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No.263 「ミスター・ヌードル」 2007.1.14

「ミスター・ヌードル」

 先日、安藤百福(ももふく)さんという人が亡くなった。90歳を越える高齢であったと覚えている。各社の新聞にかなり大きく載った。みなさんには、ご存じの人だったろうか。本当は多くの方々に縁の深い人だったはずです。この人について、数日前、アメリカのニューヨーク・タイムスの社説(一般記事ではない。社説ですよ!)に載っていたそうです。題して「ミスター・ヌードル」と。
 安藤百福さんって、そも何者? その社説では、こんな風に書かれていたという。
 「世界中の1億人が毎日食べているカップヌードルの開発者、日清食品の会長・安藤百福氏がさる5日に逝去された。日本ではホンダやソニーのような会社組織が生み出した奇蹟は多い。しかし、個人の力で発明し、それを世界の国民食にまで成長させた、これは驚くべき奇蹟的成功の人である。彼は人類の進歩のパンテオン(古代ローマの神々の神殿)に永遠の場を占めるであろう」とさえ誉めあげていたそうです。(それは少々誉め過ぎだよ、と私は思いますが、大衆感覚を重んじるアメリカの新聞らしいですね)。
           *
 低開発国の大衆の間では安くて食べやすい貴重な食品として喜ばれ、先進国の大衆の間でも手軽なおいしい食品として広く愛されたチキンラーメンやカップヌードルの発明者として、我々には縁の深い方だったのです。
 ところで、私たち人類の最大の尊い食物は、神の言葉です。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る、一つ一つの言葉で生きるものである」とイエス様はおっしゃいましたが、またそのイエス様は飢えた五千人の大衆にパンを裂いて与え、これを満腹させられたのでした(マタイ14:20)。
 神様の言葉をおいしく食べやすい食品として、カップ・ヌードルのように、人々を満腹させる適切な伝達方法はないか。私は今の「テレホン聖書」を中身も器(うつわ)も改善して日本中の、また世界中の人々に、み言葉を満腹させたいと、昨日のテレホン聖書で語ったことでした。《く》

