《聖書のことば》
人の罪過を見出したとき
「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい」
(ガラテヤ六・1)
姦淫の女を責めたてているユダヤ人らに、イエス様のなさった態度もこれでした。
「あなたがたの中の罪のない人がこれを打て」
本気で自分を反省すれば、相手を責める気はなくなります。かえって「何か改善の方法はないか」と、相手を正しくしようとする優しい配慮すらわくでしょう。こういう態度なくては、人は変りません。
(1979.7.8週報「キリストの福音」より)
《聖書のことば》
聞こう
「耳のある者は聞くがよい」
(マタイによる福音書一三・9)
だれも耳は持っている、その故に世の声を聞くことはやさしい。しかし、神の声をきくことはむつかしいのです。
今、私の住んでいる処は低い土地で、二、三メートルも地面を掘ると水が出ます。しかし良い水ではありません。ところが三十数メートル掘ると醸造用にも使える良い水が出ると故老は言います。
イサク(族長、アブラハムの子)はすべてのいさかいが終り平和に仇が去った日、新しい井戸をみつけました(創世記二六・32)。
あなたの心の耳からも、すべての喧騒と紛争を去らせ、深い神の声を汲み上げましょう。
(1979.7.15週報「キリストの福音」より)
《聖書のことば》
縁(えん)
「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」
(ヨハネによる福音書一五・3)
キリストの言葉(あるいは聖書のことばと言ってよい)にふれるということは、人生にとって最大の機会です。これは神にむすびあわされる、神よりの撰別の時と言ってよいからです。
日本人には、こういう時、「縁」という言葉が分りやすいかもしれません。ただし、無媒介的な偶然の縁ではなくて、神よりの御意志として撰別された縁なのです。
この縁を「ありがたい」(有ることむつかしい)機会として、初めて聖書にふれた方も是非大事にしてほしいものです。
(1979.7.29週報「キリストの福音」より)
《聖書のことば》
言葉は生命である
「きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ……」
(申命記三二・46)
人間の脳の中でも言語野は他の動物と全く異る。これが人間を人間たらしめる。
言語こそ、ものごとを抽象化し、それを論理的に収納し展開する思想の道具である。
人間の生命が、動物的生命をぬきんでるのは、この言語的生命をもつからです。
そして、聖書は、まことの言葉が神から出て、これが肉体化して人間の中に宿ると言っています。
キリストの言葉が、私の中に宿る時、私の生命はキリスト化し、私の肉体はキリストの枝となるのです。
(1979.8.5週報「キリストの福音」より)