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No.274 (旧作)神兵演歌 2007.4.1

(旧作)神兵演歌

(一)おいらのイノチは神のイノチ
   神のイノチが躍動すれば
   ちっちゃな人生ひっくりかえり
   悪魔けちらし再発進

  (補)なりはやくざにやつしていても
     月よ見てくれ血潮のにしき
     生まれかわって天与の水に
     生きる男の晴姿
        (勘太郎月夜唄模作)
(二)人を愛せば命を捨てろ
   国を愛せば家をも捨てろ
   金も名誉も友さえいらぬ
   神と一つに生きる道

(三)前進前進一歩も引くな
   神の兵卒くじけちゃならぬ
   御霊のほのおに焼きつくされて
   神の御国の成る日まで

 これは1970(昭和45)年の秋、宮崎旅行の帰途、バスの中で作詞した演歌風の賛美歌です。ちょうど、ある団体で新賛美歌の募集があったので、さっそく応募してみましたが、案の定ボツになりました。私がつけた下手な曲もありますが、冗談に昔の流行歌の勘太郎月夜唄で歌ってみることもあります。どなたか、よい曲をつけてくれませんか。
 今回、古いファイルを開いて見たら、この神兵演歌と次頁に載せた小文が見つかりました。同じく1970年に書いた日記風の一文です。お読みくだされば幸いです。《く》


キリストの生命

 〔1970(昭和45)年8月17日〕
 昨日の日曜礼拝、何という情けない説教であったろう。こんなフの抜けた説教をしていては、一人として心を動かすことはあるまい。
 さはあれ、思いなおす。今日よりの私は、生き返りたるものの如く生きよう。私がどのような者であれ、私をこえて私自身でありたもうキリストの実存に生かされ、はばたいて頂こう。

   「私の内に活きて下さるキリストさま
    私以上に、より私でありたもう方!
    私の内にあって、私ならぬ私自身
    私をして私ならしめ、私を活かし、
    私を発動させるキリストの実存!」

 故に昨日まで失敗しつづけて来た、この私に心を残す必要はない。欠けの多い弱いこの私に気を使うことは一つもない。私は、我がうちにある新しい、日毎に新しいキリストの生命に、目を見開いて驚きと賛仰と従順を以って心を寄せる。
 だから古い私、これまでの私の抜けがらに心をとめない。私は信仰を以って私の内にあるキリストの生命を拝する。
 大いなるかな、この我! 信仰を以って結びつき、生命を溢れさせて頂く、この新しい生命よ。
「キリスト、我が内にありて活くるなり」。
 古い抜けがらが、どれほどボロボロであろうと、腐っていようと、構わない。
 毎日ボロボロ剥がされ、恥をかき、みにくい汚れを落ち葉のように我が身の周りにまきちらそうとも、私は内にあるキリストの生命に眼を向ける。私の視線は私の外に行かない。私の内に向く。パウロは言う。
 「外なるものは崩れども、内なるものは日々に新しい」と。その「日に新たなる内なる生命」を我は信じるのだ。一切を革新し、一切に新生命を与えるキリストの生命であるのだ。《く》

