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No.184 主との親しい交わり、その一つの例 2005.7.10

主との親しい交わり、その一つの例

 「常に主と交わっているという境地は、好ましいけれど、むつかしいです」と言って、あきらめる人が多いと思います。
 いつか「日岡だより」に書いた記憶がありますが、親しい交わりの仲にはムダな言葉が多いものです。つまり雑談が多いと言うのです。
 このことから気づいた一つのアイデアですが、神様との会話にムダな言葉を入れる、つまり雑談を多くすると神様との間が親しくなる! これはラッキーな思い付きでした。
 目にいるもの、気がつくこと、人のこと、物のこと、一切を神様との会話に挟みこむのです。
「神様、あの坊や、かわいいですね。あの子を神様、愛してください」
「わあ、向こうの山、きれいです。こんなきれいな山を造ってくださってありがとうございます」
「あのお店に、はいってみたいです。買物してはいけませんか」
「この小川、むかしはメダカがいたでしょうね」
「この道、よく掘り返していますよ。市の予算のむだ使いですね」
 こんなおしゃべりを神様に申しあげるのです。その時、ぜひ神様からのご返事を貰えることを期待してください。もし聞こえたら、うれしいですね。
 なんとなく、お言葉が聞こえたような気がしたら、その聞こえるように思える言葉を自分で言ってみてください。神様から直接お言葉を聞いたような気分になります。
 ひとり芝居みたいですけれど、こうして仮に神様との会話らしきものを楽しんでみるのです。
          *
 これは、なんだか冒涜のように思える人も居るでしょう。しかし、安心して神様との会話の練習と思って何度も心の中で試みてみて下さい。
 そのうちに素直に、順調に、少しずつ神様との会話が始まるようになります。
 これを普段の生活のさなかで、実習してみてください。
 たとえば、笑いの練習で、作り笑いをするのは偽善に思えて困る方もあるでしょうが、そういう方に、これは神様の前にいつもニコニコしているための真面目な練習ですよ。決して偽善ではありませんよ、と私は説明しています。
 それと同じ理屈で、この神様との会話の練習を、「偽善、いや神様の名を悪用した冒涜だわ」などと気にしないで、「これはまじめな練習です」、と神様にお許しを願って、この練習をつづけるとよいのです。
 そうすると昔、壊れたポンプに呼び水を送って水を吸いあげたように、私たちの深層意識の底のほうから神様の言葉として相応しいと思える言葉を自己流におしゃべりして吸いあげてみるようになる。
 これを繰り返しているうちに、少しでも本当の神様の言葉が上がってくるようになるかもしれない。これは神層意識からの神様のお言葉を聞き分ける練習なんだと自分に言い聞かせてください。
 こうした練習を繰り返しているうちに、常に絶えることなく、神様と交わっている幸いな人に変って行けるでしょう。《く》

  
信仰の心理学(三)

 クリスチャンで「自分の心をもっと清くしたい」と願わない人は無いでしょう。前号から引き続き書いていますが、この「信仰の心理学」は、その願いにたいする実践的な試論の一つです。
 お断りしたいことは、前頁に書きました「主との親しい交わり、その一例」も同様の目的を持っています。読者にとってはまぎらわしい小論でしょうが、逆に言えば相補的な意味合いを持っています。ご熟読ください。
 また小生がこうした実践的聖化論について、その達成者のように誤解をうける恐れもありますが、私は至って歩みののろい、こうした主題について口ほどにもなく不適格な者であることをお詫びします。
 しかし、こうではないかと道筋の見当をつけ、青年のような熱情をもって心路突破を求めている者でもあることを告白します。
 これまでのプロテスタントの聖潔派の主論や、ペンテコステ派の聖霊のバプテスマに異を立てるのではなく、もう一つの手近な方法論を模索しているのに過ぎません。ひょっとしたら、カトリックのイグナチウス・ロヨラの「霊操」の跡を追っているのかもしれません。《く》
 
