「聖化」と「強化」
大抵の場合、キリスト教においては、義認の信仰が第一歩である。義認の信仰とは、イエス様の十字架のあがないにより、私の罪は消えて、私は神様の前に義人と認められた(完了形である)、という信仰である。 人によっては(かなり少ないと思うけれど)信仰の第一歩から、神様の前に清められたという信仰を与えられて、後に述べる聖化の信仰に一挙にはいる人もいるかもしれない。 信仰の成長の経過を簡単に記すのは困難だが、まず第一がイエス様の身代わりにより「神の前に義人と認められる」という義認の信仰であろう。第二が聖化の信仰である。言い替えれば、義人と認められる段階を越えて、聖い人になる、という段階である。 それから、「信仰者として強く生きる」ことのできる「強化」という段階がある。まだまだ「聖い人」とは言えないが、信仰の「強い人」にはなっているなあ、と賛嘆される人になれたよ、という信仰の段階である。 「聖い人」と「強い人」との関係は、どちらが先に到達できるか、その辺が難しい。ある人は先に「強い人」になり、ある人は先に「聖い人」になって、それから「強い人」になる。そして、いずれにせよ、どちらに先になったにせよ、その次は「栄光の人」になるのである。 しかし、栄光の人になっても、まだ「強い人」か、「聖い人」には、なっていない人もいるかもしれない。そういう人には、栄光の人になった後も、更に加えて「強さ」にも「聖さ」にも到達して頂きたい。そのようにして「クリスチャンの完成」に至るのだと言えようか。 これはまあ、そのどの領域にも達していない落第生の私が減らず口を叩いているわけだから、恥ずかしいし、恐縮の至りだが、恥を忍んで、教理的理屈をこねているわけだ。 ちょっと横道に逸れるが、信仰の成長を勧める「聖化」を強調する文章にはよくお目にかかるが、信仰の「強化」を励ます文書は少ないように思う。 「聖化」の分野には当然「強化」が含まれて良いと思うのだが、「聖化」を目指す時には、兎角、自制的に、且つ内省的になりやすい。突進的に前進するより、控えめに用心しいしい進みやすい。突進し爆進する決死の前向き姿勢が衰える。聖化を強調すると、どうも豪傑風の姿勢が衰えるのである。しかし、信仰者の生き様には英雄豪傑風の姿勢が欲しい。 例えば、内村鑑三先生の生き様を見ると、日本愛国主義に立ち向かう雄々しい姿がある。当時のクリスチャン、誰も内村先生の応援が出来なかった。 太平洋戦争の最中、東京で日本宗教者連盟のようなものが政府のお仕着せで造られたことがある。その時、会場の周囲のロビーではほっつき廻る警官のサーベルの音がしたと言う。 その中の会場では全国から集まった僧侶、神官、牧師たちに、「皆さんは今日から、各神社、寺院、教会の主管者として、政府に記録されます。慎重に進退されたい。公務員になった訳ではないけれども、みなさんの立場は確認されます」と言うようなことになったらしい。 私の教会の牧師先生が東京から帰ってきて、以上のようなことを信徒の皆さんに告げて、大いに気負って気炎を上げていたことを覚えています。 これまで敵性宗教の牧師として睨まれていた牧師が、急に身分が認められ、社会的にも安定したという安心にホッとしていた感じが見受けられました。戦時中のキリスト教の牧師の不安な時代の一挿話です。 ともあれ、こういう時に、時勢の動きに惑わされないで、堂々とクリスチャンらしく、また牧師らしく生きることは、難しい時代でした。 さて、その時代、私は昭和20年1月に刑務所を出て、大分に帰って来ました。幸い、従兄の親類にまず兵役召集など滅多に来ない職種の会社支店長が居て、私はその会社に就職できました。これは有り難いことでした。 そして、終戦。終戦じゃない、敗戦ですよね。私は即座に会社を辞め、伝道の準備を始めました。《く》 【過去の週報より②】 (1971.9.26~1975.8.20) ■一九七一年一〇月一〇日 (大分通信No.2) <神話の中における神>(つづき) ところで、生物の進化や人間の成長を見ていると、精神を持たぬ肉体はあるかもしれぬが、肉体を持たぬ精神は無いように思われる。精神は高度に発達した肉体の中に発酵するもののように思われる。 神は神話的表現を抜きにしては語りにくい。宗教というものもそうだろう。神話は神の肉体であろうか。それを離れては神意識は発酵し得ぬ「肉体」であろうか、冒頭の猫の話ではないが、高等の抽象能力があれば、神話をぬきにしても、神を想像できるのかもしれぬ。 しかし、それはやはり弱い思考力にはたえられぬだろう。神話的にロマンチシズムの中で無くては、神の英気はかおって来ぬようにおもわれるのだ。(九・二一)
by hioka-wahaha
| 2011-01-18 15:51
| 日岡だより
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