 
私の誕生の記録 

 私は1922年1月14日に生まれた。だから、今日は私の誕生日である。1月14日は又、私の尊敬するアルバート・シュバイツァーの誕生日であるので、私はこの偉大な人物と同じ日に生まれたということで、どれほど嬉しく思ったか知れない。
   20歳の頃、私は2階のベランダに出て大きく息を吸いなが
  ら、今吸ったばかりの空気の中にあるいはガンジーやシュバイ
  ツァーの吐いた息がありはしなかったかと思って一人で感激し
  たくらいである。ガンジーやシュバイツァーの吐いた息はある
  いはインドやアフリカから偏西風に乗って極東の日本まで、そ
  の1分子くらいは来てもよさそうなものだと当時の私は思った
  のである。
 ともあれ、私にとり1月14日は誕生日だというだけでなく、特別な日なのである。私の父は釘宮太重(この名前はタジュウと読む。妙な名前だ)という。大分市稙田の下宗方の生まれ、母はツギ、大分県宇佐市上田の生まれ。もっとも今こそ市制をしいているが、当時はいずれも辺鄙な田舎の百姓の出である。
 父は小男で醜男、母は体格もよく美人であった。しかし、気っぷは父の方が雄大で歯切れがよく、母の方は小心でしっこいほうである。母が31歳のとき(父は母より6歳上)、私は生まれた。母にとって私は初産だったので、少々高齢である。そのお産は周囲の者に大変危険視された。
 私が生まれた日は一日中冷たい雨が降っていたそうだ。私が生まれた直後、父は病院(大分県立病院)の産婦人科の科長に呼ばれた。父は何ごとならんと恐る恐る産婦人科の先生のところまで行った。当時の県立病院といえば県下最高の医療機関であって、その頃産婦人科科長は吉川博士、今、大分市中島で開業している吉川先生の祖父にあたられる方だ。さて、その先々代の吉川先生、私の父を呼んでなんと言ったか。
 「釘宮さん、覚悟して聞いてください。今度生まれた赤ちゃんは、うまくお育ちになれるかどうか、大変心配です。というのは、今のところは何でもないようにみえますが、しばらくすると多分血管が凝固する病気が表れてくるでしょう。大体、冬の寒中の雨の降る日に生まれた赤ちゃんによく起る病気です。百万人に一人という病気ですが、そうではないように祈っています。出来る限りの治療の努力はもちろんいたしますが、あなたもクリスチャンですし、ご気性がしっかりなさっておられるようだから、あらかじめお知らせしました。奥さんにはまだしばらく黙っていてください」
 今の医学の病名で言えば何というのだろうか。父が書き残している「光暗録」という遺稿集では、ただ鞏硬病とのみ記してある。
 父は驚いた。そして恐怖した。失神しそうであった。しばらくして持ちなおした。神様を仰いだ。すぐに母のところに行った。そして吉川科長の忠告にかかわらず、すべてを母に告げた。その時、気の弱い母がどんな様子であったか、私は知らない。
 母はよくこの話をしてくれたが、考えてみるとその時の母自身の心理状態について聞いたことはついぞなかつた
             *
    以下は、父の記録である、彼の遺稿集から転載した。(仮名遣いや熟語などは現代用語に代えた)。
 私(父太重のこと、以下同様)は結婚して8年、37歳の今日まで子どもが在りませんでした。大正11年の新春を迎えて、妻は出産をなすべく、大分県立病院に入院しました。
 30歳を越えての出産のこととて、周囲の者一同口に出しかねて心配しておりましたが、14日午前11時から陣痛が始まり、同日午後2時、僅々3時間にて案ずるよりも産むがやすきとて、男子が出生いたしました。産後の経過もたいへん良く母子ともの健全、喜びの声に満たされておりましたところ、果然、17日正午、病院よりの急報あり、病院に産婦人科々長を訪ねたのです。
 あたかも囚人が法廷に宣告を待つかのように、科長さんの口から出る言葉を聞くは恐ろしく、聞かねば落ち着かず、一種異様の心理状態で落ち着けない。躊躇しながら聞けば、嬰児は今は、健康のように見えるが、実は「鞏硬病」とかいう病気で到底、2、3日か、長くて1週間くらいの命だと思うので、取り敢え予告するとのこと。病院としても、万一を期待して十分の手当はしますという。
 どんな凶報かもしれないと予期はしておりましたが、我が子を目前にしてはっきりと死の宣告を受ける時、私は押えがたい驚きと悲しみ、親として子に対する情愛が湧然として起こりました。折角、生まれた子どもです。出来得ることならば、何としてでも命を保たせたい。
