No.783 キリストの光塵(こうじん) 2017.1.15

キリストの光塵(こうじん)

 この正月三か日、折にふれて見聞きしたラジオやテレビの番組は、やはり平素よりは多かったようです。心に残ったいくつかの番組を紹介します。

一、秩父困民党の生き残り、井上伝蔵
 一月一日夜、カーラジオで聞き始め、家に帰って後半ば録音したのが、このNHK文化講演、色川大吉氏「民衆史について」の一部分です。
 明治16年におこった自由民権運動の大暴動、有名な秩父困民党事件は、数千人の逮捕者をうみ、その中心人物はすべて死刑となりました。ところで、この運動の中でも有力な指導者であった井上伝蔵という人は、ほら穴にかくれひそみ、遂に逃げおおせ、北海道の北見に行って、そこで伊藤房次郎と名をかえて土地の女性と結婚して子供も出来、その地の振興の大恩人として人徳と共にたたえられて大往生したのです。それは大正六年のことで、実に三十五年の間、死刑囚としての汚名をかくし、官憲の追求をのがれる、いわば日陰ものとして生きながら、実に堂々と開けっぴろげに、地方の有力者としてすごしたわけです。その子供たちの記憶によると、「自分の親のことを、こんなにほめるのははずかしいですが、こんな人徳のある人間は日本中どこをさがしてもいないのではないでしょうか。どんな時にも顔色をかえず、人を責めず、おだやかで、悠然と芝居をたのしみ、俳句をつくり、夜眠っている時にも、夢をみているのでしょうか、義太夫をやり、歌をうたうのですよ」といった風情(ふぜい)です。
 「どこか、天の一角がつき抜けたような人でした」
 これが三十五年間、過去の秘密をかくして生きた人間の生きざまだったとすれば、実に驚嘆しますね。色川大吉氏いわく、「これは真実、死地を通りぬけた人間でないと、到達できない境地でしょうか」。
 こういう人物はしたわしいですね。クリスチャンでなくても、こういう人は知らずして受肉以前のキリストの光をうけて輝いているのです。青空も、朝やけも、夕やけも、すべて空気中の無数の塵が、太陽の光をうけて反射屈折することでおこる美しさだそうですが、この井上伝蔵などもキリストという太陽の光に映えるすばらしき宇宙塵の一つでありましょう(こういう時、この井上伝蔵はキリストを信じていなかったのだが天国に行っているかどうかなど、あまり詮索せぬことです。天国に行けるか、どうかはまず自分自身の問題であります。人のことはあとまわしにしなさい)。

二、野猿(石川県白山)のボス、母
 一月二日朝NHKテレビ。百匹の群のリーダーとして心血をそそぐボス。氷雨の中で集団を指導しつつ、とうとう挫折を感じたらしい。ボスの姿は見えなくなる。もう一つの話題、生後六ヶ月の仔猿を死なせた母親猿、群が去る時、死んだ仔を残すこともならず連れても行けず思いまどう母性愛、その悲しそうなうつろな目が印象的でありました。
 私の感想。群を生かす為、より強く、より良心的な人物(or動物)が、他の弱い者たちの為、先んじて苦しみ死んでいく。産んだものは産まれし子の為に愛をそそぐ。ここには弱肉強食、適者生存の進化論ではなく、弱いもの、愛されるものが生きのこる、〝贖罪的進化論〟がある、と思いませんか。

三、林竹二氏と水上勉氏の対談
 一月三日朝NHKテレビのかねてより尊敬している前宮城教育大学長の林竹二氏が、作家水上勉氏の真摯な質問にやわらかに答えていました。すべて〝イエス・アンド・イエス〟話法で多少水上氏に気をつかいすぎているのかと思っている中に、最後に水上氏が「分りました」と言って、紅潮した顔で(この時の水上氏の顔の美しさ!)、教育者の手法の原点に気づいていく、林先生の〝授業〟のみごとさ。名言三つ。
 「先生は、各自、自分の授業を作らねばならぬ」
 「最低の一人に努力をそそげ、他の生徒も自然についてくる」
 「先生が変らねば生徒は変らぬ」

