No.788 戦争と求道者―私の信仰三段とびの記(1)― 2017.2.19

戦争と求道者
――私の信仰三段とびの記(1)――
釘宮義人 
 
 私はクリスチャン・ホームに育ちました。父母の属した日本基督教会に行ったり、伯父の無教会の集会に行ったりしていました。内村鑑三が好きでした。戦争の時代です。私は非戦主義に心をうばわれました。内村鑑三のほか、トルストイ、ガンジー、ロマン・ロラン、矢内原忠雄などの影響でありました。
 そんなふうでありながら、どうしてもかんじんの信仰を持てませんでした。決して信仰を嫌ったのではないのです。いいえ、それどころか、熱烈に信仰にあこがれたのです。しかし、あこがれれば、あこがれる程、信仰は遠のきました。神の存在を認め、キリストの奇蹟を信じることは、私には早くより当然なことでありました。十字架も復活も、教理としては分りました。当時流行のバルトや高倉徳太郎の本をよみました。知的には何とか理解できました。
 問題は、実感ということにありました。どうしても自分の罪が実感として感じられませんでした。キリストの十字架の贖罪が、教理としてはともかく、自分の事として実感できませんでした。パウロ、アウグスチヌス、ルター、ジョン・ウェスレー、そして私の父などの明確な回心経験を私はうらやみました。その頃、熱読したのは石原兵永の「回心記」です。この本の回心の一瞬の空行を、何度も歎息してみつめたものです。
 その頃、外界は戦争の時代です。ある時、無教会の藤本正高先生を招いて集会をひらきました。先生は、口をひらいて、ずばり「西にはヒトラー、日本では軍部、悪のはびこる今の時代でありますが……」、静かな声でしたが、私の心は恐怖と感激でおどりました。
 私は、非戦主義への傾斜を早めました。教会の会合や、友人・後輩を集めての会合で、一種の英雄・預言者気取りで、やや気負って語りました。しかし、私の内面はみじめでした。私は魂の平安を求めていましたが、それは与えられませんでした。満たされぬ私の魂にとり非戦主義的口吻は、ひとつのアヘンでした。
 その破局はすぐ来ました。私に軍隊の召集が来たからであります。その時、非戦主義者として国や軍に対し正面きって戦うという気力は出ないのでした。そのわけは、当時の皇国思想というものが私の中に多分に生きていたからです。天皇の命令にあからさまに逆うという考え方が出来ません。吉田松陰流の「君主の過誤には死をもっていさめる」という、今の人にはとうてい分ってもらえないような倫理観が心の底にあったのです。もう一つはキリスト信仰がついに掴めないので、霊魂上の絶望感が非常に深刻だったのです。そこでついに自殺を決意するに至りました。
 その時、私は、服毒したのですが、薬物が多すぎたのか、少なかったのか、自殺は失敗しました。その事はすぐ特高に知れ、捕えられてしまいました。(新教出版社「戦時下のキリスト教運動(3)」参考)。そこまで行きつくと、人間も度胸はきまるものです。警察や検事局、裁判所ではあまり卑怯未練な言動はしないですんだと思います。それどころか、相当派手なやりとりもありました。そして、判決、服役、福岡刑務所へ押送です。
 福岡の刑務所では、戦時色一色でした。厳正独居の私に与えられる仕事が、軍用手袋や軍用品袋の縫製です。現代の戦争は国をあげて国民の総力態勢でやります。百姓でも商人でも小学生でも戦争協力から逃れることは出来ません。まさに終末の時代、「国と国、民と民」の戦争の時代であります。刑務所まで来ても、やはり戦争協力か?私の魂は絶望と無力感にあえぎました。
 その時、私の魂は、思わず私自身を徹底的に追いつめていました。私は悲鳴をあげて、私の不信仰を告白しました。地獄でした。私の目は地獄の火を見ました。――そして三日、私に回心の一瞬が訪れました。一九四四年一一月二三日、私は満二二才。ついに私の「信仰三段とび」の助走期が終ったのであります。
 (1980.3.9週報「キリストの福音」より)


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# by hioka-wahaha | 2017-02-28 22:00 | 日岡だより

No.787 信仰とはむつかしいものか 2017.2.12

信仰とはむつかしいものか

 先日、伯父釘宮徳太郎の昇天四四年記念集会があって本家にまねかれ、その司式と説教をさせて頂き、まことに光栄、また感慨無量でありました。次のように言うのは、余りにたかぶった言葉で、人に対しては非礼であるかもしれませんが、「伯父は家名をM子さんに、事業をR兄に、集会をK先生とその後の別府集会に、そして信仰をこの私にのこしてくださった」と思うのであります。親族一統、又、別府集会の方々等三十名ほど集って、「直線的かつ多面的」(当時の原田美実先生の評のよし)なる伯父の信仰人物像をしのび、集会後の座談もなかなか豊富でありました。さすがにこういう席上らしく、クリスチャンでない方々からでも信仰的な話題ばかりで、大変良い交わりとなりました。ただし、しばしば「信仰はむつかしい。信仰はむつかしい」という言葉が出てきて、私は大変気になったのでありました。
 私どもの間では余り聞かれない言葉だものですから、多少奇異に思い、二、三日して、ある集会の時「みなさん、私にかくれてひそかに信仰はむつかしいネ、など言っているのではありませんか」と聞いてみたところ、そういうことはないそうです。けれども、口には出して言わぬけれども、実際は心の中で「信仰はむつかしいなァ」と、思っている人があるかもしれません。求道中の方は特にそうでしょうね。
 信仰がむつかしい、というのには次の三つがあると思います。
①聖書や教会で使うコトバがむつかしくて分らぬ。
②聖書や教会のお話はそれは立派な事ばかりで結構だが理想主義空想論で実行はできそうもない。
③神の存在や、キリストの十字架の贖罪など、信じたいと思っても信じられぬ。信じられる人がうらやましい。
 
