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No.616 自分で自分を苦しめる信仰はやめましょうや(2) 2013.11.3

旅する手紙 第3号(1961.3.20)
 
『自分で自分を苦しめる信仰はやめましょうや』くぎみや・よしと

 (つづき)
 文章をもとにもどします。神様が「汝ら人間よ、我の他に神を呼ぶ勿れ」といいます。なかれという言葉は「命令形」でもありますが、又「当然・必然・可能」の言葉ですね。昔、東京でよく「このツツミ、登るべからず、警視庁」というのがありました。これを中国から来た留学生が見てびっくりしたそうです。「どうしてこれが登る事ができないんだ。こんな小さな土堤、誰でも登れるヨ」―――べしという言葉は彼にとって可能、不可能を示す言葉だったからです。この話はウソか本当かしりませんが、とにかく面白い。「汝××なるべし」と神が語るとき、それは必然・可能・約束の言葉です。ところが、それを人間は命令ときくのです。ここに悲劇がおこります。
 例えば、新約聖書のマタイ伝五章~七章を開くと山上の垂訓がでて来ます。
 「汝の仇をも愛すべし」その他いろいろ………、我々人間にできもしない事ばかりです。これを、至上命令をきいたらひとたまりもありません。まじめな人程フーフー息を上げ目をまわしてひっくり倒れてしまいます。これはイエスの約束です。こうなる!というのです。お前達は必ず仇をも愛せる人間になる、そうなれるだろう、なる筈だ、なる事を約束する、という事です。山上でこの言葉をきいた時は、まだ弟子たちはよく判りませんでした。だから相当に「命令形」として聞いていますよね。然し、キリストの復活→ペンテコステ以後、弟子達にはその事が、命令されずとも、力まなくても、意識せずとも自然にできるようになりました。これが使徒行伝の秘密です。使徒行伝の目で福音書をよまないと福音書が苦音書になってしまいます。
 日本のキリスト教において、「酒をのむな、煙草をのむな」は非常にいい歴史を持っていますし、尊敬すべき事ですけれど、右のような順序を忘れるとエライ事になります。
 キリストの能力があなたの内側に臨むと、あなたは自然に立派な人になります。(人が思う立派さと神の思う立派さは違いますけれど)キリストの能力が臨んでいないのに、立派な行動をしようとすると偽善=芝居になります。偽善でも何でもいい、立派な人間になればいい、行いすました聖人君子になればいいというのなら、修身教科書があればたります。(つづく)
 
 
(「旅する手紙」・・・1961年2月から3月にかけて、回覧誌のような形で書いたもの。肉筆の複写版。原文縦書き)
by hioka-wahaha | 2013-11-30 23:01 | 1961旅する手紙
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