四、戦艦ヤマト「テレサの死」
 一月三日、教会学校の子どものために取ってあったビデオ〝戦艦ヤマト〟のおしまいの処をみました。もう万事ダメかと言う時、ある星の王女(?)テレサは超次元の能力を発揮しつつ、自分の生命力を使い果たして、地球の敵である悪巨大戦艦を滅ぼします。美しい場面でして、涙が出ますね。―――さて、人類を滅ぼそうとして我々の周囲をめぐる執拗な悪魔に対し、生命をすてて救いの御業を為し給いしイエス・キリストこそ、宇宙最高のドラマです。
 この美しいアニメーション〝戦艦ヤマト〟にも私はキリストの光塵を見出した心地して感動したことです。あるいは異教的だとして、批難されるかもしれませんが、しかし時にテレビを見るのもいい事ですね。(釘宮)
 (1980.1.6週報「キリストの福音」より)












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# by hioka-wahaha | 2017-01-24 15:32 | 日岡だより

No.782 《聖書のことば》3題(「さがせ!」ほか) 2017.1.8

《聖書のことば》 
さがせ!

「捜せ、そうすれば、見いだすであろう」
(マタイによる福音書七・7)
 
 信仰とは、何も努力しないで、棚からボタ餅式に、何かをもらえることとばかり思っている人もいる。しかし、人が、神様より与えられている能力や知識を十分に用いつくすことは、神の喜び給う処である。
 今日、東京に行こうと思って、早天祈祷で飛行機に三人の席があるよう祈った。あとで電話すると、東亜国内航空は本日は一つも空席なしという。一瞬まどう。そばで妻が全日空は?と言う。全日空は一日一便しかない。あきらめていたのだが、二女がすぐ電話する。―――ところが、あきらめかけた席が、そこにあったのだ。「捜せ・・・」(11/28朝)
 (1979.12.2週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
嘆きのとき、いかに祈るべきか

「あなたが豊かにわたしをあしらわれるので、正しい人々はわたしのまわりに集まるでしょう」
(詩篇一四二・7下)
 
 詩篇一四二篇は、嘆きの祈りです。メソメソなげくのではない。声をあげ、叫び呼ばわる豪傑の祈りです。自分の弱さ、孤独、悲惨の現状を包みかくさず訴える、これ祈りの秘訣の第一です。次に、自分の逃げ込み場処、助け手としての神様を信じ、私はあなたの息子です、あなたの豊かな所有はみな私のものです、と告白します。神信頼の言い表わし、これ祈りの秘訣の第二です。そして、遂には私のまわりに正義の人々が多数あつまって大集団、大家族になるでしょう、と大なる期待を言い表わす。これ秘訣の第三です。
 (1979.12.9週報「キリストの福音」より)
  
 
《聖書のことば》 
主イエスよ、きたりませ

「「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ」
(ヨハネの黙示録二二・20)
 
 いよいよ、八〇年代に入る。
 一九八二年には太陽系において、九つの惑星のすべてが太陽の片側に寄ってしまい、しかも一直線に並ぶことが、天文学上の予測としてはっきり分っています。月の引力だけでも、潮の満干が地球におこります。まして、木星をはじめとするすべての惑星の片寄りです。科学者達は大地震、異常気象等地球上におこる不安な未来を予測しています。その時の惨状は石油不足などの比ではないかもしれません。今こそ、地球と人類の救主イエス・キリストを待ち望むべき時ではないでしょうか。
 (1979.12.30週報「キリストの福音」より)


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# by hioka-wahaha | 2017-01-17 10:38 | 日岡だより

