ラッパが鳴り、第一のわざわい、第二のわざわいと、次々わざわいが起こる。なんだか、恐ろしい預言の固まりです。未来にはそんな怖いことが次々と起こるのか。人生、また世界の未来は暗い暗い恐怖劇の展開であるのか。……でも、その先々を見てみましょう。最終を見届けましょう。 ヨハネの黙示録第21章、使徒ヨハネは告げます。「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。(中略)『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』。」 これが、本当の「回復」である。聖書でいう回復とは単に元に戻すのではない。元の状態より、もっと大きく、沢山で、強く頑丈で、美しく、清められた状態へと「回復」するのであると、これがケーラー先生の言われたことです。 私たちはしばしば初代教会の健全さ、麗しさ、見事さに目をとめます。そしてそこへ回復したいと期待します。しかし、実は単なる回帰ではない。新しい天の教会の創造である。神の創作である、とケーラー先生は言われるのです。 神は初め、天と地とを造られ、万物を造られ、人をも造られ、そして「すべては良し」とされた。当然、アダムも「すべては良し」の中にはいります。しかるに、このアダムは罪を犯した。こうして罪は世に入り、死もまた、世に入ったのです。 しかし、神はそのままになさらない。神は御子を第二のアダムとされた。第二のアダムは第一のアダムの回復である。しかし、単なる回復ではない。第一のアダム以上の、崇高にして健全、何一つしみも汚れも無い、唯一の神の子なのです。 初代教会は最初は、全くの無所有共産社会、マルクスなどでも全く想像出来ないような理想社会でありました。しかし、すぐにアナニヤ、サッピラのような不徳の人物があらわれ、また続いて配給ものの不公平で苦情が出てくるような始末になります。 現代の教会も、その引き続きです。完成されていません。だからと言って、初代教会に帰りましょう、などとも到底言えません。そうです。回復では駄目。新創造されるべきなのです。 使徒ヨハネは驚きの目を見張りました。「われ、新しき天と地とを見たり」と。第一の天と地との回復ではありません。新天新地の発見です。しかり、信仰とは日々、新天新地の発見です。あなた自身のただ中に。あなたがた自身の教会のただ中に。新しい自己を、新しい教会を、再発見しましょう。こうして神の創造のみわざの「すべては良かった」というところへまで、回復するのです。そのみわざを成し遂げたもう方は、ただお一人、イエス様です。《く》 ▲
by hioka-wahaha
| 2008-08-19 10:29
| 日岡だより
救いの確かさ(五)
1511年、29歳のマルティン・ルターはローマに行きました。ピラトの階段と言われているものがありました。イエス様がピラトの裁判を受けられる時、上がっていった階段だと言います。その階段をひざまずいて上がってゆく人には功徳があると信じられていたのです。そういう聖蹟遺物が当時たくさんありました。階段にはガラスの破片が撒いてあり、膝に傷を受けながら上がるという苦行なのでありました。 その階段をルターはのぼっていく途中、あの「義人は信仰によりて生くべし」という聖書の言葉を思い出しました。決然として彼は立ち上がり、階段を降りて行ったのです。その頃すでに彼の心に福音信仰が醸成され始めていたと推察出来るではありませんか。この時、ルターにはまだ確信はなかったでしょう。まだ、肉と罪との戦いに勝利を得ることができず、悩み苦しんでいた時でなかっただろうかと思うのです。 1513年、その年の初めの頃、ルターはウィッテンベルグ城の塔の中で徹底的回心をしたのであろうと多くの歴史家が言います。 彼は回顧して言います。「その時、私は一瞬にして新しく生まれたように感じました。パラダイスの扉が目の前に開かれたような気がしました」。まさに、ルターはこのウィッテンベルグの城で初めて「救いの確かさ」を掴んだのでありました。 この経験が内村鑑三がコンポルジョンと呼び、石原兵永が「回心記」(新教出版社刊、ただし絶版)で強調したコンバージョンです。ウイリアム・ジェイムスの「宗教経験の諸相」(日本教文社刊)を読むと、このコンバージョンの驚嘆すべき体験談がたくさん記録されています。 畏友・今橋淳先生は、私も親しかった桜井先生という方の按手と祈祷を受けて一瞬バリバリ音を立てるようにして脊髄カリエスが癒された。