 妻には秘密ということでしたが、私は思いきって、妻にもこのことを知らせ、共に祈り、病児の短い生涯の親として、出来る限り彼を愛し力を尽くして、彼を看護し、たとえ死ぬるにしても生きるにしても、熱誠に神にすがり祈ることが一番大事なことなのだと思ったのです。
 病児の顔を見れば、両親の顔も愛も知らず、安らかに眠っている。ああ、可愛いただ一人の我が子よ、汝は今、我らの手よりはなれて、一息一息、天国に近づきつつあり、ああ、幼き魂は天の父のもとに帰りつつある。私はもちろん、天国もその栄えも望みも信じている。しかし、私は彼を死なせたくない。我が子として育てたい。私は泣かずにはおられない。私は祈りました。
 「ああ、主よ、あなたは私に一人の男児を与えたまい、然して又、これを取り給うか。主権者である主よ、私は従順に服従します。すべてを御手に委ねます。ただ御旨のままになし給え。もし、アブラハムがイサクを燔祭に献げたるがごとき試練を我らに試み給うか。願わくば信仰の弱き僕をかえりみ給え。
 ラザロを甦らせたまいし主よ、私ども夫婦にマルタ、マリヤの如き信仰はなくとも、一度与えたまいし幼子を願わくば取り去り給うことなかれ。主よ、かかる祈りは御旨に叶わぬかも知れませんが、出来得るならば、この苦き杯を取り去り給え。御憐れみを豊かならせたまえ。又もし、幼子をこの世より取り給うことが、御心であるならば、その真理のあるところを我らに悟らせ給え。我らの涙をぬぐい給え。主よ、御心をなし給え、アーメン」。
 私はその晩も、翌日も、来る日も、また翌日も、苦しい悲しい時を過ごしまして、ただ「ラザロを甦らせたまいし主よ」と祈りつづけました。
 1月20日、悲痛な思いのうちに「義人」と名づけ、親族や知己へ誕生、命名、病気のことを報じまして、お祈り下さるようお願いしましたところ、熱誠なる同情をもって多くの方々から祈りと慰問の電報や手紙を頂き、拝読するたびごとに皆様のご親切に感泣しました。かくまで、多くの人々がお祈りくださるならば、かならず主は聴き入れ給うならんと堅く信じました。
 21日、病院の報告は「足部のかたまりが取れて、母の乳を飲み、便通もあり、回復の曙光を認めた」とのこと。ああ、主よ。感謝し奉る。死者を甦らせ給う主よ、感謝し奉る。
 翌、22日、胸部、顔面等の患部も平癒し、乳もよく飲み、元気回復、ますます有望とのこと。
 25日に至り、もはや生命に別条なし、大丈夫とのこと、御恵みの主よ、感謝し奉る。
 聖句には、「正しき者の祈りは力あるものなり」と教えられていました。しかし、み恵みの主は、私ごとき不義の僕の祈りをも聴き入れ給い、九死のうちにある幼児を救い出し給い、生の望みを与え給うとは……。
 聖書に「誰か、その子、パンを求めんに石を与えんや。魚を求めんに、蛇を与えんや。然らば汝ら悪しき者ながら、善き賜物をその子に与うるを知る。まして天に在す父は求むるものに善きものを与えざらんや」と主の御言葉がありました。
 ああ、主よ、祈りを聴き給う主よ、御恵みを感謝し奉る。1月29日、母子ともに健康を回復しまして、御祝福を感謝しつつ退院しました。(釘宮太重遺稿「光暗録」より)
          *
 私は母より、このことはよく聞いていた。父は私の7歳の時、天に召された。父は実に信仰の人で、温厚で愛に富み、かつ勇気と決断力に富んでいた、私は子どもながら、父を尊敬していた。
 今回、初めて父の文章を一字一字写し取って行くとき、父の心が手に取るように分かる気がした。泣けて仕方なかった。
 私は神様と、父の愛に活かされたんだなあ。と改めて感じ入ったことです。《く》

〔テレホン聖書について〕
 第1頁の記事の最後のところで、テレホン聖書のことにちょっと触れましたが、しかし最近の小生、本文にも書きましたとおり、今日は85歳の誕生日ですから、まあまあ年ですよねえ、せっかちになりました。だからでしょうか、テレホン聖書の語り口がとちる。口も舌も、うまく廻らない。昨日は、わずか4分そこそこのメッセージを1時間かかっても終わらない。何度も、何度も、やりなおすのです。
 ぼつぼつ、このテレホン聖書も止める時かなあと思うのですが、それも惜しい。時おり、古いものを再使用することがあります。その頻度が増える可能性も強いですが、ご了承ください。
 すぐ止めはしませんが、このテレホン聖書を更に継続できるように、私自身の霊も心も肉体も健康支えられるよう、ご加祷ください。《く》
by hioka-wahaha | 2007-01-16 13:19 | 日岡だより
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