《聖書のことば》聖書暗記コースB~6
キリストの生と死
キリストの代償「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである」
(第一ペテロ三・18)
何といっても、これがキリスト信仰の中心です。キリストの死と生、これが私たちの死と生とに、あたかも血管をつなぐようにして結ばれてくる所に、信仰の秘義があります。これを、裁判での身代りの刑罰のように説くこともあり、商業上の負債の振替のように説くこともあります。捕虜を奪還することのように説くこともあります。要するに、キリストの死生が私の中に再現するのであります。
(1980.8.3週報「キリストの福音」より)
《聖書のことば》聖書暗記コースB~7
神の義・人の義
救いは行いによらない「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」
(エペソ二・8-9)
救いは、人間の行いによらず、神のがわから出る恵みの賜物である。故に、救いは信じた時、その時に成就する。伝道をし、神の律法を守ることは大切ではあるが、救いの条件では決してない。エホバの証人のような信仰の熱心さは、神の義のよらず、人の義を立てている(ローマ一〇・二)のである。キリストを神と信じない以上、この過ちを生じる。
(1980.8.10週報「キリストの福音」より)
《聖書のことば》聖書暗記コースB~8
肉体化された事実
救いは行いによらない「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け……」
(テトス三・5)
行いによらず、信仰のみにより、神のあわれみによって救われる! これは浄土真宗の教えによく似ています。似ているというより人間の救いに関する公式として、同一の真理なのだと思います。
ただし、聖書の主張する処はこうです。
「救済者は現実の人間として、歴史上にあらわれた。そして、その救済の完成の為、十字架上にて死、そして復活された」
「教えのみ」によらず、肉体化された事実こそキリスト教の根本であります。
(1980.8.17週報「キリストの福音」より)