ホームレスの人々
愛知県岡崎でホームレスの人たちが、若い男の連中に襲われたというニュースを聞く。イジメもここまで来たかという感じです。殊に今回の報道では、その中で、僅かの金まで奪われた被害者は、69歳の女性であったというに至っては、まことにやりきれない思いがします。 ホームレスというとニートくずれの人間の屑のように思う人もありましょうが、こういう中にとんでもない高貴な人がいることがあります。 昔、日本の徳川時代に桃水という僧侶がいました。全くの乞食姿、事実、乞食生活でした。いや乞食以下の境涯とも言えました。肺病の乞食が食べかけて、それを嘔吐して死んで行った。その吐き出した食べ物を手にすくって拝んで食べ、そして本来の坊さんらしく、厚く葬ってあげたという話があります。 * ホームレスとは、家を離れて地べたに寝起きする孤独の人です。 天の父の家から地上に降りてきて、貧しき者の友になり、遂には群衆からも弟子たちからも捨てられ、地上の権力からは散々いじめられて死んで行かれた方、その方こそイエス様ではありませんか。 このイエス様の御足の跡を追ったのが、たとえば聖フランシスでしょうか。私も青年時代、いささかその真似をして無一文旅行をしたことがあります。 私は特に一燈園の西田天香先生に倣って、各戸のお便所の掃除もさせて頂きながらの旅をしたのでした。初期の私の伝道生活では信徒の方にもこの真似を、多少とも、してもらったことがあります。 最近、お便所掃除の奉仕があちこちでイエロー・ハットの鍵山さんの提唱で再開されていますので、私も感慨深く思い出している所です。《く》 究極の意識革命をもたらすもの 一、知 価 革 命 神武天皇いらい、日本の土地の値段は下がったことが無かったと言ってもよい。ところが前代未聞、バブルがはじけて以降、覚えていますか。土地の値段が下がり始めたのです。 あの頃だったでしょうか、堺屋太一さんが「知価革命」という本を出しました。「地価革命」ではありませんよ。「断絶の時代」のドラッカーも同様のことを言いました。 「知識社会の到来こそ、もっとも重要な『断絶』である。21世紀に入ると、更にその傾向は強まるであろう」と。 昔の人でも、労働や経済において知識の付加が生産性を高めることを知っている人はいました。あの旧約聖書のヤコブがそうです。彼は牧畜に知識を加えて元気の良い羊を産ませることをしました。 イエス様のタラントの喩えもそうです。5タラントを儲けた僕は、その労働力だけではなく、その機転の良さ、知識の活用が褒められたのです。タラントを地中に隠して元金のまま持ってきた僕は「なぜ銀行に預けて利息をかせがなかったのか」と叱られています。イエス様の時代に銀行があったとは驚きです。 ミレーの「種まき」の絵ですが、あんな種まきをする人は日本にはいません。ところがマタイ13章を読みますと、種の撒き方がミレー式です。あたり一面にぱっと撒き散らすのです。 だから道端に落ちる種あり、石地に落ちる種あり、茨に落ちる種もありです。日本の農家でそんなことをしたら、叱られるより先に笑われてしまいます。 日本の農家は勤勉もさることながら、知識が豊富です。箱庭のような稲の苗代から、整然とした田植え作業、まさに緻密な知恵の成果です。麦は条撒き、大豆などは2、3粒づつ埋め込んで行きます。かように、労働においても、経済においても、知識を投入して生産拡大をはかることは、昔からしてきたことです。 かくて、人類の文明は狩猟時代から、農耕時代へ、そして職人が生まれ、商人や、金融業が生まれ、蒸気機関の発明や印刷機等の発明により産業革命が起こり、また情報が経済の主柱となってきました。さかのぼると、資本主義が初期の爛熟期を迎え、2つの大戦をまたいで、戦後も既に60年です。核の運用については平和利用と言えども、人類は殖産と破壊の選択がまぎらわしい。 こうして、社会も個人も、物や金の時代が去って知識の時代が来かけていました。それが現代前期だったのだと私は見ています。 今は、政治も経済もグローバル化して地球の気候は温暖化、一種の安定期にもぐり込みつつ、何やら不安を覚えている時代です。 文明の基軸変化のテンポは早い。ドラッカーも言います。知的集約の傾向は更に強まると。ならば、「知価革命」の次に何が来るかというのです。 二、意 識 革 命 その、今すでに来つつある時代を私は仮に呼んでみようかと思っています。それは「意識革命」の時代だということです。そして人類の文明はいよいよ終焉を告げるのかも知れません。 「西洋の没落」はシュペングラーの本の題名ですが、「世界の没落」は誰が描くでしょうか。神様はパトモス島でヨハネを通して世界の滅亡をお見せ下さいました。今、神様は誰かに改めて新しい幻をお示しにならないでしょうか。 それは、至福の千年王国でしょうか。神の国の到来でしょうか。神の子たちの出現ですか。サタンとサタンの子らは地獄に追放されますか。栄光の新世界でしょうか。