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No.400 気分を切り替えよ/主の御名を呼ぼう13 2009.9.6

気分を切り替えよ

 総じて人間は気分に弱い。どなたでも、そうだろうと思う。特に旦那様がたはいかがですか。「やあー」と頭をかいている男性諸兄が目に見えるみたいです。
 ひどい人は朝の味噌汁の味が薄すぎるというだけで、ご機嫌を損しているかもしれない。それを口にすると奥さんから叱られるから我慢して黙っている。そうすると、尚更に気分が優れない。
 こういう時に、「僕はどうしてこんなに我が侭なんだろう。ちょっと我慢すればよいではないか」と自分をたしなめるが、そう簡単に気分が変わらない。
 自分では気がつかないが、奥さんにはすぐ分かる。「あなた、どうなさいましたか」。
 奥さんの言葉使いが急に標準語で丁寧になることが多いのも不思議。
           *
 こういう時、「神様、私はどうしてこうなんでしょうか」と、泣き声を出して祈ってもよいが、もうちょっと気軽に心の中で「神様、いつもの気分転換をお願いします」とお断りしてから、「ワッハッハハ」と軽く笑う。そして、「カアチャン、お味噌を足そうかねえ」と立ち上がってお勝手に行く。
 こうして気分を一瞬に替えるんです。さらに具体的に自分の気分を客観視し、これを切り替えてゆくための道具として、アメリカのデューク大学で製作した「気分測定表」というものがあります。
 「やあ、今の僕は『心配』という段階だな。そうだ、神様、『決然とする』『意欲的』と、気分を替えたいです。更に『勇気づく』と行きたいです」。
 こうして、神様に求めましょうね。《く》


(以下は1968年執筆の「主の御名を呼ぼう」の連載です。)

主の御名を呼ぼう 13

「ほどけばほどく程もつれてくるんだね。底の無い桶で井戸水を汲むようなものさ。禅宗流に言えば、その糸玉をほぐすことをやめ、その桶で水を汲むことをやめ、糸玉を火にぶち込み、桶を井戸の底に投げ込むとよい―――」
「………」
「まあ、待つことだ。終りまで耐え忍ぶ者は救われんとイエスが言うでしょう。求めよさらば与えられんと言うでしょう。自分で自分をすくおうとして、スコップを持ってきて自分の尻の下にしいても、いかな大力でも自分で自分はすくえません」
「………」
「そこで、自分で自分を救うことをすっかり絶望すると、あとには静かな無期待の待望が生じるのです。絶望をこえた待望こそ、イエスの言う終りまで耐え忍ぶという心です。淡々とした世界が開けるのですよ。」
「………」
「法然のところにね、ある人が聞きに来た。御坊、念仏申している途中眠気ざしてつい居眠りをしてしまうことがございます。どうしたらいいでしょう。そこで法然は言う、目が覚めたら念仏申しなさい」
「ははははは」
「こういう処は禅者的風格を持っているね。落語に似てオチがあるんだ。ある時、儒者が禅坊主のところに来て口論を吹っかけ、興奮して立腹その極に達し、お茶を茶碗ごとひっくり返してしまった。そこで坊主言う <こういう時、儒者の方は何となさいます> その儒者は目を白黒させ返答に困った。すかさず坊主は言う <私どもではこういう時、こぼれた茶をふきまする> と雑巾を持って来たそうだ。凄いオチですね。
なぜこうなるかと言うと、過ぎたことへの執着からです。いつか一休和尚とその弟子がうなぎやの前を通った時の話をしたでしょう。一休は <ああうまそうだナ> と言う。一町ほど過ぎて弟子が <お師匠、仏弟子の身でありながら魚の香りにああうまそうだナはないでしょう> ととがめたら <おや、お前まだうなぎのにおいをかいでいたかい> と言ったという。同じように、さきほどの儒者は、 <こんな時あなた方儒者はどうなさいますか> と問われると、今何を為すべきかという事よりも、腹を立てた事、その見苦しさ、残念さに心がとらわれているのです。法然のところでの問答もそうです。法然に言わせれば勿論、念仏専心であってほしい。居眠りするよりは居眠りせんで念仏を称えたほうがいいに決まっている。しかし、すでに居眠りしてしまったあとで、私はなぜ居眠りしたろう、私はダメなんだ、もう念仏なんかやめてしまおうかなどと、いろいろ苦に病むのがいけない。過ぎたことは過ぎたこと、目がさめたら念仏せよと言うのですよ」
「あ、そこで淡々といけますね」
「さよう、クリスチャンなら祈るでしょう。祈りながら雑念がわく、勿論雑念のわく祈りなんかより雑念のない集中された一心の祈りがいいに決まっている。しかし祈りの最中に、その反省がはじまると雑念を押しのけようとして、更に雑念はわく。池の波を静めようとして水面を手でかきまわすようなものです。そこでどうしよう、法然流に答えると、雑念のわくまま祈るべしです。」
「分かったような気がします」
「今まで言ったこと、実はみな一つのことです。真理追求の足が、ひとたびドンデン返しを食うということです。
テンカンの子の親が、イエスにその子をいやしてくださいと頼む時(マルコ福音書第九章一四~二九)、イエスは <信ずるものには、すべてのことが成就します> と答える。 <そこで、その子の父ただちに叫びて言う、われ信ず、信仰なき我を助け給え> とある。このせっぱつまった父親の気持ちがよく出ているが、ここで注目すべきなのは、 <われ信ず> と言いつつ <信仰無き我を助け給え> と言って、自分の無信仰を告白しているところです。このテンカンの子の父の信仰は、無信仰を告白することに基礎をおいているとも言える。逆説的なんですね。
これからの生活のすべて、この流儀でいくといい。気分がすぐれぬなら、気分がすぐれぬでよい。気分がすぐれぬまま信心するんです。夫婦喧嘩すれば夫婦喧嘩するでよい、そのまま、信心を続けなさい。思わずカッとなって、社長に文句を言う、気分が悪い、しかしそこで滅入らないで、気分のムシャクシャするままに、祈りの生活に戻りなさい。なぜ喧嘩したろう、なぜムシャクシャするのだろう、こんなことはクリスチャンとしてあるべきではない、などと心の畑をひっくり返すことはやめて、そのまま信じ祈り、自分に見切りをつけて、神様を見上げて生きていくのです」
        四、
 昨夜おそくK君は帰っていった。私は昨夜のK君との問答(といっても私の語ることのみ多かったが)を思い返していました。
 今日、七月三十日(注・1968年)、ふだんなら月末をひかえて金繰りに奔走している頃かもしれぬ。外ではブルドーザーの音がする。この病院の付近は区画整理中で家をこわしたり土を掘り返したりで大変です。それと同じように、私は金繰りの心配もなく一切の俗事は妻や留守中のみなさんに頼んで一見のんきであるが、やはり心の中が区画整理で大工事中です。(つづく)《く》
by hioka-wahaha | 2009-09-08 10:02 | 日岡だより
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