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No.464 秋川集会の恵み 2010.11.28

秋川集会の恵み

 先週は恒例の東京秋川集会への旅行だったが、最近足腰がとみに弱くなってきたことと、昨年東京駅での乗換えを間違えたことを周りにさかんに心配されて、今回は次女のせつこに連れられて行ってきた。なーに一人でも大丈夫と思っていたが、実際は「同伴」でなくまさに「連れられて」行ってきたようである。釘宮先生、そろそろ隠居かなあ。
 さて、秋川集会では、主日礼拝、ミニ集会、そして近くの兄弟宅を訪問などして過ごしたが、嬉しかったことは秋川集会を開く赤坂家の長男S君の奥さん、I子さんが洗礼を受けたいと言ってきたことである。
 もう20年ほどになるだろうか、S君が当教会に研修生のように滞在していたのは。2人のお子さんを連れ、良いご一家となっているのを見るのは嬉しいことだ。I子姉は私の話を熱心に聞いて受け入れ、そして赤坂家の風呂場で洗礼を授けた。秋川集会を守る長女の文(あや)姉が感激にあふれた声で祈った。3姉弟にそれぞれの子供、お母さんの律子さん、長年共に暮らす相馬さんもそろったその夜、ここに礎を築いたお父さん、亡き赤坂兄弟の思い出話などを語って更けた。
 今回、羽田と立川の間をバスで移動したのだが、レインボーブリッジや、遠目に見る新宿のビル群など、電車とは違う景色が楽しく、次回もこれで、と思ったことだった。《く》


【過去の週報より①】 (1971.2.14~1971.7.18)
       
■一九七一年五月二日
<十字架の教理は>
 十字架の教理は、不条理の教理でありまして、言葉で説くことはオロカなことであります。しかし、このオロカなことをくりかえしていると、いつの日か必ず、「ウム」と分かる日が来ますので、このオロカな業が実は一番カシコイことなのだと神の子たちは知っています。何という不条理でしょう。それが福音の性格です。
 
■一九七一年五月九日
<こういう群になりたい>
 またぞろ悪い病気(?)がおきまして、集会形式を変えようかなどと思っています。
 第一、最近定例的マンネリズム化した集会に嫌気がさしていまして、集会をやめて「集団」化しようかと思っています。
 みんなぼつぼつ、信仰にコケがはえてきまして、ヘドロのようなものが精神生活にただよっています。
 福音的信仰、絶対的救いの確信、非律法的霊的信仰に安住して、ハナ風船をふくらまして昼寝しています。
 自分の信仰は立派なので、そうそう集会に行かんでもいいという自信家がいます。
 一週に一ぺん教会まいりするとあと六日間非常に気分がいいという霊的レジャー型は成績のいい方です。
 かく申す小生の方も、日曜の聖書講義一時間にフウフウでありまして、とてもセンタクもせんでもよい、家族も放っておいてよい、我が預言の声を聞け!というような意気がでません。
 悲しい沈滞が我が群にたちこめています。これを打破するには何が必要だろう。
 祈祷!とか、聖霊とかいう叱咤激励の声はごもっともであるが、中味はともかく言葉としてはチンプでありまして、我らを感激させない。
 五月五日、終日我が身を聖書と祈祷と黙想に委ねました。特にギリシャ語聖書の味わいは蜜の如く甘くあり、またサソリの毒の如く私の心を射ぬきました。以下はその時のメモ。
 三日、四日祈ってみて、少しは顔が輝いていないだろうかと鏡を見る。断食して祈れば少しはマシな人間にならんだろうかと考える。そういう根性は余りにもシミッタレです。そういう偽聖者根性を根こそぎ刈り取りなさい。伝道効果をあげようとか、無理にも判りやすく説教しようとか、そういう集会意識を捨ててしまおう。
 時を定めず、処を定めず、時に応じ処に拠って、志を同じくするものが集う、その集団において神の声をききたい。
 「随所において主を拝す」そういう群でありたい、と。
 
■一九七一年五月二三日
<聖書の学びについて、祈祷について>
 学校の勉強でも予習は大切です。まして、聖書を学ぶこの「学校」では予習を忘れぬようにしましょう。讃美歌などは一度うたってみておいてください。(本当を言うと、一度といわず二度も三度も、二十ぺんも三十ぺんもうたいますとね、何とも言えぬ韻(イン)がついてきます。喉が笛のように鳴って歌がさえてきます。霊唱ともいうべき神秘なひびきを帯びてきます。)聖書も開いて読んでおきましょう。これも音読がよいのです。昔は、聖書など今のようにたくさんあるわけではありません。教会に一冊、村長さん宅に一冊、町の商人の家にマタイ伝分冊が一冊、そんな具合だったでしょう。それで礼拝や集会のたび毎に一人の人が聖書を読んできかせる(ルカ四・一六、一七参照)、それをみんないつしか覚えこめるように、朗誦の仕方もいろいろ工夫され習慣化されていたでしょう。仏教の読経、イスラム教のコーランのように。現代人は、聖書を虫メガネでのぞき込むように研究することを知って、朗誦して聖書の文体のリズムを体得することを知りません。旧約聖書のくりかえしの多い文章など特にそうですね。文語聖書で朗読なさることをおすすめします。
 さて、「主の祈り」ですが、定形化されたものは、讃美歌五六四番にのっています。聖書記事としてはマタイ六・九~一三、ルカ一一・二~四の二つの並行記事があります。この二つの並行記事の差異や、その前後の事情を読みくらべて、不審な点や気のついた事をメモしておいてください。
 それにもまして準備しておいてほしい事は次のメモ
①目下のあなたの祈祷生活の実態(時間・回数・場所・内容・霊的所感)
②今、感じている祈祷上の困難(祈るための困難、形の上で、心のことで、それら一切)
③祈祷に関しての聖書記事で特に感銘していることば
④祈祷に関し、これまで教えられ、又経験した言葉や事例
        *
 さらにさらに、それにもまして準備してきてほしい事は、みなさんの「祈祷」それ自体です。(「こうすれば信仰がわかる」に収録)
by hioka-wahaha | 2010-11-30 12:18 | 日岡だより
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