 
「口ぐせ」の力

 佐藤富雄という学者さんがいる。医学博士や理学博士、農学博士の博士号をお持ちである。と、言っても硬苦しい方ではない。面白い方である。
 よく本を書いている。「積極人間は早死にする」などいう変わった本もある。何か分かるような気がする。積極思考を学ばれる人たちは、ご参考に。
 皆さんに紹介したいのは、この方の「あなたが変わる『口ぐせ』の魔術」という本である。私はこの本を先年、四国に渡る船の中で読んだが、正に面白くて、為になる。時間のたつのを忘れた。
 さて、話変わって、最近「ツキを呼ぶ魔法の言葉」と称する、五日市剛さんという方の提唱が有名になってきた。ユダヤのおばあちゃんから教えられたという「ありがとう」、「感謝します」という2つの言葉を適切につかうアイデアである。
 この言葉で幸運が舞い込んできた体験談、キリスト教会で言えば「証し」だが、それが五日市さんの所に山のように送られてくるらしい。私としては、なんともうらやましい。残念である。どうしてこういう「証し」が教会に起こらないのかなあ。
 考えてみると、これこそ「口ぐせ」の効果である。そして私たちクリスチャンこそ、良い口癖を持たねばならないと思ったのである。
 とは言え、しばしば聞くクリスチャンの口癖は一般の人たちに嫌われることも多いのである。何かにつけ、「神様のお恵みでございます」とか、「祈りが聞かれました」などというたぐいの言葉は、クリスチャンでない人々にとっては、取ってつけたような、言わば偽善めいた臭みを感じることがある。
 この臭味を消すのには短い「口ぐせ」の言葉の方が良いだろうと思う。これは私の提案である。
           *
 短い言葉を間投詞のように使うのである。「楽しいですね」とか、「わあ、凄い」とか、「良かった、良かった」とか、こういう短い言葉を適当に会話のなかに挟んでみるのである。
 各フレーズの合間に、時おり入れてみるとよい。長いフレーズの口癖というものは、「ああ、又あの話?」と嫌われかねない危険がある。「いつものご自慢ね」というたぐいである。
 しかし、間投詞のような投げ込み言葉は嫌味でない。飽かれない。却って会話のはずみになる。テンポを造る。ひとくぎりのお話しの前に、その途中で、最後に、ちょっとつけ加える。「嬉しかった」。「聞いたわよ、良いお話し」。「可愛いわね」。
 こういうのでいい。もちろん、「そう、そう」とか、「うん、うん」という相槌は誰でも知っている便利な言葉。(うなずくだけでも良いのです。相手のしぐさに同調する、このことだけを強調している本もあるくらいだ。)
 良い口癖は、本人自身を明るくする。いいえ、それだけでない。自信を持たせ、強くします。会話だけでなく、自分ひとりで自分を引き立て、明るく陽気にし、強固に健康な気分に、気分だけでない、体を健康にするためにも、自分に言い聞かせる「自己宣言」になります。是非、活用しましょう。《く》

〔あとがき〕
ここにさりげなく書きますが、実は大上段振りかぶって書きたいのです。みなさん、日本を愛しましょう。日本を良い国にしましょう。日本民族を優秀な民族に育てましょう。それは頭脳明晰とか、芸術感覚がすぐれているとか、礼節を重んじるとか、そういうこと以上に、全国民が、神を信じ、イエス様を信じ、聖霊様に満たされた日本人に生まれ変わることです。手束先生のおっしゃる「日本民族総福音化運動」にほかなりません。その熱い祈りを私どもは心を合わせて祈りましょうということです。▼先だって触れましたが、いつぞや東京都知事の石原慎太郎氏が「最近の日本人は劣弱化してしまった。こんな日本人くたばってしまえ」といった調子で、ある新聞で語っていたが、そういう風に日本人を罵ってみても、溜飲を下げても、何も変わらない。それを読む読者たちも「そうだ、そうだ」とうなずいてみても、日本の社会は何も変わらない。私たちは、このやるせない日本人のために祈りましょう、一人一人弱い力でも構わない、祈りましょう、と私がこの「日岡だより」で書いた時から、私の祈りを助けてくれる人々が起こってきた。そして私は言うのだが、「見よ、この頃、日本の新聞から『いじめ』や『いじめられて自殺した』などの記事が姿を消したではないか」。私はノーテンキかも知れないが、「そうだ、祈りは聞かれたんだ」と独りぎめしている。▼それはともかく日本のために祈りましょう。天皇陛下、安倍総理、多くのこの国の指導者の方々、総国民のために祈りましょう。みんな一流のクリスチャンに生まれ変わるように! 《く》
by hioka-wahaha | 2007-04-03 11:59 | 日岡だより
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