天国はあなたの中にある 「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない」(第一テサロニケ四・13)と聖書にありますが、今晩は故中野ヨシ老姉(中野無限兄母堂)の昇天五周年記念集会でありますから、まず第一に、このように主にあって召された人々のことについて考えてみたいのであります。 この中野の叔母(私の妻の叔母にあたる)とか、私の母などは、実にぐちの多い、愚かなところのある、これでもクリスチャンですかい、というような人達でありました。こういう人達でも、今、確実に神様のみもとに行っているのだと断言できますか?みなさん!(アーメンという声がいっせいに返ってくる)。 日本では、悪人でも罪人でも死んでしまったら、仏さまであるからして、手をあわせて拝んで、もう悪口は言わない。そこで葬式等の仏事の時には、「ここのおばあちゃんは良い人やった」などと心にもないキレイごとを言って場を飾る――、そういう方式で、今日の場合、あの中野のおばあちゃんや私の母などが、今必ず天国におられるのだと、おついしょうを言っているのではダメなのです。 信仰に関して次のような二大原則があります。 一、イエス・キリストによる許しと救のわざは百%完全である。 二、新生せる神の子に対する神の期待は百%の完全性、ゆえにクリスチャンに対する訓練の目標は百%の完成にある。 この第一原則の故に、いかなる弱い不完全なクリスチャンも、完全に救われます。弱さや愚かさも許されます。ですから、どのようなヘナヘナしていたクリスチャンのおばあちゃん方も、イエス様の十字架のあがないを信じている以上、その許しと救いと天国への到達は確実です。 人間は、霊と心と体によって構成されています。イエス様を信じる時、霊は救われます。心で信じ体(口)で言い表わす時(心と体の割礼が行われて聖霊は霊に侵入し)霊は活きます、これが新生です。この時、右の第一原則が果たされるのです。 そこで、次に必要なことは霊によって新生せるものにふさわしく、心が成長することです。心に必要なことは訓練です。これが第二の原則です。 プロテスタント(新教)のキリスト教会の陥りやすい失敗は、信仰のみによって救われると言って、訓練を忘れる事です。信仰のみによって救われるというのは霊の救のことであって、これは先に挙げた第一原則のことです。ところで、霊を包みこんでいる肉と心は、現象的世界に生きています。この世の法則の中に生きていますので、それと戦いつつ生きていく肉や心には「信仰のみ」では解決できない処があります。 第一テモテ四・7、8に出てくる「信心のための訓練」とは、心の訓練であります。心の訓練の為には、肉体の訓練も多少必要でして、それも又有益です。例えば、祈祷の為には祈る精神的決心が必要です。そして、その結果として、肉体の姿勢や場所や時間設定が必要ですね。 パウロは信仰生活を、兵卒の従軍生活や、運動選手の節制や、肉体の鍛錬に比して語っているのはその為です。そのようにして、肉体を打ちたたいて服従せしめ(第一コリント九・27)、肉体の働きを殺す(ローマ八・13)時、霊において獲得された生命の法則(ローマ八・2)は、心をも肉体をも支配するようになるのです。 そんな事は、人間に可能でしょうか。「勿論、聖人級の人には出来ることかもしれないけど、この私にはだめです」などと謙遜ぶることはないのです。第二原則の項目をどうぞ思い出して下さい。「父の完全であるごとく完全であれ」とか「あなたは私の前に歩みて完全であれ」とか言い給う神様の言葉は、クリスチャンにとり、百%可能つまり祝福の言葉として聞かなくてはなりません。この事を、それこそ、「信仰のみ」によって信じるのですよ。 天国は、私たちの只中にあります。今、中野の叔母や私の母が行っている神の御側にある天界の様相を、早々と私共の只中に獲得しなくてはなりません。人間は死ぬと、肉はこの地上にのこり霊は神の国に帰ります(伝道の書一二・7)。心は肉に従わず霊にくっついて天に昇るものなのです。故に地上において実現する天国は、その霊と心の只中にあるべきなのです。 さて、先に「心に信じて義とせられ……」といってローマ一〇・10を引照しましたが、信仰は心の精神力にて理解され意志力によって始まるのでした。天国も、心の理解・意志・情念の中で具体化され、獲得されていくのです。(霊を土壌として例えれば、心はその表土であります。信仰はその根を霊におろしますが、具体的に花を咲かせ、実をみのらせるのは心においてです。つまり具体的天国的建築は心においてなされます)。 心を支配するものは言葉、全身をひきまわすものは舌(ヤコブ三・3)であります。舌で神の言葉を告白し心に御言葉をみたす時、神の思想はあなたの体と心をたがやし、神の領土にふさわしい品性をつくっていきます。確信して頂けますか。あなたは御国の保持者なのです。(一九七九・一・二六 中野家家庭集会にて) (1979.2.11週報「キリストの福音」より)
by hioka-wahaha
| 2016-08-27 12:57
| 週報「キリストの福音」
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