No.781 自分を愛するように隣人を愛せよ 2017.1.1

自分を愛するように隣人を愛せよ
 
 精神分析学の創始者フロイトの弟子であり、学問の友でもあったと言えるA・アドラーは、心理学を実用的に研究し、それを成功せしめた人としては、先駆的な恩人です。彼に言わせれば、多くの感情障害の患者たちの問題は、その自己中心主義にあるのでした。彼らに「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」という古くからの聖書の教えを与えると、そのほとんどがなおってしまうのでした。
 ある医師が憂鬱症の患者を診察していましたが、それが終るとこう言いました。
「一日だけ実験してもらいたいことがあるのですがね。明朝、目がさめたら、一日中できるだけ自分のことは考えないようにして下さい。そしてあなたの奥さんや子供たちを大いに幸せにしてあげようと、そのことを口にし、又それを実行しながら一日を始めてみて下さい。会社へ行ったら、同僚や部下や上司の人々の役に立つことを実行してみて下さい。これを一日やってみて、あなたにどんな変化があらわれるかをためして下さい。そしてその結果を来週私に教えてほしいのです」
 その翌日の夕刻、その患者から電話がかかってきました。
「先生、来週までなど、とても待っておれません、今日ほど幸福な日を送ったことはありません。こんなにすっきりとした、生き生きとしたことはありません。もう私は大丈夫です。どうすればよいか、よく分りました」
 与えよ、さらば与えられん、と聖書は教えます。人を愛する者は、自分も運命に愛しかえされるのです。
 
 だいぶ前、朝日新聞の投書欄に出ていた話です。ある奥さんの投書で、その奥さんのご主人がアル中だったそうです。題して「私は負けた」
「また夫は外で酒をのんで帰って来た。そして更に酒を出せという。私がいやがると、遂に自分でしょうちゅう瓶を探し出してきて、それをのみ始めた。私はがまんしきれずに泣いて、夫に訴えはじめた。その時、小学校五年生の娘がとび出してきて、夫の体にかじりついた。
『父ちゃん、酒をやめてや。父ちゃん、酒のんだらアホになるで。こら、酒出ていけ。父ちゃんが悪いんやない。酒が悪いんや。酒、出て行け。こら父ちゃんから、出て行け』
と、泣きながら夫の体をびちゃびちゃたたくのです。夫は胸をつかれ、青ざめてコップを手にしたまま、それっきり酒をやめてしまいました。
思えば、酒をやめさせようとして流す涙は、私の涙も小五の娘の涙も同じです。しかし、私は心の底で『このろくでなし。もう別れてしまいたい。あいそがつきた』と、うらみと怒りの涙です。しかし、娘の涙はひたすら父ちゃんを愛する子供の愛の涙です。私はこの娘の愛に負けたと思いました。」
 このような愛は、いかなるカウンセラーや精神病医にもまさる絶妙な「治療」をしています。愛は人を生かします。
 
 旧約聖書の創世記に出てくるヤコブという男は、利己心のかたまりのような人物です。彼は兄エサウの弱みにつけこんで長男の権利を奪い取り、目のわるい父イサクをだまして兄に与えるべき祝福を横取りしてしまいます。その結果、ヤコブは毒へびとさそりのすむ荒野へと孤独の旅(体のいい追放です)に出ることになってしまうのです。
 この苦難の旅は、ヤコブの心を反省させ、謙虚にもさせたのでありますまいか。一夜、神様は荒野の只中で仮寝するヤコブの夢枕に立って、彼の生涯を祝福し元気づけるのでありました。神の愛はヤコブにそそがれました。愛される価値なき者と自覚しているだけに、彼の感激はいかばかりでしたでしょう。彼の士気はいやが上にもあがり、勇気百倍して荒野をわたり、母の兄ラバンの地に辿りつくのであります。そこで美しい従妹ラケルに出会い、彼女のために結納がわりの十四年の労働をただ数日のように思われたという程、愛しとおしたのであります。
 神様の愛に感じてより、ヤコブは人を愛することを知りました。
 
 「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と聖書は教えます。あなたも行って、そのようにしましょう。もし愛し得ないような人に会ったら、あなたの為に、神のひとり子イエス・キリストは十字架にかかられたことを思いおこして下さい。
 (一九七九・一〇・一四日曜説教「自分を愛するように隣人を愛せよ」を骨子にして)
  (1979.10.21週報「キリストの福音」より)


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# by hioka-wahaha | 2017-01-06 11:41 | 日岡だより