神より賜る信仰
石原兵永の「回心記」を読むと、彼は病気をしたわけでもなく、失恋したわけでもなく、経済的破綻に陥ったわけでもない。ただ、自分の内心の罪と悪の心に気づいて、それに七転八倒するほど苦しむ。禅宗風に言えば大疑団を生じ灼熱のごとく苦しむのである。(石原兵永は内村鑑三の即近の弟子) そして、ある瞬間、聖書の一句によって意識が逆転して自分がキリストにあって神様の赦しの領域にはいっていることに気づく。その一瞬の経験を石原兵永は一行の空欄で表わしてある。その次の行には歓喜乱舞して「罪の赦しと救い」を叫ぶ文章がつづく。私はその空欄の箇所の紙をやぶってその裏をのぞいて見たいほどであった。 私の伝道の初期、私はまだ25、6の青年にすぎなかったが、私の信仰指導を受けた人は皆、この石原兵永の「回心記」を読まさせられたものである。そして諸君も同様に、その空欄の箇所を掻き裂きたいという切なる思いにかられたと聞いた。 その一瞬を体験すると、それが如何に神様から来る実に一方的な恩寵であるかという感慨にとらわれる。そして、信仰とはまさしく神様よりの賜物であるということが実感できるのである。 ビリー・グラハムの本を読むと、グラハム自身は上述の瞬間的回心であったが、彼の奥さんの回心は大廻りのゆっくりした回心であったらしい。瞬間的回心は「神様の恩寵のみによる信仰」という確信を持たせてくれる点ではモデル的である。 しかし、大廻りの回心の人も、確信を得てしまうと決して瞬間的回心の証しを聞いても動揺しないし、嫉妬も起こらない、同じ信仰を頂いていることを共に喜ぶものである。これも素晴らしい。 * 神様より賜わる信仰、という言葉は聖書には多くはないが、ピリピ人への手紙第1章29節に分りにくい形で出てくるし、また使徒行伝第3章16節などである。ここには「イエスによる信仰」とある。なお、ガラテヤ2:16の「キリスト・イエスを信じる信仰」は原語では「キリスト・イエスの信仰」と属格で表されていることにも注意。 しかし、聖書のほかの箇所で、神様の無茶なほどの一方的恩寵を示す言葉が出る。善も悪も成さぬ生まれぬ先から神はヤコブを愛しエサウを憎んだとある(ローマ9:13)。エレミヤに対して「私はお前を母の胎に造られぬ前から選んだ」とある。 これらの事象を傍観的に見ると、神様のなさることはえこひいきもいいところで、いい加減やなあ、と思わせられる。しかし、あなたがもしヤコブ本人であったらどうであろう。感泣するはずだ、あなたがもしエレミヤだったらどうだろう。号泣して感謝するほかはない。 聖書を読むとき、傍観者的態度で読むならば納得しにくいところがたくさんある。しかし、ヤコブやエレミヤをあなた自身のこととして味わってごらんなさい、神様が他をしりぞけてあなただけを愛してくれている、その愛に目覚め感動するわけだ。 時間論でいうなら、孔子のように河のほとりに立って水の流れを見れば「逝くものはかくのごときか」と過去から未来へと流れ逝く時間を傍観するのみだ。しかし、ペテロは「主のみ前から休息の時が来る」(使徒行伝3:20)と言う、つまりペテロは神の前からやってくる休息の時間の中に自分が取り巻かれていることを体験しているのだ。この時、ペテロは傍観者ではなく、全身その只中にいるのである。 自然や宇宙を傍観者として見れば、単に美しい、壮大だ、というだけだ。しかし聖フランチェスコのような人がこれを見るとき、「おおわが兄弟なる狼よ、おおわが姉妹なる小鳥よ。おおわが兄弟なる太陽よ、おおわが姉妹なる月よ」ということになる。聖フランチェスコは自然や宇宙の只中にいる。そして同じ命に生かされているものとして同胞感を持っているのである。これはまさしく、イエス様から来る自然観、宇宙感(!)だろうと思う。だから又、パウロは言う、「人の罪の故に自然は今に至るまで、共にうめき共に苦しんでいる」(ローマ8:22参照)のであると。