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No.684 腐敗階級への警告/神と子供を信じよう/田中師「解放特伝」について 2015.2.22

腐敗階級への警告
 
 パウロは信仰の故に、何度か獄中の人となりました。カイザリアの獄にいた時のことです。総督ペリクスがやってきて、パウロを呼び出して引見しました。ペリクスには、パウロからわいろをもらいたいという下ごころがあったのだと聖書は説明しています。(使徒行伝二十二章)
 その時、ペリクスはパウロの気をひくように、わざわざ、「キリスト・イエスに対する信仰のこと」を聞いたのです。へたな伝道者でしたら、すぐに喜んで「神・罪・キリスト・救」とおきまりのテーマを持ち出す処ですが、パウロは違います。パウロはペリクスに、まず「正義」について語りました。それから、「節制」、つぎに「未来の審判」。
 ペリクスは、今で言えば政府高官。エルサレムの長老たちが、児玉誉志夫のような連中だと想定すると、役者は揃ってくる。そこでパウロはいびられる役にまわって、やんわり金ほしげに迫ってくる総督。この男にパウロが、まず言い聞かせるのは「正義」でありました。毅然としたものです。
 為政者、財界人、労働貴族、こういう連中が「正義」を忘れたら、もう落ちつく処はきまっています。今宵は赤坂、明日は銀座裏という風に、じだらくな生活が待っています。こういう連中に、「節制」を守るという美風が、(昔の日本でしたら儒教的生活態度とでもいおうか)生きていたら、少しは、「正義」に戻ってくる可能性もあります。しかし、その事がおこらないのは、彼らに「未来の審判(死後のさばき)」の恐怖が無いからです。
 パウロはずばりこの警告を発しました。今の日本にも、特に上流階級(と自認している人々)にこの警告が必要だと思います。
(1976.7.11「キリストの福音」より)


子供のしつけ方教室(6)
神と子供を信じよう
 
 今回は、少し無茶なことを書こうと思います。題をもう一つ考えれば、「しつけ無用論」とでも題しましょうか。
 もう亡くなりましたが、禅宗の坊さんに沢木興正という方がいました。この方は卑劣な養父にいじめられて育ち、幼い時からバクチの番をさせられ、泥棒も姦淫も日常の出来事という貧民街に成長しましたから、環境から言えば日本最悪でした。環境が悪ければ人間は悪く育つというのなら、おれはどんな悪人になっても当然だった、とよくこの老師は言っていました。しかし、この師匠は当代随一の豪快清貧の禅僧になりました。しつけという、外側からおさえつけるような訓練が無くても、人間の魂は内側から驚異的成長をする事ができるよい実例です。
 旧約聖書の中に、ヤコブという人物の物語りがでてきます。この人物は母に甘やかされて家の外よりは、家の内で育ったような男です。性質は人を押しのけ小ずるく立ちまわる利己的な、且つ小心もの。日本人の好みから見れば、最もイヤミな人間です。ただひとついい処は、忍耐心のつよい点でしょう。この男が、ユダヤ人の祖になるのですよ。
 ヤコブは、家庭で大してよいしつけはうけていなかったのであります。彼の人生は、苦労と心配と失敗の連続でもありました。しかし、彼は心の底のどこかで神を信頼し、いざという時には必ず神に助けられ、そして妻と子と財産に恵まれて祝福の中に死にました。
 最悪のしつけ、無教育の状態の中に於いてでも、人間の魂を呼びおこし、一流の人物に成長せしめる力が、親にはなくても神にはある。この確信がないと、実は世の親たるもの、おちついた安定感ある態度で子供を育て得ないのであります。いつもいつも、いらいら心配し、しつけ、しつけと言って子供を圧迫し、強度の神経症的人物に育て上げる危険があります。親の側に、その心の底にしっかりした神と魂への信頼が必要です。
(1976.7.11「キリストの福音」より)


田中師「解放特伝」について
 
 六月二十五日~二十七日の「人間解放特伝」は、大言壮語して大なる事を期待した私にとっては、数字的には少々あきたらなかった。これは事実であります。しかし、あれ以上未信の方々が来たら、会場内の霊的ヴォルト・アップに、われわれは焼き上がってしまうであろう、という事が実感されました。大衆伝道の霊的困難さが身にしみて分りました。反省としては、もっと事前の個人伝道の必要さを感じます。故に、今後は、個人伝道の秘訣を学ぶ訓練会をはじめたい。そうする事により、旧参の方々も、あらためて信仰の基礎をしっかり固める事ができるでしょう。
 第一日、田中先生のテーマは「孤独よりの解放」、最も現代的テーマです。準備する我々に、気分あわただしいものあり、せっかくの多数の来会者に浸透したか、どうか。
 第二日、「死の恐怖よりの解放」、この日は人数やや少なし。先生の個人体験の証しに、会衆ひとしく打たれる。
 第三日、朝の礼拝、「病いよりの解放」。基礎的説教に時間がかかり、いやしの座に招くに時間少々不足であった。しかし即座にいやしを身に覚えられた方は四名。他の方も、今後しだいにいやしを気づかれる事であろう。
 特別集会は、あとが大変です。何よりも、全員ががっくりして、決心した方々のフォロー・アップもおざなりになり、自身の霊性すら渇いてしまう、そういう例をよく聞きます。みなさん、よく祈って誘惑をしりぞける事です。
 (1976.7.11「キリストの福音」より)


by hioka-wahaha | 2015-02-27 09:12 | 週報「キリストの福音」
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