只恩寵 (2)
―― 七五夏 別府聖会の記 ――
午後しばし皆さんの感話。体が疲れたという人や、祈れずに困るという人や、哀れな発表もあって、私は内心主に切に祈る。「誰かつまづきて我燃えざらんや!」。
午後三時より五時まで、最終講義。「イエスは主なり」―――ペテロのキリスト告白、トマスのキリスト告白、そしてパウロの言う聖霊によるキリスト告白のこの三段階を考える。そして、このキリスト信仰なくば凡ては無であると語る。しかし、肝要な事はこの言葉による講義なのではない。そのあと四十分にわたる祈祷の中に、主は最後の爆発的干渉を為したもうたのです。それはあたかも、それまで満を持して待っていたダムの水がセキをきって溢れ出たみたいでした。とうとうたる生命の水の流れにみんな溺れ酔いしれたのです。
午後五時閉会、一同そろって食事して散会。その時中野兄の言葉を借りれば、恰も山上の変容のイエスの許にあったペテロ、ヨハネ、ヤコブたちが、山より平地に下ってくる時の気持がかくあったろうという。ツァラトゥストラが山を下る時、彼の歩みは舞踏者のようであったとニーチェは書くが、そのような此の世ならぬ心の状況だったのでした。高崎山の森の美しさに、絵心があれば絵にかきたい程だとある人は言ったが、そういうウブな感情がめばえていたのです。
さて、一応全プログラムを録音しましたが、
1、 口と体による讃美礼拝
2、 アモス書講義「終戦記念日によせて」
3、 くつろぎ心法(瞑想入門の為の自己暗示)
4、 最終講義「イエスは主なり」
右四本のみテープを保存します。ご希望の方はお申し込みください。(貸出し無料。お入用の方には実費でお頒ちします。)
尚、(4)最終講義「イエスは主なり」のテープを、あるグループに送りましたが、その時に添付した手紙を左記にかかげます。
主の御名を讃美いたします。
このたびに別府聖会の最終講義のテープを送ります。帰ってからすぐお送りしてもよかったのですが、このテープこの儘送っていいかしらと、ちょっと迷ったのです。それで四、五日手許にしまい込んでいたわけです。
複製する際、モニター・スピーカーで聞いてみますと、右の私の迷いは決して杞憂ではないと思いました。特に前半六〇分、私の講義には無駄な話が多く、肉の耳で聞くのでしたら聞くに耐えぬ長談義かもしれません。しかし、今回の聖会について誰かが言ったように、しらけて、だらけて、苦しくてたまらなかった第一日も、素晴らしかった第二日も、みんな主の御手の中にあるのであって“凡ては善かった”のだというように、この前半六十分がなければ後半六十分もないのでしょう。霊的雰囲気はなかなかテープのような器械的メカニズムの中には収まりきれませんので、特に後半四十分の祈祷と霊唱の素晴らしさは、耳だけで聞けば単に喧騒そのものとしか受け取れぬのではないかと案じています。にもかかわらず、批評心ではなく、愛と祈りをもって聞いて下されば必ず、あるものがつかめるだろう、そう思ってこのテープの公開にふみ切ることにしました。(つづく)
※次回まで続きます。
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