 これは、あなたの心を清くする方法でもあります。聖化論の戦闘的具体策と思ってください。あなたの心に悪しき思いが浮遊しています。これまで長いこと、これを追い払い、これを消しさることに失敗してきた方が多いことでしょう。
 この私たちの心から暗い気分、悪しき思いを拭いだすための第一作戦は、これら悪しき思いの源泉であるサタンを追い払うことでした。本紙183号掲載「信仰の心理学」(二)を参照してください。イエス様のお名前を使って確信をもって「サタンよ、立ち去れ」と命じるのです。
 第二には、あなた自身の心に命じるのです。「悪霊どもの残した悪しき言葉の数々よ、消えて行け」「暗い心よ、明るくなれ」「憎しみよ、消えよ」「汚れた思い、清くなれ」、等々。
 この命令を発したら、しばらく放って置きます。神様の御手にゆだねるのです。そうすると、いつの間にか悪しき思いの残存も消えてゆくものです。
 もう一つ、処理しておきたいのは弱さの自認感情です。「自分は弱い、失敗している。私の罪は消えていない」。これらの弱い感情や罪責感をイエス様の血潮によって消し去り、強い強固な感情に建て上げる必要があります。
 もちろん、まだイエス様を信じていなくて罪の赦しを得ていない人はだめです、しかし既にイエス様を信じて罪を許され、死んだら天国に行ける信仰を持って居る人は、今更、罪意識に苦しみ、失敗や過ちを苦に病んで、自己不憫症に陥る必要はないのです。
 「私はイエス様の血潮により許され、救われている。私を責めるものは悪魔の虚偽の訴えである。私は主によって救われている。サタンよ、お前に騙されないぞ。私はイエス様の血潮であがなわれている。サタンよ、下がれ、私は神の子だ。私はイエス様の十字架の下に立っている」と叫びなさい。
 こうして、私たちはサタンの影響下から逃れ、救われ、勝利し、悪しき思い、汚れた思い、弱さの感情。無用な罪責感から救われます。ダイナミックな聖化への変革を得るのです。
 主が清くあられるように、私たちは清くなるべきです。私たちの意志をもって心に命じると、命じる言葉は必ず心に成就します。私たちの心は清くなります。もちろん、完全にそうなれるとは言いませんが。
 しかし、知性は聖書を学び、聖書に従って意志に善い方向性を与えます。善い意志は、善い言葉を発し、善い言葉は善い行動を起こします。善い行動は自信を伴い、善い感情を引き起こします。そして自らの自我を確立させます。こうして、一種の人格的自信を生むのです。
             *
 ここで、ぜひ必要なコツを紹介します。それは祈りの主題を具体的にすることです。個々の問題について祈り、次第にそれを一つのグループにまとめあげて、一括して悪しき思いの一グループを一掃するのです。例をあげます。
 たとえば「ねたみ」の心が湧いて苦しんでいるとします。これは対人的悪意でありますから、対象の人がいるはずです。その人の名を挙げて、「Aさんに対する嫉みの思いよ、去れ」と命じます。たいてい一度や二度では消えて行きません。しかし、五度か十度で一応止めるのが賢いのです。
 あまり繰り返すと、却って「私ごとき者は何べん祈っても聞かれない」という思いに捉われて祈りの自信を無くすからです。そして五度くらいが丁度よいと思うのは私の経験ですが、私は五度でやめて後は主に任せて放っておくのです。
 そうすると早い時は5分か10分で、遅い時でも半日もすると、その嫉みの思いが無くなっていることに気づきます。この「主に任せて放っておく」、これは「主にお委ねする」ということのコツでもあります。
 こうして、Aさんに対するねたみの思いが消えたにしても、別にBさんに対する嫉みの思いがあったことに気づきます。今度は「Bさんに対する嫉みの思いよ、去れ」と命じます。そして、Bさんに対する嫉みの思いが消えますと、今度はCさんに対する嫉みの思いが残っていることに気づきます。今度はCさんに対する嫉みの思いについて、去ることを命じます。
 このようにして数人の人にたいする具体的自己命令をやっているうちに、一種の汎化作用が起こります。
 その命令力が個々の対象を離れて同一傾向の問題に対して総括効果をもたらすということです。つまり「友人たちに対する嫉み」の心が全般的に無くなってしまうということです。
 この汎化作用が起こり始めると、聖化についての強力な影響がもたらされます。
 もっとも、悪魔によって荒らされた人間の悪しき心の傷の領域は、更に更に深くて微妙で混然としていますから、完全に私どもの人格が清められることは困難です。
 しかし、ここでジョン・ウェスレーの高唱する「聖潔」の信仰の賜物を求めましょう。その時ジョン・ウェスレーの言う「常に神と共にいる」人生を始めることは随分容易になります。この角度を更に研鑽したいものです。《く》


