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No.546 初めに言があった 2012.6.24

初めに言があった  

 ヨハネによる福音書冒頭のみ言葉です。
 「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。」
 これは宇宙創造についての聖書の説明です。太陽系や銀河系宇宙を越えて、全宇宙、総宇宙の創造についての聖書による説明です。更にヨハネによる福音書は告げます。
 「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。」
 この「すべての人を照らすまことの光」こそ、イエス・キリストです。イエス様の光によって凡ての人は救われるのです。《く》

【聖書講義】
死人の中より甦れ   

 <前号よりつづき>
 聖書のこの箇所を、このように解釈するのは、意図的誤解でありまして、こんなことでは、多分キリスト教界から村八分にされると思います。しかし、当時のパウロが深層意識において本当に言いたかったことは、この事だと思います。
 似たようなことで、「主は近し」と聖書がいう時、私は「時間や空間」に於いてでなく、私の内に全く近くに臨在する主を想います。「マラーナタ」という時、今すぐ私の内に来て下さる主を想います。こういう聖書の言葉の曲解(?)の仕方は、しばしば福音書記者やパウロのした処です。私の曲解が聖書によらず、私の意によるのではないかと、自分で恐れはしますが。
 
 なぜ、このように恐ろしいことができるのでしょうか。書いた本人のパウロ以上に、聖書の言葉を読み破り、読み抜くのは、たしかに恐ろしいことです。しかし、これこそ「我らの内に善きことを始め給いし方」が、私たちの内に御言葉を全うなさるからです。「今わが為すことを汝いまは知らず、後に悟るべし」とか、「聖霊は汝らに言いしことを思い出さしむべし」とかイエスは言われた。そういう聖書の真意(or深意)再発掘の力が働くのです。これがないと、「聖書の研究」は教条主義化して生命を失います。
 
 「御言葉打ちひらくれば光を放ちて、愚かなるものをさとからしむ」「霊のことをもって霊にあてる」――― この不可思議さの源泉はキリスト御自身にあります。ここに、ハウ・ツウものではないが、「人生の秘訣」があります。私どもが、この世に生きて、この世の子らに負けず、天下堂々を活き貫く英知と力は、私らの内に善きことをはじめ給いしキリストの、完成力にあるんです。
 
           二
 ピリピ書第一章8節をよみましょう。
 「我いかにキリスト・イエスの心をもて汝らすべてを恋したうか、その証を為すものは神なり」
 
 口語訳では「キリスト・イエスの熱愛をもて……」です。ここは口語訳もいい訳ですね。
 
 普通、愛というものは内発的、触発的、偶発的なものでして、愛がおこるのも、愛がひえるのも、思いのままになりません。結婚の第一条件を愛ということにすると、愛がおのずから冷えた時は、離婚せねばなりません。だから愛至上主義の倫理には限りがあります。愛以上のものを知らぬからです。
 
 だから「我汝を愛す」とはっきり言うのはテレる業です。「あなた、私を愛してるの」と細君に言われて、大抵の男性「バカなことを言うな」とテレてしまいます。テレずに、「アイ・ラブ・ユー」という西洋の旦那はウソつきだと思います。日本人は、人間の愛のはかなさをひそかに恐れていて、それを永遠のものの如く言うのをひかえているのかもしれません。
 
 人間は、自分の愛を自分で保証できない。いつ冷えるか分からないこの愛! ところが、パウロには自分では保証できないが、神が保証して下さる愛を自分の内に持っていました。それが「キリスト・イエスの熱愛」です。神が保証して下さる愛は、永遠につづく愛、キリスト・イエスの日までに完成する完全の愛である。なぜなら、それはパウロの作り出した愛でなくして、パウロの内にあるキリスト・イエスの心よりほとばしり出る熱愛だからです。
 
 ピリピの教会の人々の内にもキリストの臨在がある。パウロの内にもキリストの心がある。電気と電気がむすびつくように、愛がむすびつく。理の当然です。
 
 私の愛が、神に保証される愛であれば、私はテレずに、「我汝を愛す」と言える。
 私が三井銀行発行の小切手一億円をもっているとする。三井銀行頭取のハンコがピシャリとある限り、私は自信をもってこの小切手を使う。もしいつ破産するかも分からない三流会社の小切手だったら恐る恐る使いますね。そのように、私の愛は三流五流の小切手に似ているが、キリスト・イエスの愛は三井、日銀以上の小切手です。
 <つづく>
(1974.1「心に満つるより」No.4より)
by hioka-wahaha | 2012-06-26 16:24 | 日岡だより
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