 第一のコトバのむつかしさ。これは魚を食べる時のように、食べれる身のところから食べて、おいおいハラワタや骨の方も味わうがよい。聖書のむつかしい処は、大学の教授でも博士さんでもむつかしいのですから。
 第二の実行のむつかしさ。これは、もっともでありまして、聖書の教えには、個人的聖者でなければ実行不可能なような金言名句訓戒説話が豊富です。これらの言葉を遠くよりながめて、他人事のように「むつかしいですなァ」と嘆賞するむきもあります。深刻なのはそういう人と違って、血みどろになってそれらの聖書の言葉を実行しようとして、刃折れ矢つきて絶望に至る人です。人間のあらゆる業(わざ)につきまとう利己心につき当って、人間悪の深淵にあえぐのです。しかし、ここにいつまでもいる必要はありません。
 第三の信仰のむつかしさは、信じられぬ非合理な教理をむりやりアタマで承認し、信じることにしよう、思いこむことにしようとするタイプ。あるいは、信じたいと熱望しつつ信じられぬ自分の魂のガンコさに悩むタイプ。いずれにせよ、自力で信じようとすれば、無理です。仏教風に言えば「仏の方よりもよほされ」、神の賜物として信仰が与えられるのです。たいていの場合、この信仰を頂くためには、第二の深淵は必要路で、この死の蔭の谷をとおって、信仰の峯に辿り行くことが出来るのです。
 信仰は自力ではない、絶対他力である、と言えば、これはもともと真宗的用語ですから問題があります。信仰とは本当は人の心と、神の霊の協同作用のような所があります。この神の霊にもよほされて信仰のおこる時、むつかしい事は何一つありません。
 なお又、信仰を実際社会(家庭、職業、経済、肉体等)の問題に適用して平和、成功、繁栄、健康を得る事は(こういう事は新興宗教の一手独占販売である筈がない)、天地の造り主、唯一のまことの神様を信じる者に能わぬ筈がないのであります。(二・二九・釘宮)
 (1980.3.2週報「キリストの福音」より)


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# by hioka-wahaha | 2017-02-22 14:20 | 日岡だより

No.786 《聖書のことば》4題(「内なる人、強くされよ」ほか) 2017.2.5

《聖書のことば》 
内なる人、強くされよ

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」
(エペソへの手紙三・16)
 
 健康も富も大切なものであります。しかしそれよりも心の強さは更に大切であります。
 およそ、万人が万人と言ってよい程、多くの人が病気や貧しさで心くじけるのです。病気や貧しさは人の力でどうにもならない外からの力による事がありますが、心の力のある無しは、その人の責任です。
 と、言ってしまえば苛酷な精神主義になりそうです。そうであってはならない。父なる神より溢れくる霊的栄光の力によって、内なる人は強くされるのですから。
 (1980.2.3週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
サタンの霊縛を解け

「そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。」
(ルカによる福音書一三・11)
「サタンに縛られていた、……この女」
(同・16)
 
 近代人にとっては信じにくいことだろうが、イエス様の言葉によれば、病気の仕掛人はサタンである。強盗が縄で人をしばるように、サタンは病気の霊で人をしばる、というのである。
 とすれば、この病気の霊の縄目をとくにはどうしたらよいか。御言の剣を用いるのである。エペソ六・14~17によると神の武具類の中で御言の剣はただ一つの攻撃的武器である。御言葉によっていやされよ(詩〇七・20)。地上で解くことは天でも解かれるのである。(マタイ一六・19)
 (1980.2.10週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
キリストに似る

「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」
(コロサイ人への手紙一・15)
 
 私はこれまで、見えない神のかたちを表わしたのは、あのパレスチナに生れ、パレスチナで生活されたナザレ人イエスである、とは信じてきた。しかし万物創造以前より今に至るまで、また後の世までも永遠に変らざるキリストが常に見えない神のかたちである、とはあまり考えてみたことはなかった。しかし、今、天界にいまし、又、私どもの中に生きて下さる主イエス・キリストこそは、実に形をとって神を表して下さる唯一のお方であると分った。その故に、彼を宿す私どもは人格的に個性的にキリストに似ざるを得ないのである。(釘宮)
 (1980.2.17週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
ノストラダムスの予言

「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。」
(ヨハネの第一の手紙四・1)
 
 又も、テレビでノストラダムスの予言の番組をやっていた。こういう好奇心や恐怖心しか生まない予言は、真の預言ではない。第一あのノストラダムスには、何とでも解釈できるあいまいな表現が、まだ別にいくらでもあると聞いている。より大切なことは、人類がいつ滅亡するかという事ではなくて、どうしたらその日から逃れ得るかという事だ。ノストラダムスには、かしこい五人の乙女の求める油はない。目をさまして主の日を待とう。
 (1980.2.24週報「キリストの福音」より)


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# by hioka-wahaha | 2017-02-11 17:40 | 日岡だより