(第184号付録)
2005年7月10日(荒巻保行君の命日を前に)発行


父の死、荒巻保行、そして芥川龍之介のこと

 1930年(昭和5年)3月12日、私の父が死んだ。父の名は太重という妙な名で「たじゅう」と読む。死亡通知を出しているが、そのはがきが残っている。文章を多少現代風になおし、抜粋してみる。
「拝啓父太重儀永らく病気の処神の御旨により昨12日午後11時天に召され候 故人が生前受けし信仰の導きと交わりとを思いここに深く感謝をこめ此の段御通知申上候 釘宮義人」
 多分、この文章は父の長兄・釘宮徳太郎のものである。私は当時7歳の少年、こんな文章を書けるはずはないし、母も書くことは遠慮する、釘宮徳太郎に違いない。ともかく、短い死亡通知一片にも信仰的気迫をこめている。弟たる私の父への愛情もある。
 この同じ年、同じ月、つまり1930年(昭和5年)3月だが、その28日に内村鑑三先生が召される。70歳、ちなみに私の父は44歳、若かった。母は38歳で未亡人になったわけである。
 翌年の9月18日、満州事変と日本は称したが、対中国戦争が始まり(本当は「起した」と書くべきか)、後の対英米戦争、いわゆる太平洋戦争へ拡大の端緒となった。
 脱線するが、太平洋戦争の戦争責任を日本だけに負わせるのは酷だと私は思っている。しかし対中国戦争については日本に同情する余地はほとんど無いと思う。
 思い出してみると、この昭和六年ごろから東北の冷害はあるものの、日本の国内事情はやや明るくなっていたのではないか。日本中「東京音頭」で踊っていた感もある。
 年賀はがきの特別取り扱いが始まり、鉄道の機関車が形だけでも流線型になった。大分市ではデパートができ、エレベーターなるものに驚きの目を見はった。
 政府や軍部が「戦争するも良し」と判断するだけの経済的余裕が日本にできかけていたのかも知れない。
            *
 1932年(昭和7年)5月15日、海軍青年将校らによる首相襲撃事件、いわゆる5・15事件が起こる。4年たって、1936年(昭和11年)2月26日、青年将校らによる大臣諸公襲撃、相当規模の反乱事件が起こる。2・26事件だ。
 その翌日、2月27日、伯父の釘宮徳太郎が永眠、東京の友人たちは一瞬、釘宮さんは大分の軍人たちに殺されたのかと思ったそうだ。その通夜や葬儀の席上で加藤虎之丞氏から当時の国際、国内の政治事情を聞いて、世界や東洋、そして日本に対する平和主義的関心と熱情が私の胸に高まったのである。
 後々の非戦主義はこの時から私の内に醸成されていったのである。もちろん、叔父釘宮徳太郎の残した信仰日記に大きい影響を受けたのは当然である。
 その頃、私は14歳、大分商業学校2年生、小学校時代のブクブク肥えていた肥満体が消えて痩せ型の美少年に変わりつつあった時である。当時、友人たちとガリ版ずりの同人誌のひよこみたいなものを作って、学校の成績はどんどん落ちていった。
 この商業学校の3年生のとき、荒巻保行君と親しくなった。彼が病気で休んでいるとき、私は彼に一篇の詩を送った。それが彼を喜ばせた。そして生涯(!)を通じての心の友となったのである。商業学校を卒業するとき、彼は文学好みで特にフランス文学をやりたくって、外国語大学に行くと言う。
 私は、初め大分市内にある大分高商(後の大分大学経済学部)に進学するのが母の希望だったが、実は文学部に行きたかった。ところが当時の学制では商業学校から文学部へは行けない。私は進学を断念した。これは私の短慮というか、失敗だったと思うが、とにかく叔父徳太郎の残した肥料問屋の店に勤めることにしたのである。私の家がその支店として肥料小売商をしていたので、まあ商売の見習いということであった。
 ところで、荒巻保行のことだが、彼は東京外大の受験寸前に倒れた。胸を病んでいたのが分かった。当時の多くの青年をむしばんだ結核である。彼の父親は最初、別府の下町に別荘を持っていたので、彼を一時そこに住まわせたが、すぐ山手のほうにこじんまりとした別荘を建てて、そこに彼を保養させた。食事や身の回りの世話に年寄りのおばあちゃんを同居させた。
 彼は最初は結構この生活を楽しんだ趣きもある。玄関には柔らかい字だったが書道の先生に書いてもらって額を掲げた、「蒼瞑荘」。彼の好きそうな名である。
