卓話寸言(1972.9.6「大分通信」No.8より)
旧盆の日に、伊勢神宮に行った。若い時はケッペキだったから神社参拝などしなかった。それで、伊勢神宮もはじめてである。とうとう詣でずじまいだったが、別に偶像礼拝にこだわったわけではない。却って、あまりに不敬非礼の日本人の参詣人(?)が多すぎて、人ごみに押されつい参拝できなかったのである。また、それを押して柏手しなければ気がすまぬ程の敬神家(?)でもない。
ただし、質素な本殿は気に入った。これでは、豪壮なカトリック宮殿もイスラム神殿も争いのしようがない。荒野の幕屋とソロモンの神殿の格差である。次元がちがう。本当に日本人の心の里家らしい。スナオに喜びたい。
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新聞は偏向していると言った佐藤前首相の言葉は半ば正しい。中国問題については、大新聞はあきらかに、中共に迎合している様に見える。戦時中は軍部に、終戦後はGHQに、そして今中共にあらがい得ない大新聞に、私はツバをひっかけたいくらいだ。
しかし、これは新聞資本の罪ではない。ひっきょうすれば我々の罪だ。
二〇〇円の合成洗剤は、その海や川に流れ出して以後の処理費を計算に入れると三七〇円になる。原価計算に公害処理費を入れなくてすむ今の経済体制に問題がある。企業に良心や思いやりが入りこめない経済システムに問題がある。それをなりたたしめている人間の手前勝手に問題がある。
新聞も公害も、問題解決のキイは一人一人の(余の人に非ず)「私」にあるようだ。
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あまり人心を刺激するようなことは書きたくないが、今日のニュースによると、我が子を保険金をかけて殺した父親がいる。これを人非人といえばそれまでで、又当然の評であろう。
しかし、これは第一にかくも人間を劣等化せしめる企業精神(この父親は中小企業のおやじで倒産したのである)の恐ろしさ。第二に誰でも一度くらいは我が子が死んでくれたらと思った事のない人はあるまい(というイヤーな推測)。第三には我が子を忠義と引きかえに見殺しにした政岡、戦争に子供を行かせて「御国の為」とガマンした戦時の親たち、一家の安全と引換えに幼児を殺した終戦時の苛烈な引揚げグループ、これらと比べあわせて、この男を悪いと責めつけるのは、親分の為に選挙違反を買ってでた男がドロボーを責めるようなもので、無理もないが引っかかる処もある。以上のような事をフト考えた。読者いかん?
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「退くもまた佳し」
といわれたのはおシャカ様だ。御説教が矛盾にみちていると感じて聴衆の半分が座を退いた。その時言った言葉である。負けおしみでも捨てぜりふでもない。
説教者が真に神の言を語る時、それを聞いてそこに残るも、聞く耳持たずして他に去っていくとも、共にそれはその人にとり、その時最善のことである。残念だがそうである。イスカリオテのユダがイエスを売って首をくくるのも最善である。
右のような種類の言葉を、ツマヅキの言と云う。これで聴衆の半ばが去る。これまた佳し。呵々。(つづく)
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