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No.712 聖書を読もう/砂時計の法 2015.9.6

聖書を読もう

 航空法では、沿岸から七二〇キロ以上の洋上を飛ぶ飛行機には、乗客一人一人に緊急用品を備えることを義務づけている。そこで、日本のある航空会社の緊急用品の一部に
 「新約聖書の英文、和文が一冊ずつ。つり道具一式」とある。緊急時の、体と魂の糧の為に、なかなか気のきいた配慮と言わずばなるまい。
 
 あなたはクリスチャンですか、勿論、毎日聖書をおよみ下さい。聖書は日毎の糧であります。
 あなたは非クリスチャンですか。でも、聖書をおよみ下さい。できれば、どうぞ毎日お読み下さい。
 実行できそうもない事が書いてあったら、その時こそどうぞ、へりくだってお祈り下さい。信仰の奥義はそのへんから始まります。
 (1977.10.2週報「キリストの福音」より)
 
 
 
 
砂時計の法

 今晩の食事は焼肉にでもしようかと思う。そこで、ご自慢の自家製のたれを作っていると、そこへ親族の漁師の家からイキのいいぶりを持ってきてくれる。そこですぐたれは冷蔵庫に入れて、ぶりをおろしにかかればいいのに、せっかく意気ごんでいた焼肉料理の方に未練が残って、台所の中でしばし迷う人がある。ひどい人は、「今日、ぶりなんか持って来やがって。あした持ってくればよいのに」と、その親族の漁師一家をうらみがましくさえ思う。
 
 人生には、そのまま受け入れねばならぬ事と、自分で変えられる事とがある。私が日本人に生れた事、今日は気圧が低くて雨が近づいているのか、リューマチが痛むとか、そういう事は、私の方で変える事ができない。前文で言えば、親族より厚意のぶりをもらった事は、当方で変更のきかない、感謝すべき事である。反面、焼肉料理を魚料理に変更する事は自分で出来る事である。
 出来ない事は感謝をもって受け入れ、出来る事はする、これは人生の秘訣。
 
 クリスチャンにとっては、すべての物事は神の御心か、あるいは黙認のもとにある(黙認というのは、サタンがヨブに災害を与えるのを神が許したように、それ自体がよい事ではないが、神が悪魔や悪人のわざを見逃しておられるようなことをさす)。故に、すべての事が、神の御手の中で発展解決していくことを信じて受け入れるとよいのだ。
 
 ルターに言わせると、頭の上に雀がフンをおとすのは仕方がない。雀に向かっておこるのさえアホウな話である。しかし、頭の中に、雀の巣をつくらせてはいけない。故に、髪の毛よりフンを洗いおとすぐらいの事はせねばならない。(聖書では、小鳥はしばしば悪魔の比喩である)。
 
 焼肉とぶりの例で、もう一つ問題点は、「思いわずらい」である。同時に二つをしようとし、同時に二つの事を考えようとすると、思いわずらい・煩悶がおこる。
 
「人生は砂時計のようなものだ。砂時計のガラスの器は中央がくびれていて、上から下へ、一度に一粒しか砂は通りぬけられない。
たとえ多忙きわまる時でも、いっぱいつまった仕事は一つづつ、姿をあらわす。順番に、一度に一つづつ、処理して行く。その事をしないのは怠惰、一度に二つ事をしようとするのはおろかである。」(J・G・ギルキー)
 特に試練の日には、この砂時計の処理法を忍耐をもって持続しなさい。又、あまりにも単調で膨大な量の仕事にも、この秘訣が適切である。
 
 あずきを選別する時、一度にあずきの山をかきまわすのでなく、少しずつ手もとに引きよせて、一粒一粒捨てるものと、用いるものとに二つに分ける。同じように、人生の問題も一つ一つ選別する。自分の力で処理できるものと、神様にゆだねて安んじて置くものと。「私達は、達し得た処に従って」(ピリピ三・16)生きるほかないのですから。
 (1977.10.2週報「キリストの福音」より)


by hioka-wahaha | 2015-09-09 18:27 | 週報「キリストの福音」
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