信仰の第一歩は聖書を読むこと
「聖書を読む」という時、私は出来るだけ「聖書を拝読する」と言うようにしています。昔のクリスチャンはよく聖書を一度持ち上げてキチンと拝しながら開いたものです。 聖書を学ぶ時、参考注釈を書き込むことをよくしますが、丁寧に文字を書きたいですね。そういう私もあまり模範にはなりません、グチャグチャと書く癖があり残念ですが。 私の存じ上げている先生で、決して聖書に書き込みをなさらない方がいました。聖書の各頁を決して汚さないで奇麗にしていました。私は驚嘆しましたね。 しかし、逆に白紙を貼りこんでまで、ギッシリ参考記事を書き込む先生も居られました。昔は余白を広く取って書き込みしやすいように記事を中のほうに印刷してある聖書もありましたが、今は無いようです。 さて、私は聖書研究という言葉はあまり好きではないのです。聖書学習と呼びたいのです。ともあれ、そのために聖書に一杯書き込みするのは矢張り許して頂きたいと思っています。《く》 〔聖書講義〕 我が内なる「福音」 (1)サウロの迫害したのはクリスチャンであった。イエスではない。故に、イエスはここで御自身がクリスチャンと同一体であることを宣言しているのである。 (2)この言葉を聞いた時(以後の事実でわかるように)、サウロにとり、この言葉が実感となった。神の言葉は、信じる者(信じさせられる者)の胸の中に実現する力を持つ。 (3)サウロのクリスチャン迫害は、クリスチャンの痛みであるだけでなく、それはそのまま、イエスの身の痛みであった。そしてその痛みがサウロにも同様に感じるので前項のとおり、イエスの言葉がサウロの胸に実感としてこたえた。その時、イエスの痛みはサウロの痛み、というキリストとの同一性がおこっている。そして彼の旧い人は死に、目がつぶれた。 だから、トゲのあるムチをける時、痛みは自分にはねかえってくるというのだ。ける我も、けられる彼も、一つキリストの体の肢だ。おのれの手で頭を叩けば頭も痛い、手も痛い。 サウロはかくて、目は見えなくなり、人に助けられ、ダマスコに入って、直町という貧しげな街のアナニヤという青年の按手で救われます。目からウロコが落ち、新しい世界が見えはじめます。その時彼は、どんなにか大きい大きい神の愛と、己の平安を感じたことでしょう。 サウロは頑固な「おのれ」の道にやぶれ、神の手に落ちました。「我が愛におれ」というイエスの言葉そのままに、サウロ(又の名はパウロ)はその日以後、神にのみ生きる人になります。パウロの愛は、そこから発するのですね。 テレビが電流にみたされて、遠い電波を受けるとき、内蔵するブラウン管に遠い放送局の画面が映るように、サウロの全身全霊にキリストの霊がふれる時、キリストの体の痛み(すなわちクリスチャンの迫害される痛み)が、なまなましくサウロの心情にわかるのです。 キリストの体―――それは「永遠の岩」です。ロゴスです。その「岩」より血が流れ血漿が流れ出るあたたかさ、痛さ、つらさ、悲しさ、いとおしさ、それが身一杯にサウロに迫り、彼をおしつつみ、彼の人格を一変せしめるのです。 そこに彼の死と復活があります。キリストと共に死に、彼の復活に与るということです。(テモテ第二書の二・11) ここで語られている体験は、パウロ、アウグスチヌス、ルター、ウェスレー、内村鑑三等々、代々の真のクリスチャンに普遍的な回心体験であります。この時、人は「永遠の岩」の脇がさかれ、生命の血と水に洗われて、キリストの死と生に密着することを自覚するのです。これが信仰の原点、力の原点、また、愛の原点です。 キリストの内にあるもの、それは一つです。見る見方により、愛とか力とか聖とか義とかいろいろに見えます。そういうものが数多くゴタゴタとつまっているんじゃないんです。 それは一にして全、キリストの霊です。このテモテ第二書(二・1)でいう「イエス・キリストにある恵み」とは、ほかでもないキリストの内にある全てのもの、その全てのものが「我がもの」であるのです。それが恵みなのですよ。 このキリストに直結して、彼の内なるもの(恵み)が私にみたされてしまう。その時、私は強くなるのです。そこをもう少しくわしく言います。 三 創世記を読むと、神は人間を土でもって造り、それに息を吹き入れて活けるものとなさしめたとある。息はルーアッハで「霊」でもある。吹き入れたのは、充満せしめたのである。そして神は「すべては善し」と言われたことであろう。 聖霊とはどうもあらためて受けるものではないらしい。少なくとも創世記ではそうなる。これが聖霊問題の原点になりそうな気がします。 たとえば、電気のことを考えよう。物質はすべて電気をもっている。こすり合わせると紙片などをくっつける作用をする。ナイロン衣料でパチパチ火花を出したりする。これが静電気だ。たいしたことはできない。じっとしている電気である。この電気は万物に滞在している。 <つづく> (1973.12「心に満つるより」No.3より) ■
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by hioka-wahaha
| 2012-04-03 16:13
| 日岡だより
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