 周辺は落葉樹の林が多くて、彼はその環境が気に入っていたようである。私はよくそこに彼を訪ねた。
 今でも、その付近をとおると、胸がツーンとする。地に伏して泣きたいような気持ちになる。
            *
 ある日、訪ねると、彼は言う。
「このごろ、哲学を勉強している。ショーペンハウエルって奴だがね、知ってるだろ、厭世哲学の。この人は厭世哲学というけれど、70歳も越えて若い娘に恋愛しているんだよね。バカにしているねえ(彼は私をのぞきこんで言った。つづけて)、僕は死の哲学を作ろうと思ってるんだ。多くの哲学や人生論が、すべて生きている事は善い事だ、ということを前提に始める。例えばさ、ロマン・ローランだ。これはインチキだと思うんだ。生きていることが良いことか、悪いことか、そのことに何の疑いも抱かず、それを肯定して、その前提のもとに生の哲学を立てる。もし生きていることが無意味なのだときまったら、その哲学は全部崩れてしまうだろ? 僕は死の哲学を作りたいのだ」
 「おい、おい。それ可笑しいんじゃないか。君が死の哲学を立てるのはよい。そうしたら、生の哲学ならいざ知らず、死の哲学を本当に立てたのなら、その哲学のノートや原稿を書く余裕はない、その場で死んでしまうんじゃないかな、ハハハハハ」
 彼とは、そんな会話を交わし、そして私は彼の住まいを辞した。それが最後であった。
 1941年(昭和16年)7月12日、彼の父から電話があった。「保行の行方が分からない」。私はびっくりして別府に飛んで行った。しばらくして、彼が以前、住んでいた下町の別荘でガス自殺をしている姿が発見された。呆然として私は彼の死体のそばに座りこんでしまったが、ついに耐えきれなくて大分の自宅に帰った。すると、彼から小さなノートが届いていた。彼の最後の日までの日記であり、また私への遺書でもあった。
 私はそれを読んで泣いた。一夜泣き明かした。大分川のほとりに行って、川辺で泣いた。水辺に遊ぶかもめの姿が今も目に焼きついている。現在、元・西鉄グランドホテルが建っているところである。
 彼はその小さな手帳に「紫荊」という名をつけていた。読み方は「はなずおう」というのだそうだ。弱々しい花びらが彼の心を引きつけたらしい。辞典を引けば「花蘇芳」という正字が別にあるのだけれど、彼は「紫荊」という字にこだわっている。
 私のひそかな憶測だが、その字を「しけい」と読んで「死刑」を連想していたのではないか、とさえ思う。彼は彼自身を死刑にしようとしたのである。
 彼の遺書をかいつまんで紹介すればこうなる。「人間の生というものは感覚的なものである。そして感覚は快なるものを良しとする。そして快なる感覚は人を罪に誘い込む。
 感覚も快も罪ではない。しかし、それを肉に持つ私自身は、それを契機として罪を犯してしまう。
 友よ、私は死ぬことによって、私の罪を消そう、赦して貰おう、というのではない。ただ、一刻もはやく、罪の生にピリオドを打ちたいのである。
 友よ、今、死に臨んで、君が冗談のように言ったあの言葉が、私の心に、あいくちのように刺さる。まさしく君の言うとおり、死の哲学が完成したならば、『その場ですぐさま死なねばなるまいね』。でも、私は今、不思議に幸福感に満たされている」。
 私はそれまで軟弱な文学青年であった。しかし、その時から死と生の問題に思いをひそめ、死からの呼び声におびえながら、それからの解決を求めた。
 私は父が信じ伯父が信じたイエス・キリストに救いを求めた。しかし、そのイエス・キリスト体験をするまで3年かかった。それは福岡刑務所の独房の中に於いてであった。1944年11月23日のことである。
 実は、私は最近、奥山実先生の「芥川龍之介」の評論を読んだ。そこで奥山先生が指摘する芥川の深刻な内面史に、私が前述した荒巻保行の魂の面影を二重写しに見たのである。
 私は深い溜息をつかざるを得なかった。奥山先生の芥川観は凄まじいものである。
 先生自身が深淵を覗きこんだ過去があるからであろう。あの磊落な開けっ広げな奥山先生を見ると不思議な感じもするが、いや、だからこそと言うべきか、神様に感謝する! 《く》

