「真の勝利者」
栃木の稲葉兄から、はがきが来た。「リバイバル新聞7月31日号の奥山実先生の『ハイデッガーとボンヘッファー』を読みましたか」とある。 慌ててリバイバル新聞7月31日号を開いた。実は昨年の3月からリバイバル新聞で毎月1回、奥山実先生が「聖書とエスプリ」という連載を書いておられる。その途中、サルトル論だったか、その中でやはり、「ハイデッガーとボンヘッファー」に触れて居られた。 ちょっと余分なことを書くけれども、この「聖書とエスプリ」という連載は非常に面白い。いささか量子力学など一般の人にはなじみのない学問も出てくるので、読みづらいかもしれないが、無理をして読んでいると少しずつ判ってくるものです。 ハイデッガーは20世紀最高の頭脳と言われた哲学者だったが、ドイツ人としての誇りに驕ったのか、ヒットラーの政治思想に魅惑され、ナチス敗退後も山にこもり沈黙したまま悔い改めた様子はないという。 引換え、ボンヘッファーは若い牧師だったが、政治指導者が偶像化されることに絶対反対だとヒットラーを批判、その所説をラジオで放送した。 奥山先生は言う。全体主義体制のもとでは、教会は必ず2つに分裂する。体制側の「公認教会」と、「抵抗する教会」(ドイツでは告白教会)」である。 ボンヘッファーは遂に逮捕され、ヒットラー自殺の3週間前だったそうだが、処刑される。死の直前に、こう語ったと言われている。 「私にとってこれがいよいよ最後です。しかし又、 これは始まりです。 そして私たちの勝利は確かです。」 ボンヘッファーこそ真の勝利者であった。《く》 かつての日本では 大東亜戦争(太平洋戦争)下の日本は全体主義政治体制であった。だから前頁の奥山先生の言葉によれば、教会は必ず二分化するはずだった。日本はどうであったか。 いいえ、日本は違った。二分化どころか、一極化されてしまった。戦前の日本基督教団がそれである。当時日本にあったプロテスタント教会の殆どが加盟した巨大な組織であった。カトリックは別建てだったが、それも一つになって日本政府に従順に従った。 反体制派は私のような二、三の個人を除いて、いくらも出ない。さびしく孤立した。 さて、この教団が合同化するときの、総会の様子を当時某牧師から聞いた覚えがある。教会合同をせきたてる軍部の恐喝というか、威圧であろう。会場の外のロビーから軍人たちの歩き回るサーベルの音が聞こえたという。 余談だが、そういう報告をしてくれる牧師には、私に対する一つの警告があったのである。私はすでに当時、非戦論者であったし、その意見を教会の青年会などで隠す事は無かった。そこで、「釘宮君、時代はこんな風に変わってきている。軍部の勢力は大変なものだ。これに反対するのは危険だよ」と言いたかったのである。その牧師の私に対する一種の「愛情?」はよく分かった。 戦時下に作られた日本基督教団の規定には、牧師向けの懐柔策もあったと思われる。当時、前記の牧師が鼻をうごめかして言ったものだ。「今度の教憲ではね、牧師は教会の主管者として位置付けられ、教会の最高責任者として認められたんだよ」。 これは今の私にしてみれば聖書的には当然のことであるけれど、戦前の共和制的教会政治の中で、信徒の長老役員たちの弁力が強く、牧師の意見が閉ざされることも多かった時代、牧師にとってこれは息を吹き返させてくれる思いだったかも知れない。 また、牧師の立場が国家権力によって擁護されるような錯覚を生んだかも知れない。これも、全体主義体制下にまるめこまれて行く際のキリスト教会の一スナップであった。 * 戦前の賛美歌には、その最後の頁に日本国国歌の君が代の歌詞と譜が載っていた。末尾に「この書の歌詞にあらず。便宜上ここに収む」とあったように思う。信仰保持と国家主義とが厳密に丁重に扱われていて明治以来の教会の良さも表れていると思うが。 しかし、ここから悪い扱いかたも生まれてくる。教会の礼拝中に東方遥拝が行われるようになる。東方遥拝とは九州からは東京は東である。天皇の住まわれる皇居を戦前は宮城と言った。(みやぎではない。きゅうじょうと呼んだ)。この宮城のある方向に向かって礼拝するのである。ちなみに当時東京の遊覧バスに乗ると、二重橋前ではバスガイドの指示で礼拝をさせられたものだ。 そういうことで、礼拝の中で国歌の君が代も歌われるということがおこる。これはどこの教会でそうだったとは言えないが、特高警察が礼拝監視にでも来ていたような教会ではそれも有り得たと思われる。私の教会ではさすがに君が代は歌われなかった。しかし東方遥拝は行われた。こうしたことは各教会まちまちであったであろう。ここでは私の経験のみを書くことにする。 私はこういう時、かたくなに正面を向って立っていた。私の教会では東が正面に対して左側になっていた。信徒の皆さんは従順に左向け左で東を向いて、最敬礼するのである。私は冷やかに突っ立っているから、その筋から見れば危険分子である。さいわい憲兵や警察が来ていなかったから、私は無事だったが、しかし牧師はヒヤヒヤしたと思う。 遂に1941年12月8日、日本空軍の真珠湾攻撃が始まる。