このたびの東北地方太平洋沖地震により被害にあわれた方々へ、お見舞い申し上げます。同時に、神様の深い憐れみと慰めがありますようにと切に祈ります。 地震は地新? 日本の古い本を読むと、「地震は地新」と書いてあるものがある。 地震で世が変わるのだ、ということらしい。革命を期待している不平分子の欝屈気分を地震が代弁しているのだと言うのである。 それほど強烈な意志ではないにしても、「ああ、もう飽き飽きした。なんでもいい。少しは、この世、変わらんかいな」というような庶民のつぶやきに答えて、大地の神様が身をゆすぶって見せるのだという。 * 聖書では、イザヤがエルサレムに対して預言する。「万軍の主は雷、地震、……火をもって臨まれる」。(イザヤ29:6) 神様が都市や人に対して、警告し、責める時に、用いられる御道具をここに書いてある。日本の古いことわざに似ているですね。 言わく。「怖いものは何か、地震、雷、火事、親父」 今、日本国家と日本人民に対する神様の戒め、警告として、私は今回の東日本の地震を受けとめたいのである。《く》 瀆神的信仰ですが 「語りしことを封じて、書き残すな」(黙示録一〇の四) という聖書の言葉は、若い時より私の心をひく言葉であった。それはパウロの言う「言い得ざる言葉、人の語り得べからざる言葉」(コリントⅡ一二の四)というのでもあろう。それとは遠い「時」が来るまでは秘密にされるべき内容の言葉のことなのだろうか。 山上の変容のあと、「山をくだる時、イエスは彼らに人の子の、死人の中より復活するまでは、見しことを誰にも語るなといましめ給う」(マルコ九の九)とある。 目の手術をしたあと、良くなってホータイを外してもしばらく明るいものを見ず、うす暗い部屋で目を慣らさねばならぬ時期がある。神の真実をしばしば人の目、人の耳よりかくさねばならぬのは、神の愛である。 目が太陽の光を直視できないように、直視できかねる神の言葉がある。「時」が来るまで待つしかないのであろうか。 歎異抄の最後に、蓮如が「この書みだりに他見を禁ず」と奥付したのも意味がある。「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人おや」などという言葉は、蓮如の時代には封じられるべき言葉と思えたのかもしれない。 プロテスタント的絶対信仰論が、道徳破棄論につながるとして当時のカトリックのまじめな人々に批難されたのも幾分の意味はある。「律法」の時代において「福音」は封じられたる言葉であったのである。 近世より現代にかけて、科学が宗教のベールをはいできた。宗教が神話と伝承の中にとじこめていた真理―――語るべからざる事を科学が処女の衣をはぐように取り去って見せたと言える。地動説然り、進化論然り、唯物論然り、素粒子論然り、生化学然り、―――今は科学者の方が宗教家よりもずっと預言者らしく見える。 さて、キリスト教の世界にペンをもどすと、二十才頃の私は、万人救済説など語るべからざることの最たるものだろうと思っていた。今になっても、当時の私の想像は凡そ当っていると思う。そういう、汎神論的、東洋的思想が、聖書に於ては、今にも出て来そうで出て来ない、言うに言われぬ真理の一言ではないかと思うのだが、どうであろうか。 聖書やキリストの名称などクソくらえといった乱暴な議論が、キリスト教界でまかり通る筈もないが、それは然し、もうぼつぼつ明かしてもいい真理、すでにその時は来ていると思うのだが、どうだろう。 こういう、バチ当りで破壊的な意見は、聖書の強いバックが無ければ、恐ろしくて決して言えない。ルターやシンラン以上に勇気を要することかもしれぬ。 「これは神を瀆す言葉だ」 と言って批難されたのは、まずイエス御自身であった。故に「瀆神家」と呼ばれて恐れることはない。私は、いわゆるキリスト教はパウロが最高だと思う。ヨハネはキリスト教を少しぬけていると思う。イエスがエホバ神を脱けて「父なる神」と呼んだように、ヨハネはイエス・キリストを脱して「生命のパン」を見ぬいていたと思う。私どもはヨハネの進んだ道を更に進んで、神と共なるロゴスにふれる、その世界はキリスト教も仏教もイスラム教も無い。万有は帰一する事を信じたい。このような信仰はしばしば、非道徳、あいまいモコ、怠けものの信者をつくる。そうであってはならない。キリスト教のもつ人格神との交わり、高い倫理感、歴史観、果敢な人類愛が、益々発揮されねばならない。 聖霊、それを成し果たし給わんことを。 キリスト霊の臨在・盈満はもっともっと求められなければならぬ。そうでなければこんなキワドイ、剣が峯をわたるような信仰が保てるわけがない。(1972.6.24「大分通信」より) (「こうすれば信仰がわかる」に収録)
by hioka-wahaha
| 2011-03-29 12:54
| 日岡だより
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