死を見つめることが信仰への始め
人生において死ほど不可解なものはありません。誰もこれを説明してくれません。人は死んだら、その先、何が起るのでしょうか。誰も語ってくれません。 これまでも、何度か書きましたが、私が19歳の時、同級の友、荒巻保行が自殺しました。彼の死後、私宛に届いたノートには、 「人間の生は快楽を生き甲斐とする。生きて居るだけ、快楽を求め、罪深い生活を続ける。罪の生を止めようとすれば死ぬ外は無い。自殺は罪だとキリスト教は言うけれど、生きていても罪なのだから、一刻も早く死んで行く方が良いに決まっている。『神様、済みません。これ以上、罪を犯したくありませんから、ここで思い切って死にますことをお許しください』、こう祈って死のうと思う。」とありました。 少年と言ってもいい年令の荒巻のこの言葉は、成人者たちから見れば、なんと言う考えの浅い、早とちりの愚かな命の捨て方か、折角の尊い人生を見くびった実に不敬虔な自己処理ではないか、そう非難されるでしょう。しかし、私には彼の自らの命を賭しての荘厳な訴えだと思えました。尊いとさえ思えました。しかし、それだけでは救いは無い。無益な試みに過ぎないではないかとも思えて私は泣きました。 彼に本当の救いを語りたかった。しかし、私にはまだ、本当のキリストの救いが分かっていなかった。教理として知っているだけでした。 それから、聖書を一所懸命に読みました。聖書のどこかにその秘密が書かれているはずだと思いました。しかし、聖書には「信じなさい、信じなさい」と書いてあるだけです。どうしたら信じられるのか、書いてないように見えました。 「とにかく、信じたら良いのだな、よし、信じることにしよう」と私は考えました。イエス様が私の為に死んで下さった、そこで私は生きる者となった。そのことを信じようと思いました。 しかし、いくら信じたつもりになっても、今のままのおまえでは天国に入れるはずない、それは不可能だとささやくものがあるのです。それは私自身でした。私の深い良心がそう言うのです。厳しく私自身を拒絶する私がいるのです。このままでは地獄に落ちるしかない、と絶望しました。 その絶望の只中で、私の心に語りかける声がありました。言わく。「われ最早生くるにあらず。キリスト我が内にありて生くるなり」。後で考えればそれは聖書のガラテヤ書第2章20節のお言葉でした。その言葉は私の魂の奥底まで響き渡りました。 私はもう生きていない。私は既に死んでいる。そして私の代わりにイエス・キリスト様が私の内に生きて下さっている。今私の内に居られるのはイエス・キリスト様である。この確信が私の心に突然湧いたのです。それは疑いようのない断然たる確信でした。 この確信が私の内に備わった時、私は非常な喜びに燃えました。宇宙の中心にデンと居座ったような自信がわき、世界の何処にも恐れるものはないという気持ちになりました。 イエス様がご自身のご意志をもって私の内に移り住んで下さった。これより確実なことは無い。私はキリスト様のものである。誰も私を揺るがすものはない。私はビクともしない。悠然として全宇宙を見回しているような安心感でした。《く》 〔聖書講義〕 我が内なる「福音」 偶像礼拝については、旧約聖書はきびしく糾弾しますけれど、そうかと言って宗教的偶像の良さを見失ってはなりません。たとえば、円空の木仏など最も注目すべき作品と思いますが、あれを自分で作っておいて、あとで自分が拝むという処が本当にいいではないですか。そこがイザヤなどヘブルの預言者には理解しにくい処でしょうね。 一度完成して拝みはじめたら、もう自分のものじゃない、仏です。自分の内から摘み出され、刻みこまれ、自分の内にある仏が形をなして写し移されて、遂に自分以上の(マリヤがイエスを拝むように、親が子を拝むように)仏となって我が前にたたずむ、そういう仏像のみごとさに私はうなりたい程です。 こういう処に礼拝や仏像や神話伝説を重んじる宗教の意味があるように思います。円空の仏像のように、多くの神秘な教義も信条も一つの偶像でしょうか。 イエスの十字架は神の贖罪愛のドラマティックな表現であると、さきに言いました。こういう言い方は多くの方の顰蹙を買うので恐れます。しかし、あのドラマを大仰に受け取っている方々に、却ってその背後にある本当に大きな「永遠の岩」の愛のエネルギー法則に気のつかぬ事の多いのを私はなげくのであります。 「ちとせの岩」という時、私どもは宇宙のつよい、大きい、圧力ある、かたい、不動の、巨大な、つめたい感じのする神の真理というようなものを感じます。そういう律法的つめたさ、かたさの中より、血と水、情と愛をしたたるように感じるというのがこのトプラディの讃美歌の秘密です。それが、「律法」という旧約の「岩」より切り出されてくる新約の「福音」なのです。そして、イエスはその福音そのものです。イエスにふれる事により、神にふれ、神の心情と血にふれるのです。 <つづく> (1973.12「心に満つるより」No.3より)
by hioka-wahaha
| 2012-03-20 12:43
| 日岡だより
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