天皇の名による「宣戦布告」がなされる。私はその翌日、牧師を訪ね、「教会に迷惑をかけてはいけないから、今日限り教会を脱会します。教会と縁の無いことにします」と挨拶した。もちろん、牧師は了承したし、ホッとしていたようである。 その後、戦局は拡大して行く。ついに日本基督教団から戦闘機「日本基督教団号」が献納されるまでになる。 私はその後、投獄され刑務所の独房で回心した。それまで、信仰の確信がなかったのである。キリスト教的思想によって非戦主義を唱えてはいるが、可笑しなことに、その実しっかりした信仰を持っていなかった、それは私の嘆きだった。 信仰を求めていた。内村鑑三のいうコンボルションが欲しかったのである。それが無いばかりに、私は無理矢理に非戦論を言いつのり、憂国の志士になったつもりで悲壮な気分を作り上げていた面もある。 確信的信仰を神様から頂いてから、「しまった」と思うようになった。「宣戦布告」の翌日、教会に迷惑をかけまいと思って「脱会」を申し出た、それである。あれは失敗だった、教会に迷惑がかかるように籍を残しておくべきだったと考え直したのである。理由はこうだ。 私のお陰で、あらためて思想調査を受ける信者さんの中で、一人でも信仰を告白し、「戦争は間違っています」と警察で言える人の出るのを待つべきだった。そういう人が出ないにしろ、教会の牧師や信徒の皆さんに信仰とは権力とぶっつかるものだ。キリシタン迫害は昔のことではなかった。現代でも起こり得る事なんだと認識させることは、迷惑かもしれないが、良いことなんだと、思ったのである。 * 私の母は当時52歳であったろうか。今の人にくらべ年老いて見えた。刑務所に面会にくる母の老いた容貌に私は泣いた。自分は親不孝だなあと思った。その母だが、警察に参考人として呼ばれたらしい。私はそのことを、随分後年になって知ったのだ。 私の少年時代、私の一年先輩にMという人がいた、お姉さんがメソジスト教会の伝道師で、そのMさんもクリスチャンだった。そのMさんが戦後、大牟田の炭鉱で働いていたが、大牟田の新聞にコラムを担当してエッセーを書いていた。その中で、「釘宮さん、あなたのことを書いたから」と言って新聞の切り抜きを送ってくれたのである。その記事によると、 Mさんは戦争中、満州の奉天にいて、なんと憲兵になっていたという。ある時、東京の本部から通達が廻ってきた。その中に、「九州大分市の釘宮なる男が非戦論で事件を起こしているのは既報のとおりだが、その母親が警察の取調べでこういうことを言っている。うちの子は聖書の言葉に従って戦争してはいけないと言っているのですから、あれの言うことは正しいと思います、と。この親にしてこの子ありだ。今後、キリスト教徒の思想は厳重に監視しなくてならない」とあったそうだ。 Mさんは大分にいるとき、私の家の家業にアルバイトにきたことがあって、私の母親の気弱と言っていいくらいの温厚な性質を知っていたからびっくりしたそうだ。そして彼自身は私と同じ学校に通っていたときは、宣教師からキリスト教的匂いのする英語演説を習って得意げに雄弁大会に出たりした。いっぱしのクリスチャン顔をしていたのが、今は憲兵隊に入れられて結構憲兵づらをしている。恥ずかしさで身悶えしたそうだ。第一、1年後輩の私は在学中は軟派の女の腐ったような見栄えのない男だったから、あの釘宮君が……? と思うと呆然としたそうだ。 その新聞記事の切り抜きを読んで、私も母を見直したものである。母は決して剛毅な人ではない。頭も賢くはない。信仰論や政治問題など難しい事は分からない。ただ私の伯父や夫の私の父の日ごろの言っていることをオウム返しに言っているに過ぎない。 戦争中の町内では、ときおり区長さんが各戸に伊勢神宮のお札(大麻)を持って廻る。いくらかの金を払う。戦時下、これを断る人はいない、断れば、非国民である。それを母は簡単に断る。 「へい、私の方はいりません。私の家はキリスト教ですから」という。区長さんは「ええ?」とびっくりして、「それでも、日本人じゃろうに。日本人はみんなお伊勢さんの氏子ですぞ」と言いながら、私の家の中をうさんくさそうに睨み廻す。 母の信仰は決して偉いのではない。素朴に夫や、尊敬するその長兄の信仰に倣っているだけなのである。父の長兄は釘宮徳太郎、2・26事件の翌日に肺炎で死んだ。この伯父の召天の知らせを受けた東京の友人たちは悲鳴に近い声を上げた。 大分の聯隊の将校たちが反乱をおこして釘宮さんは血祭にあげられたのではないか、と思ったかである。日頃、内村鑑三を尊敬した伯父なら、それも有り得たと思われた。母の警察での姿勢は、そんな伯父の影響であった。 何かと書きたいことは山ほどあるが、今回はこの辺で結文したい。私の非戦論事件はなんだったか、実は書くのも恥ずかしいのだが、いずれ又、稿を改めて書くことにする。《く》
by hioka-wahaha
| 2005-08-07 00:00
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