そしてイエス・キリスト様の救いがこれまでの教理的理解はでなくて実存的体験として分かったのです。(この奇蹟的回心については先生の自著がある)。 この今橋先生から、かつて「釘宮先生のコンバージョンはどんな様子だったのですか」と問われたことがあります。私は例の刑務所の中での体験を話したら、「その程度のことですか」というような落胆した顔をされました、呵々。 とは言え私が、その時いただいた信仰は神様からのものです。如何に小さい信仰でも、質的にはペテロ、ヨハネ、パウロと少しも違わないと、その時思っていました。今ももちろん、そう思っています。親鸞が他の弟子たちとの信心問答で、「法然上人の信心と私の信心は微塵も違わない」と断言したそうですが、よく似ていますね。ルターと私の信仰は微塵も相違しない。私はそう信じています。 * モラビアン兄弟団の総師ツィンツェンドルフ、不思議な人です。この人は1700年にドイツのザクセンの伯爵家に生まれました。ルターよりも約200年後の人です。なんと4歳の時にイエス様に従う決心をしたそうです。6歳の時にはスウェーデンの軍隊がザクセンに侵入、あらくれ兵士どもが略奪のため城に乱入してきましたが、この少年は少しも恐れず祈り続けていました。この少年の姿に兵士たちは恐れを覚えて何もできなかったと言います。 成長して、19歳の時、大学を卒業、当時の青年貴族らしく、国内を旅行しました。そしてデュッセルドルフの美術館で「この人を見よ」という十字架上のキリストの絵を見たのです。その下に文字がありました。 「我はなんじの為に生命を捨つ。なんじは我がために何をなししや」 この言葉の前で棒立ちになった。彼は涙にむせんで立ち去ることが出来なかった。その時、あらためて彼は献身の思いを堅くしたのです。 後に、チェコスロバキアの中部モラビア地方からクリスチャン農民たちが逃れてきました。彼らはルターをさかのぼること100年、宗教改革の先駆者ヤン・フスの流れを汲む真の信仰者たちでした。ツィンツェンドルフは彼らを自領に迎え入れて安全を保証したのみか、彼らと共に信仰の集団を組織する。これがモラビアン兄弟団です。 モラビアン兄弟団のことは又、稿を改めて書きたいですが、彼らは殉教的海外伝道に出て行きました。み言葉に忠実なることは、今もローズンゲンという有名な聖書日課を編集して、毎年出しているほどです。彼らは数の多くなることを求めず、今も本当に小さい教団で満足しています。 さて、このツィンツェンドルフの信仰は、いつ生まれたのでしょうか。彼にはコンバージョンは起こったでしょうか。あの4歳の時や、19歳の時も、いわゆるコンバージョンではないように思えます。 彼の信仰は非常に意志的です。決意の強い人に見えます。断固として信じるのです。彼はみ言葉や聖霊の導きに従順です。世論を恐れず異国の難民を受入れます。教団の組織指導は徹底しています。少年少女たちまで自発的に徹夜して祈ったと言われるほどです。 この教団の霊的な信仰はジョン・ウェスレーの霊的自覚とコンバージョンを生み出し、聖霊と聖潔のメソジスト教団を生み出させたのです。 こうしたツィンツェンドルフの信仰の強固さはどこからくるのでしょうか。今後の私の研究課題です。 * ところで、文章の流れを急に変えて、現代の私たちの周辺に目を留めます。最近の私たちの伝道実践の中で、簡単な個人伝道に対し、すぐイエス様を受入れ、簡単に信仰にはいる人が多い。あるいは「路傍で拾ったトラクトを読んで、その最後の信仰の勧めの所で「ハイ、信じます」と一人でうなずいて署名欄に名前を書きました。その時からずっと信仰をつづけています」というような証しを聞くことがある。私はそういうことが信じられなくて、その人から証しを聞いた時、本当に驚いた。 私はそうした信仰に疑い深く、拒否的だった。イエス様の十字架の救いのメッセージを聞いて自分の決断で「信じます、信じます」と言うのが虚妄に見えて仕方がなかった。そして「信じられない、信じられない」と瞬間的確信を求めて、苦しんでいるのは真摯な態度と思っていました。これが正直で真実な態度だと思っていたのです。 かつての私は、そのようにして、ひたすらコンバージョン風の瞬間的確信を求めました。そして遂に60数年前のことですが、聖霊様によって望みどおりの瞬間的確信が与えられました。実に感謝なことです。 しかし、そのゆえに単純に信仰を受け入れた人の信仰が一向に認められず、しかも自分の信仰だけが立派で霊的だと思いこんで、高慢になってしまっていたなあという反省が、今の私にはあります。 