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No.557 われ弱くとも恐れはあらじ 2012.9.9

われ弱くとも恐れはあらじ

 昔懐かしい日曜学校讃美歌です。
  主われを愛す
      主は強ければ
  われ弱くとも
      恐れはあらじ
  わが主イエス
      わが主イエス
  わが主イエス
      われを愛す
          (讃美歌461番)

 よく歌ったものです。日曜学校の行き帰りに、みんなで元気よく声を上げて歌いました。私は幼年時代、別府で育ったのですが、別府駅の下あたりに、今もそこにありますが、日基の教会に毎日曜日通っていました。
 山手にあった当時の自宅からは、教会までかなりの距離でしたが、めげずに通いましたね。特に「わが主イエス、わが主イエス」と繰り返して歌う時、息が自然に強くなって元気が出たものです。
 明治初年の頃の讃美歌では「主われを愛す。聖書さよ申す」とかいう歌詞だったと聞いたこともあります。なんだか歌ってみたくなるサムライ風歌詞ですよね。《く》 
 
 
《戦時信仰日誌》  (昭和二十年二月十六日起)
 
 汝らは地の塩なり
 これは主の尊きお約束である。他の多くの御命令と同様に、これは命令であると同時に、必然であり、可能であり、約束である。殊に此の「めぐみの約束」であるといふ所に目を留めなくてはならぬ。決して我々の力や我々の信仰に依って、我々が地の塩となり、世の光となるのではなくて、たゞ主の恩恵によって地の塩となり世の光となる事が出来るのである。その故に我々は自らを徒(いたず)らに反省し落胆して、若しや我々はもう地の塩でもなく世の光でもなく、そして或は主の恩恵よりを(お)ちたものではなからうか抔(など)と心配する必要はないのである。
 懼る勿(な)唯信ぜよ、そのひたすらなる信頼に依ってのみ、我々は眞に地の塩、世の光とさせて頂く事が出来るのである。
 
 我かれらに永遠の生命を與ふれば彼らは永遠に亡ぶることなく又かれらを我が手より奪ふ者あらじ、彼らを我にあたへ給ひし我が父は一切のものよりも大なれば誰にても父の御手より奪ふこと能はず
 此の様な大いなる保證があるか、我々は如何にもがき逃れようとしてみても逃れる事のできない能力を主は持ってゐ給ふのである。
 
 我らは神によりてイエスキリストに在り、彼は神に立てられて我らの智慧、義、聖、贖となりたまへり
 此の「神に立てられて」を注意しなくてはならぬ。決して我々の信仰や我々の動機によってゞはなく唯神のみ旨によって、彼キリストの十字架はあるのである。
 
 三月十八日 大分市初空襲を受けた。
 信仰生活の重大さと基督者としての責任を益々感じた。
 基督教生活の根本は愛と十字架であると思ふ。十字架ぬきの愛は眞の愛ではない。そして又愛なき十字架は却て偽善である。人本主義は十字架ぬきの愛に陥り、倫理的道家は愛の缺(か)げたる十字架にを(お)ちゐる。
 
 過去の日本をかへり見るに決して賞めたことのみではない。
 その十字架を負ふのは誰であるのか。
 
 主の祈とは正しく主の祈であって、決して我らの祈ではない。我らはたゞ信仰に於てのみ主の祈を我らの祈として祈り得るのであって、生来の人間が決してそのまゝで主の祈りを祈り得るものではない。
 信仰とは決して我らの意志ではなく、唯一切を捨て置いて主の御恩寵の裡に移り住もふことである。その故にたゞその無条件的なる恩寵の故に、主の代祷を信じて祈る処に本当の主の祈がある。
 我らの祈る現実の主の祈は呆れ果てたる一つのみにくき汚物である。然し、それが主御自身お命じになり(且つお約束になったが故に――命令は即約束であり、又恩恵である)しものなるが故に、たゞその御恩恵の故にのみ義とせられ、聖とせられて、神の前にたち至るであらう。
 御名の崇められんことを、といふ祈は考へれば考へる程すばらしい祈である。此の言葉によって、我らの裡には神を崇める力も資格も元々、何も無いのだといふ事が充分に示されてゐる。(つづく)
by hioka-wahaha | 2012-09-18 16:00 | 日岡だより
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