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No.322 信仰の言葉を口に出して唱えましょう 2008.3.2

信仰の言葉を口に出して唱えましょう

 ここ数年、「感謝します」、「ありがとう」と口にする習慣をつけると、運が向いてくる。幸福になる、という人生哲学の声をよく聞くようになりました。これは事実、本当であり、また正しいのです。
 だからと言って、聖書の水準から言うと、少々批判を必要とします。いいえ、うっかりすると、信仰の重要点で道を誤る危険性もあり、注意が必要です。
 人生は唯々幸福であればよいというわけで、そういう幸福哲学は昔からあったわけです。それを高度に作り上げた名品は生長の家です。この教えの源流はアメリカに生まれた人生肯定・生活再建のアメリカらしい明るい哲学です。そのことは谷口雅春先生の自伝に正直に書かれています。
 戦前、私の母は当時の新聞一頁広告の生長の家の宣伝を見て、「これはよい、キリスト教そっくりだ」と感心したものです。まだ小学生だった私が反対して、「母ちゃん、違うよ。この宗教には十字架が無いよ」と言ったら、母はビックリして、「お前は偉いねえ」と感心していました。

 生長の家を始めとして、創価学会等、日本の近年の市民宗教は「家庭人や市民、職業人としての生き方、考え方講習会」です、それに大なり小なりの日本的スピリチャリズム、祖先崇拝等を加えます。
 こうしたゴチャマゼの教義の上に、実践面として言葉の力を高唱します。生長の家では日常生活での言葉の使い方、創価学会ではお題目をガンガン唱え上げて心理強化です。
 私は、これらを茶化したり批判する気持ちは毛頭ありません。それなりに正しいのです。たとえば、先ほどの「感謝します」の活用を例にとりますと、生長の家では、そのごく初期、戦前に既に、「感謝します、感謝します」と言い続けているうちに、当時では不治の病であった肺結核がケロリと治ったなど、奇蹟的な結果を生まれたものです。
 そして、明るく生きましょうと言うわけで、天理教では「陽気ぐらし」を高調しましたが、事実「陽気ぐらし」で病気の貧乏も蹴とばして幸福に生きた信者さんは多かったのです。
 しかし、先に私が母に言ったという、「あの人たちの宗教には十字架が無い」ということは、何を示すでしょうか。

 人間はだれでも、自分が悪い人間だと知っています。「いいや、わしは悪くない」とか、「みんなもしているんや」などと、言い訳をしてみても、それはみんなウソだということは自分で知っています。ただ黙っているだけです。
 「人間はなぜ、苦しまねばならないのか、これは人類の歴史と共に古い問題だ」とカントはその宗教哲学の序文で言いました。しかし、私はあえて言います。「人間が悪を犯すこと、これこそ更に古い問題である」と。
 聖書に従えば、こう言えます。「人間は初め、神の命令に背いた。その時より、人の心に罪が宿った。それ以後、人間は悪を犯さざるを得ない存在になったのである」と。さらに聖書は告げる。
 人類はアダムの罪以来、呪いの下にある。ここに人間の苦難の源がある。その原因は神に対する背きである。人は言うかも知れない。「そのエデンの園の物語は無知の人を言いくるめる古代の宗教家たちが造りあげた子どもだましの物語である」と。
 しかし、人はだれでも知っている。我々の自分の行為は悪いが、心はさらに悪い。なぜ、こんなに悪い心が起るのか、簡単には理解できないが、とにかくそれは我々人間の存在そのものにくっついて生まれて来るものらしい。
 それならば、自分に責任がないのかというと、どうもそうではない。だれでも自分の罪や悪には責任を感じる。それは、先験的(生まれる前から持っている本能的)な感覚らしい。
 たとい意図的でなくて、過失によって人を殺したとしても、だれでも「私が悪かった」と罪を感じて苦しむのではないか。これを感じないという人は、自分で自分に嘘をついているだけのことだ。
まして、母親が誤って子どもを火中に取り落して死に至らしめたとき、「お母ちゃんが悪かった、坊や、赦して」と泣かぬ親はあるまい。こうしてみると、罪意識は人類の根源的自覚である。

 自分で修養し、修行し、善行をして、自分を守って行けば、人格も完成して、老人になるまでには、なんとかなると考えている人もいる。しかし、それはまったくのごまかしであって、不可能であろうことは自分でもよく分かっている。
 お釈迦さんや孔子さんは、その人格の完成度まで修業し悟ったのではなかったかと言う人もあろうが、そのことは今回は考慮に入れないことにする。(考慮に入れたところで、目下のところ我々通常の人間の参考にはならないから)。
 人間が、どこまで、聖い人になれるか、向上できるか。完全に、それができるものか。それは、どうも不可能らしい。人間はその犯す愚かな罪や汚れから、どうしたら脱出できるか。この問題に血みどろになるまで考え尽くしてゆくと、魂は遂には蟻地獄か、無間地獄に落ち込んでしまうのである。
 日本のすぐれた宗教家、法然や親鸞はそこにぶち当たった人だったと思う。「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし(難しい)、虚假不実のわが身にて、清浄の心もさらになし、悪性さらにやめがたし、心は蛇蠍(へびやそり)のごとくなり」、と親鸞さんは述懐している(親鸞和賛より)。
 だから親鸞は言う、「いずれの行も及び難き身なれば」、「よき人(師の法然のこと)の仰せ被りて信ずるほかは別の子細(わけ)なきなり」ということになる(いずれも歎異鈔より)。
 蓮如の十四代の子孫である亀谷凌雲さんは真宗王国北陸の寺の跡継ぎでありながら、クリスチャンとなり、あまつさえその故郷で牧師になった人だ。
 この方は仏教を愛し、尊敬した。しかし、ご本尊たるべき阿弥陀如来の実在がさだかでない。阿弥陀如来はどこか、追及しているうちに聖書にぶっつかった。そして初めて本当のご本尊、その実体はイエス・キリスト様であることを発見した。凌雲先生はこう言っている。「仏教は尊い真理の影、本体はキリストにありと翻然として、私は目覚めた」と。

 人の罪を解決してくださる方はイエス・キリスト様しかいない。イエス様は端的に言えば、神様ご自身である。この方が、人類の罪のために身代わりとなって死の呪いを受け、十字架の上で死んでくださった。そこで私たちの罪は基本的に消える。
そして、この方を信じるだけで、その消罪の事実が私に実現する。更にイエス様は、墓の中からよみがえり、死に打ち勝ちたもうて栄光の生命を私たちに約束された。この命の力こそ、私たちをあらゆる悪魔の誘惑、攻撃から護ってくださる力である。
 しかも、このイエス様は天に帰り、父なる神の権威をまとって天と地とを統べ治められる。また地上に聖霊を送って信者たちを力づけ、品性をととのえてくださり、そして新天新地を用意して再び地上に来て下さる。
 私たちは、この方を信じるほかはない。天の下に私たちを救い得る名はイエス様しかない。この方を「主よ!」とお呼びしよう。そして「私のうちにお出でになって下さい」とお呼びかけしよう。
 これを、口に出して言おう。これが私たちの信仰の究極的実践方法です。すべての善行にまさる信仰の実践です。
 これが「信仰の告白」です。多くの場合、「告白」とは「罪の告白」ですが、本当に一番大事な告白は「信仰の告白」です。つまり信仰の言葉を口に出してはっきり言うのです。もう一度言いなおすと、信仰というより「信念」の言葉を口に出して唱えよ、と言いたい。そうしたら、強固なる「信念」を持った信仰の人になるのですよ。《く》
by hioka-wahaha | 2008-03-04 12:14 | 日岡だより
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