たしかにルターや今橋先生や又私のような聖霊による瞬間的信仰の経験のない人たち、又はツィンツェンドルフのような意志の強い信仰を持たない人たちは、教会によって良く守られなければ、信仰の破船や堕落をしやすいことは事実です。そういう方々のためには信仰を堅く守り、信仰を正しく成長させる羊飼いのような指導者や組織が必要なんだと思います。 もう一つ、その上に信仰を実際生活に生かすコツやカン所や、心や言葉の運用の技術、また悪魔に打ち勝つ霊的戦略、戦術、格闘術を教え、また訓練することが必要です。 かくて、各信徒は必ず勝利します。世と悪魔と死との最終戦に至るまで絶対に勝ち続けます。それこそ「救いの確かさ」の到達点です。主イエス・キリストのお導きの確かさです。(自著「信仰の確かさ」より抜粋)《く》 《あとがき》 もうすぐ8月15日、敗戦記念日です。決して終戦記念日ではない。まさに敗戦です。あれを終戦などとごまかすのは日本人の悪い癖です。とは言え、「大東亜戦争」と称した当初の目的は達せられたという点に目を据えて一応満足したいのです。問題は当時の日本国民には、そうした建前の「東アジア解放」などという意識は全然持っていなかったということです。ただ、石油が入って来るぞ、バナナもたんと喰えるぞと、低次元のところで心を踊らせていただけです。《く》 ▲
by hioka-wahaha
| 2008-08-13 13:55
| 日岡だより
感謝と喜びを言い表そう
毎日あなたが何を考えているかということが、あなたが何を信じているかということなんです。 だから「救いの恵みを、いつも考えなさい」と聖書はいうんです。つまり、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」と聖書にあるでしょう。 なぜか。それはいつも考えていることがその人の信仰であるからです。だから「イエス様に救われて感謝だなぁ」と毎日お祈りをし、聖書を読んでありがたいなぁと毎日考える。 のみならず、それを口にする。そのことによって、その考えは強くなり、信仰が強固になるんです。 いつも思っていることがあなたの信仰です。そして、その思いをいつも口にして語りつづけることにより小さな信仰も大なる信仰、確信になるのです。 確信は力を産み出します。そしてその力はあなたの人生を変えるのです。 * みなさんは多分これまでなさったことはないかもしれませんが、今日から1か月間でも、いや本当を言えば3か月間だとさらに良いのです。3か月間やると万事、習慣化されるのは人間心理の法則です。 ですから、毎日神様に感謝してご覧なさい。天気の悪い日も、体に元気のない日も、お金のない日も。そんな毎日でも、ふくれたり機嫌悪くなったりしないんです。 何があろうとも、イエス様に救われているというこの信仰の事実は変らないのですから。 「そうだ、私は神様の子だ。永遠の生命を持っているんだ。私の為にはすべての事が相働いて益となるんだ。感謝だなぁ、本当に神様ありがとうございます」。 と毎日祈り、朝に夕に口に出して告白し、そして人にも言うんです。 「幸いですよ。信仰するっていうことは。イエス・キリストは救いですよ。教会に行き始めて聖書を読み、お話を聞いているうちに、こんなに毎日喜んでいる人間になってしまいましたよ」と、どこででも、誰にでも言い続けてごらんなさい。 人が聞いてくれなくてもいいのです。人が聞いてくれても、聞いてくれなくても、語りつづけてごらんなさい。1か月たったら何が起こるか。 まず、あなたのまわりに良いことが起こり始めます。これは絶対に経験して頂きたいことです。 人に言ってあげても聞いてくれない、そんなことは多いものです。正直いって腹もたちます。しかし腹を立てちゃいけません。まわりの人に言っているうちに恵みはあなたに返ってくるんです。 そのようにして1か月もたつと、あなたのまわりに何かしら、すばらしいことがポッポッ、ポッポッとおこってくるんです。 そしてあなたの心には喜びが溢れてくるんです。これは単なる理論ではありません。実験ずみの事実であります。あなたも、これを実験してみて下さい。(ここで「実験」と言うのは、試しのテストではなくて、実際に経験することを指します)。 あなたが神様の恵みを人の前に言い表わすとき、イエス様はあなたに神様の恵みを豊かに注がれます。感謝と喜びを言い表わす時、さらに感謝と喜びが倍加するんです。 * 「喜びを言い表しましょう」ということを、最も簡単に、そして最も実践しやすいこととして、私が提唱したのが「さあ、笑いましょう」でした。「笑えば必ず幸福になる」という小冊子を作ったのは10年前のことですが、たしかにその頃から「笑いましょう」という声があちこちから起こり始めました。 「笑えば病気が治る」と言い始めたのはノーマン・カズンズだというのが定説かも知れませんが、日本では、既にその前に「生長の家」の谷口先生が言い始めたのではなかったかと思います。 聖書の中で、イエス様は一度も笑っていないという説もありますが、どうしてどうして、福音書を読むと、イエス様は随分、笑ったんじゃないかと思います。それにイエス様は、どうも宴会好きのようですね。お酒も飲んだようですよ。パリサイ人たちのイエス様への非難の言葉が、それを語っています。 「見よ、あれは大飯喰らいの大酒飲みだ」。まるで、愉快に楽しく、庶民と一緒に宴席にいて、ワッハッハハとやっているイエス様が目に見えるようじゃありませんか。 72人の弟子たちが各地への伝道に派遣され、帰ってきてイエス様にその報告した時の、イエス様の喜びのご様子がルカ10:21に書き残されています。こうです。 「その時、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、云々」。この「喜びあふれて」という言葉は原語では アガリオー となっています。驚喜乱舞せんばかりの喜びをさす言葉です。 イエス様は決して踏み外すことはないが、喜びにも怒りにも、その感情を隠す事はありません。イエス様は感情を押し隠して行い済ました聖人君子のような振舞をしていたわけではありません。全くの自由人、天真爛漫です。 イエス様がパリサイ人たちに対して不愉快の思いを抱かれた時のご様子を、「聖書では馬がヒヒヒーンと歯を剥いて怒っている動詞で書かれてある」と、塚本虎二先生の文章で読んだことがありますが、もしイエス伝の映画を作るとしたら、こういう時の俳優さんの演技には監督もご当人も頭を悩ますでしょうねえ。 イエス様は決して虫も殺さぬような柔和一辺倒の方ではない。イエス様は泣いても笑っても怒っても純心無比である。 ともあれ、私たちは決してイエス様のようには、純心無比、豪快な感情放出は出来もしないでしょうが、でも、こういう点も、トマス・ア・ケンピスの本の題名でないが、「キリストのまねび」でもって、イエス様の跡をお慕いしたいのです。 * それにしても、「人は悲しい時に泣くが、泣いていると悲しくなる」と言った人が、明治時代にすでにいたように思う。ひょっとしたら夏目漱石かも知れない。 私も真似して言いたい。「人は嬉しい時、愉快な時に笑う。だから又、笑っていると嬉しくなるし、また愉快になる。だから、さあ、皆さん、笑おうじゃありませんか」と。 こういう時に実は、良い意味で扇動者がいる。私は実はこれを、小学校の時に知った。私が習ったのは当時のわが親友・安部勝美である。彼は無類のアジテーターだった。あの頃、学校で時おり映画を映してくれる時があった。彼は、そういう時、画面に日章旗がはためいたり、軍艦が波を蹴たてて行く時、すかさずパチパチと拍手する、すると他の生徒たちはつられてパチパチとやる。彼は得たり賢しと、鼻をうごめかして満足している。彼を見て私は子どもながらに、やや不愉快で、しかし感心しながら見ていたものである。 戦時下、彼は福岡空港から単独で平服を着てフィリピンに行った。そして一般市民への宣伝活動をやったらしいのだが、戦後彼の戦死情報を聞いた。 ともあれ、不愉快な扇動者もいるが、良い意味での扇動者、みんなの心を鼓舞し、「ワッハッハ」と笑わせる力量はあって良い。私は招かれて、ごく常識的な一般講演の時でも、壇上に上がるや否や、一発「ワッハッハ」とやる。聴衆は気を呑まれて思わず「ワッハッハ」と追随する。こうなれば、しめたもので、もうこっちのものである。聴衆は次は何が出るかと、固唾を飲んで待っている。 「祈りましょう、伝道しましょう。路傍伝道に行きましょう。嬉しいですよ、元気が出ますよ。誰もできます。あなたも出来ますよ」。こういう誘導的激励、称賛をもって、誘い込む、皆の熱気はワッと高揚するのです。《く》 *連載中の「救の確信」は休載します。 ▲
by hioka-wahaha
| 2008-08-05 17:19
| 日岡だより
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