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No.483 クリスチャンの生き様 2011.4.10

〔東日本大震災義援金について〕
日本国際飢餓対策機構(郵便振替 00170-9-68590)「東北地震」とご明記ください。
活動状況http://www.jifh.org/hungerzero/news/cat-11/
クリスチャンの生き様 

 私の若い時、クリスチャンという呼び名は余り好きではなかった。文字としては「クリスト者」という書き方が好きだった。
 「キリストの者」という感じである。これが一番、私たちに相応しいと思った。昔はよく無教会の人たちが使ったように思う。
 しかし口にするのは、世間的には使い慣れていないせいか、ややワザとらしい響きがある。だから世間に出ては使いにくかった。でも、お互いの間では、なんだか納まりが良いのである。
 ともあれ、私たちクリスチャンとして、まず相応しい告白、「イエス・キリスト様を私の救い主として信じているんです」と口で言う気持ち、この言葉を日常会話の中で屡々言ってみよう。最初はかなり勇気を要するだろうが、慣れてくると何でもなくなる。
 そうなるための秘訣は実は「信仰生活」や「教会生活」の様子をしょっちゅう口にすることである。
 「先週の日曜日にねえ、教会に行ったら、牧師先生のお話に、こんなことわざがあったのよ。聖書に出てくる言葉なんだろうけれど……」というように、会話の中に入れるのである。
 「昨日、教会のお友達の家に行ったのよ。そうしたら、お子さんが、『お腹が痛い。お祈りして頂戴』と言うのよ。そこに、お祖母ちゃんが出て来て、まるで牧師さんがするような立派な言葉でお祈りして、お孫さんを玄関に送りだしてね。私、びっくりしたわあ。」
 などという会話はどうだろう。こういう信仰きっぱりの言葉が会話の中で、例えば今の「クリスト者」というような言葉が、自然に口から出てくるようになると良いですね。
 無理に気張った言い方でなく、いとも自然な言い方で、信仰の表現が出来るよう、普段の生活の中でひと工夫してみると、いかがでしょう。《く》


継続は力である 

 「継続は力である」とは、よく聞く言葉です。とは言え、ものごとを継続することは中々困難です。
 継続のコツは、継続することをうっかり忘れた時、何事もなかったかのように、ケロリとして続きを継続することです。
 いいえ、イヤになって継続の決心を自分で破った時にも、もう一度、気を取り直して最初の決心のとおりにやり続けることです。その継続する自分の行為を自分で褒めて、やり続けるのです。
 「やっぱり俺はダメだあ。俺には継続なんか出来ねえよう」と言って止めてしまわず、「自分には出来る。自分には出来る」と自分に言い聞かせて最初の決心に戻るのです。
 この「自分に言い聞かせる」ということが一番大事なんです。このことに心を留めてください。
 日本人は昔から「言霊(ことだま)の力」というものを信じていました。これは偉大な伝統です。
 クリスチャンの諸兄姉は、すべて聖書の言葉を神の言葉と信じているでしょう。そうであるならば、どうぞ日毎に聖書の言葉を口ずさんでください。大きな声で語ってください。それが「み言葉の告白」と言います。
 そうすると、神のみ言葉が私たちの魂のどん底に定着するのです。如何なる時にも、その聖なる神の言葉は私たちの魂から離れません。信念になってきます。潜在意識から離れません。
 聖書のみ言葉がすっかり私の人格として成型されてしまうのです。こうして標準化したクリスチャンが出来上がる。それは決して糸で吊るされた心のない人形のようなものではない。魂を持った生きた神の使者です。神の言葉がその人の中に内在し、生きて働くのです。
 神のみ言葉の人格化、それが本当のクリスチャンです。《く》


コネチカットの町外れの教会で 

 昨夜、(一九七二・六・二七)NHKのFMで、アメリカのコネチカット州の小さな黒人教会で収録したという礼拝の模様を聞いた。これは、世界の各地の生活と民族感情にむすびついたキリスト教音楽をテーマにしたシリーズものの最終回であったらしい。私は残念ながら、この最終回の黒人教会のものしか聞けなかったし、それも三分の二くらいで、始めの方は外出していて聞いていない。
 この教会は、何とかという町の町外れの川っぷちに建てられた貧しい教会で、そこに二十人程の信者さんが集まり、形式的な司会も式次もありはせぬ、会衆の中より自然にわきおこってくる告白と讃美が、およそ西洋風の教会では考えられもしないような打楽器の波にのって唱われる。
 これは本当に感動的な集会。こんな騒々しい集会は宗教的で無いという人もあろうが、日本でも柘植不知人先生のリバイバル集会など、さすがに慎ましい日本人でも手を打ち踊り上り声の限り唱って時のたつのを忘れたらしい。まして、直情的な黒人の人々の集会だ。ものすごいエネルギーである。
 途中、一婦人の異言がでる。解説者の小泉文夫氏は、
 「この婦人は平素はごく物静かで声のやさしい人だが、この時ばかりは黒人特有のボリュームのある声だった」
 と言い、また
 「語る言葉は時折英語がはいるが、ほとんど何を言っているかわからぬ。アフリカ時代の黒人固有の叫びが出るのか」
 と(この辺は引用としては正確を欠くが、このようなことを)言っていた。潜在心理的に説明すればそうともとれよう。
 私らの耳で聞くと、あれは正しく異言である。変声のしかたと言い、音節の出かたと言い、日本人である私どもが経験する異言と少しも違わないのが不思議な程だ。
 そのあと、牧師の短い説教。これもまた、威勢のいい説教で、ドスのきいた言葉が機関砲のようにポンポンでる。それに会衆の「オーオー」とか「アーメン」とか言う声がひっきりなしに相和し、これもまたすぐにでも歌になりそうである。
 私は、静寂な瞑想的集会も好きだが、こういう沸きかえるような集会も又大好きだ。
 是非とも一度、こういう教会を訪問して、共に歌いたいと思う。その内、必ず行く。こういう素晴らしい取材をしてくれた小泉氏に心から感謝する。(1972.7.14「大分通信」より) (「こうすれば信仰がわかる」に収録)



by hioka-wahaha | 2011-04-12 13:06 | 日岡だより
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