「心に満つるより」No.1はじまりのことば 「心に満つるより口はもの言うなり」(ルカ6:45)
この聖句は青年時の私にとって一転語となった句だ。
この聖句が、私の心にとびこんできた時、私はこううけとめたのだ。
私が、本心からとは言えそうもない軽はずみな言葉で「神さま!」と呼んだり、「あなたを信じます」と言ったりした時、その言葉は正しくバチあたりな偽善語であるのだけれども、尚かつそれがイエスの側から見れば真実語であって、正しくその表面語のとおりに心の中身もそうなのだとイエスは証明される。この際、人間の思いよりも神の思いがかしこく私の反省よりもイエスの保証の方が正しいと、ピタリ私の内心が納得する時、私の内側に信仰がおこるのである。
溢れでる表面語が表面意識をこえて、深層意識を示しているとするフロイド流の把握もさることながら、イエスのこの言葉はそういう単なる解析や治療ではない、聖なる創造行為を私の内におこしたのである。
私のこの雑誌は、伝道誌でもなければ聖書研究誌でもない。
私のこころにみつる事の溢れでる一端である。私の人生の道程における一歩一歩の嘆息や賛美の跡である。人さまに見せる程の事もないと思われるが、まだ至らぬ心の軌跡もあるいは求道の人々の参考の一つになるかもしれない。そう思って、気張らずに書くつもりである。私の「雑誌三号」は有名であって、ひどい時は1号で終わる。
気分がかわってしまって、同じ誌名、同じスタイルでつづけられなくなるのである。それで今度はよほど「名の無い雑誌」という雑誌にしようかと思ったくらいである。誌名がしょっちゅうかわる「雑誌」―――そういう仕組みで、この雑誌をはじめるのである。(くぎみや・よしと)
剥脱の日記 はじめに 美しい日記帖ではあるが、あまりに美しくて使うのがおしいのでこれまで打ち捨てておいたこの日記帖である。この日記帖(ある商社がくれたスケジュールノートである)を、今日ひっぱり出して、あらためてノート風に書き始めてみようと思う。「'73雑記帖」である。今日は、四月十三日、金曜日。西洋人に言わせれば不吉な日である。ただ今、午前一時一五分なり。この美しい日記帖が、おしまいまで首尾をまっとうして書かれるよう、我みずから祈る!
(1973年10月号「心に満つるより」No.1より)
「心に満つるより」No.2~4は、日岡だよりNo.493(2011.6.19)からNo.554(2012.8.19)までに載録しています。このたび、No.1が見つかりましたので、載せます。
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