パウロの自然観は自然との生命的意識的連帯感がある。(この連帯感がなくては本当の環境問題意識は湧いて来ないであろう)。 つまり、今私が言いたいのは、私たちが一旦イエス様に罪を赦され、罪の世界から救われて、神の子としての身分を与えられたとき、私たちは神様を相対者として仰ぐのではなく、その中に入れられてふりかえって仰ぎ見るのである。 イエス様が幹であり、私たちがその枝であると言われるイエス様ご自身の例え、またキリストを頭として私たちはその肢体であるというパウロの例え、これらの比喩のなかに、以上に書いてきた真理が語られている。私のうちにキリストが生きておられ、私は神のなかに生きているのである。 * やや、いそがしいエッセイになりましたが、先を急ぎましょう。 信仰は神様からの一方的な恩寵による贈り物であり、私はその恩寵により神様の命のなかに生かされているのである。そうすると、わたしの命の源は神様にあるのであり、私にあるのではない。 脳死問題が時おり論ぜられるが、ある人はいう。脳が死んだら、もう意識はおろか、他の機能もすでに互いの連絡も閉ざされ、その人はすでに死んでいいるのであると。これには一応の説得力はある。これに反対するには現代人の論理ではむつかしいのかも知れない。 しかし、脳が死んでも、体はまだ生きている。この現実は厳粛である。つまり細胞はまだ生きているでないか、ということである。そして、この死体が時には現実に蘇生することすらある。 人間はその人全体が一体であって、頭脳だけが人間の中心である、他はどうでもいい、という存在ではない。 それはともかく、旧約聖書では、墓に葬られた預言者エリシャの骨に触れたアマレク人は蘇生した。ペテロの影や、パウロのハンカチに触れた者の病気は癒された。エリシャの残した有機物やペテロやパウロの持ちものにさえ、彼らの霊的生命は溢れ出て及んでいた。 こうした霊的生命は、先ほどの脳死問題に引き返すが、脳が死んでも尚、彼の当体には生きているのだと言えないだろうか。 大正、昭和の作家にして思想家、倉田百三の痛烈な質問、「もしピストルの玉があなたの頭に打ち込まれ、あなたが意識をすっかり失ったとする。その時、あなたの信仰はどうなるのだろうか」。この問いに答えることのできる人は少ないだろと思う。 もちろん現代人の論理でなっとくできるように解答することはむつかしい。しかし、いま現にイエス様を信じ、永遠の生命を信じている人が、これに答えてくれなければ、これは困る。 しかし、私がひとたび聖霊様により「アバ父よ」と呼び、「イエスは主なり」と主を告白した以上、私の意識が消えた時も、私の永遠の生命は神様の支配下にあり、私の恣意、条件に関係なく、私の信仰とその生命は確実に主の御手の許に永続するのである。《く》 (1994.12.11 週報より「もしピストルの玉が脳に打ち込まれたら」(4)を修正再掲載) 〔あとがき〕 私はしばしば憂欝になります。私は若い時、すべて真実の人は悲哀の人だと思っていました、そして悲哀の人はたいてい憂欝なんだと思っていました。だってイエス様の絵を見ても、たいてい悲しそうな顔をして居られますのもの。それで、よく悲しそうな顔をして、道を歩く時もうつむいて歩いたものです。その習慣が今も残っていまして、時おり憂欝になっています。そのことに気がつくと私は自分の心に命令します、「愉快になるんですよ。そうです、憂欝の霊よ、出て行けっ」と叱るんです。そして、「ワッハッハハハハ」と笑うんですよ。大きな声で笑うんです。憂欝な気分は一返に吹っ飛びますよ。ハハハハハハ。《く》
by hioka-wahaha
| 2007-09-04 22:52
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