そういう新時代を伺わせる新しい風が既に吹いていますか、あなたの周辺に。 人類の意識が革命される時、人類の意識がキリスト意識に一転する時が来るのではないか、と思うのです。 そんなことは夢物語か。でも、それこそ人類が待ちくたびれてきた人類の全き解放のあけぼのでないでしょうか。 三、キリスト意識を求める 文明論は一応置いて、私たちクリスチャンの信仰の成長進化について考えましょう。私たちクリスチャンは初め、十字架のイエス様を信じて救われました。それから、引き続いて成長し、変化を重ね、完成へと進まねばなりません。実は、それは簡単ではなさそうです。 たばこの習慣のある人がバプテスマを受けようとする時、「たばこを止めなければバプテスマは授けられません」と言うのは福音ではありません。 そのような心配をする洗礼志願者には、「大丈夫、信仰にはいったら、たばこは自然に止むものです」と安心させるでしょうか。たしかに、そういう例は多いのですが、実際には、そう簡単には行かない人も多くいる。なかなか、たばこを止められない。そして信仰の持続、成長について自信がなくなる。かように、救われたクリスチャンでありながら、その後、相応しい人格形成が出来なくて苦しんでいる人は実際、山ほどいる こうしたことで、聖潔派の陣営や、ペンテコステ派の陣営には、それぞれの派らしい助言や励ましがあります。それらの助言と奨励によって、かなりの成果をあげているとしても、尚、安心できない人は多いと思われます。 熱心な人や、まじめな人、自我欲求水準の高い人ほど、その人の意識がキリストの意識にまではなかなか到達できないので、失望すします、そして欲求不満に陥るのです。 エペソ4:23、24を読みましょう。「あなたがたは、以前の生活に属する……古き人を脱ぎ捨て、心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」と。(この中の「心の深み」という言葉は原語では「心の(属格)霊」となっています)。 これは正しいです。秘訣です。この地上において、クリスチャンは意識の深み(霊)にまで、すっかり変えられて、全き新しい神様に似たつまりイエス様が持っておられたような意識に改変されたいとの熱望、クリスチャンの究極的意識変革です。あっさり言えば、人の意識がキリスト霊に転換変質されることを願っているのです。 それはなんと言っても、聖霊様による意識革命の連続活動によって起こります。 四、聖霊による意識革命 人に対する聖霊様の連続的、階梯的働きを、私なりに整理してみました。次のとおりです。まず、 (1)「聖霊によって」最初の信仰が与えられます。次に、 (2)人は聖霊を受けて信仰による自由感覚、聖潔の秘義を得ます。その次は、 (3)聖霊に満たされて、霊的能力の賜物を受けます。まず異言です。また神癒等の力です。次は、 (4)聖霊に満たされ続けます。それは、品性において大いなる変化、向上を与えます。次は、 (5)聖霊の油注ぎです。主に仕えるそれぞれの働きのため、特別に必要な権威と力を与えられるのです。 この聖霊様からの働きかけに対して、私たちのほうからの応答も必要です。いや実は、初め、人間からの何の願いも欲求も無いのに神様のほうから一方的な働きによって、恵みの賜物として力や、必要な準備が備えられることが多いのですが。これこそ、実は大きな恵みです。しかし神様に対して、熱意ある欲求と祈り、また忠実な応答と積極的服従精神、それらの大きな努力によって仕える時に、更に大きい結果を頂けることも重要な恵みです。 尚もっと、よく祈って、加えて聖書の言葉を告白し続ける、また「主よ、来たりませ」(黙示録22:20)と、日毎に賛美をささげて、再び来たり給うイエス様を待ち望むことを努めましょう。更に大きい恵みにあずかるに違いありません。《く》 (2003.4.24.祈祷会にて語る。03.4.27.「日岡だより」第69号より、字句訂正して再掲載) * さて、ここでつけ加えたい記事、中国から来ている「十字架」というDVDです。今、中国ではクリスチャンが7千万人と言われ、この大リバイバルの姿に接することができます。しっかりした個人的な「悔い改め」と、これに伴う即時の回心によって起こる驚異的な生活刷新の報告です。 一方、私たちは数年前から南アメリカのコロンビアのカリや南太平洋のフィジー島等のトランスフォーメイション(変革)の報告も受けて驚嘆しているのです。中国とは又違って地域的に広がる「土地と民衆と政治」の変革です。これは教会の一致と祈りによって、主の御業をお招きできたのだという信仰を与えられます。 これらの海外からの凄い証言に接します時、改めて、祖国日本の霊的復興のため祈らざるをえません。主の御憐れみを切に乞い求めましょう。《く》
by hioka-wahaha
| 2006-11-28 11:14
| 日岡だより
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