〔あとがき〕
 3年前のある日、突然、ある人から部厚い郵便が届いた。それは前記の旧友荒巻君が、その弟の俊彦君にあてた手紙類の書簡集でありました。時期は昭和16年の4月から7月までの正味40日に足らぬ文集です。
 荒巻君の自死と、それについての私の受けた影響はすでに書きました。私は、その夜大分川のほとりで泣き明かしたことも書きました。その後、私は死んだ荒巻君の真似をしてしばらく哲学を勉強しましたが、私の頭脳ではカント、ヘーゲル、ニーチェは歯が立ちませんでした。
 西洋伝来のキリスト教は、もちろん自死を罪と断じ、その魂は地獄に行くと言います。それが本当なら荒巻は地獄行きです。そんなことがあろうか。しかし、それが本当なら、自分も荒巻を追っ掛けて地獄に行きたい、そんな風に思う私でした。
 さて、弟さんの送ってくれた荒巻君の書簡集には驚きました。これが、当時の旧制大分商業学校というマイナーな学校を出たばかりの19歳の青年の書いた手紙だろうか。私は彼の「遺簡集」を読んで、彼の思索がこんなに深かったのかと驚嘆しました。
 こんな事を書いてあります。ある哲学者を評したあげく「彼の烈々たる愛国の情熱に大いに感動している。哲学が決して学者の閑事業でないことが分かる。いたずらな文学者みたいな、やくざ的なところがない。実際、今日の文学者の書くものには「時局便乗的」な臭いを感じる。彼らはいつも思想をペン先から作りあげる。だから戦争が始まれば、すぐ戦争文学を書く。平和になれば、その同じペンから平和文学をすぐ書くだろう。馬鹿々々しいよりも彼らの精神の悲惨さに目をそむけたくなる、それにくらべれば、日本の哲学者は感心だ。彼らを大いにほめておこうと思う」。
 これがあの思想統制の激しかった戦時中に、19歳の若者が言ったことだろうか。また、「日本の哲学者は感心だ」などという彼の大人ぶりにも一驚する。その頃から、2年もすると、同じようなことを私が自分のノートに書き始める。そして、その後の私の人生に《非戦主義と自殺と刑務所行き》というコースが待っていたわけだが、彼の見通していたコースの上を私は走っていたことになる。
 何よりも、彼は生来の詩人だった。気質も繊細、字もきれいで、小詩篇を書いて寄越した。私はその詩心の深さにため息をついたものだ。しかし、それどころではない、こんな頑丈な哲学者としての資質を持っていたのかと、私は呆れるのである。私は全く見誤っていた。私はかの「死の哲学」問答の時、「その時には、その場でさっさと死んでしまえよ」と一家言を呈して彼に一発食らわせたつもりでいたが、どっこい彼は先刻承知、彼は「僕も釘宮の言うことに大賛成だ」だと弟さんに書いている。私はお釈迦さんの手のひらの上で踊っている孫悟空のような者だったわけだ。
 彼は言う、「宗教は人が自己の自己たる所に絶望し、その絶望に直面して絶望に泣く所から始まる。神は決して罪悪なき天上の調和的世界に居られるのではなくて、罪悪に汚され、矛盾に満ちた地下の底におられるのである。神は愛であるというのも、ただ憎悪のない非現実的世界に神の愛が見られるのではない。金貸婆を殺したラスコーリニコフの悪の魂にも、フョードルの汚れた血を受けて人倫から背き去ったカラマーゾフの兄弟ドミートリーの魂の底にも、燦として輝く愛なのである」と。私は脱帽した。《く》
by hioka-wahaha | 2005-07-10 00:00 | 日岡だより
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