No.791 すべてが新しくなる/聖句暗記のおすすめ/苦痛の意義 2017.3.12

《聖書のことば》聖書暗記コースA~1 
すべてが新しくなる

キリストが中心「 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」
(コリント人へ第二の手紙五・17)
 
 今、沖縄の那覇市ですばらしい伝道をしている田中菊太郎牧師。少年時代はひどい非行を重ねて、ついに少年刑務所入り。そこでも悪事をたくらんで、医者をだまして病気になりすまし、病舎でなまけていました。そこで暇つぶしのつもりで読んだのが、聖書。短いキリストの御言葉の一句が、彼の心を捉えました。彼の良心はめざめ、一気にキリストの御胸にとびこみました。そして、全く新しい人、神の子として生れかわったのです。
(1980.4.6週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(1)

 今週より、巻頭の《聖書のことば》に、国際ナビゲーターという宣教団体によるカリキュラムに従って、信徒である方々に、ぜひ暗記してほしい聖句六〇句を、毎週載せることにします。一週間に一句ずつ暗記することにしたいのです。いかがです、さっそく始めませんか。
 聖句の上に書いている短い言葉(この号の例で言えば、「キリストが中心」)を主題(テーマ)と呼びます。このテーマと、本文の聖句と、引照箇所(この号の例では、コリント第二書五の一七)の三つをいっしょに覚えて下さい。
 あなたも必ず聖句暗記が出来る
 聖句暗記はこれまで何度もやろうと思って始めてみたが、結局失敗した。継続的努力は苦手である。私は記憶力がバツグンに悪い。そうお思いの人も、今回はぜひ始めてみて下さい。必ず、やれます。お手伝いもします。さァ、決心しましょう。秘訣の第一、まずカード(名刺型カード、教会にあり、無料であげます)に書いて英語単語式に手もとにおいて復習する。第二は二、三人のグループを作って一緒に練習する。(記憶力増進法を来週書きます)
(1980.4.6週報「キリストの福音」より)


苦痛の意義

 苦痛の持っている問題点の第一は、もちろん、その痛みそれ自身です。現に今、痛くてたまらぬ、という痛みの現実性です。「手軽に傷をいやして、……平安、平安と言う」(エレミヤ六・14参照)という手合が多いのです。そういう気安めのなぐさめ言葉に、「なぐさめられるのも厭(いと)う」(マタイ二・18文語)ほど苦痛の中にいる人は痛むのです。まして、心無い人々の快活な歌声は、「傷の上に酢をそそぐよう」(箴言二五・20)なものであります。
 苦痛の第二の問題点は、それが当人にとって不公平に見えるということであります。なぜ、世の人が私よりも幸福であるのか、なぜ私のみ患難にあうのか、私よりも悪人と見える人が、ぬくぬくと安穏な人生に喜んでおり、神様に忠実に従おうとしている自分が、こんなひどい目にあっている、神様の私へのなさりかたは不当である、神様の手は不公平である、この不平、不満、うらみの心が魂にいっぱいになるのであります。
 にもかかわらず、聖書は詩篇第一一九篇七一節で「苦しみにあったことは、私に良い事です」と告げます。なぜか。神を信じる者にとって苦痛は次のような良さ(意義)を生み出してくれるからです。
 第一。その人を成長させます。単なる知識や技術であるならば、苦労なしに(遊びと興味による教育という幼稚園方式です)身につけさせることも出来るでしょう。しかし、「愛、寛容、平和……」などという人格的成熟は試練なしには与えられません。患難は忍耐を生み、忍耐は生きる能力を上達させます(ローマ五・3~4)。然り、苦痛に対処する最大の態度は忍耐であります。忍耐さえしていれば、何ごとかが生れてくるものであります。
 第二。他の苦しむ人をなぐさめる力を得ます。コリント第二書一・4~6をご覧下さい。そこで、パウロは、「自分が患難をうけて神様よりなぐさめられる、その力で他をなぐさめることが出来る。私が大きな苦しみにあうのは、あなたがたのなぐさめと救いの為である」とさえ言っています。
 第三。故に、苦痛はキリストからのこされた「遺産」の一部であり(コロサイ一・249、苦痛をとおしてクリスチャンは、神の民であるのみならず、祭司と呼ばれ得る(黙示録一・6)ものになるのであります。
 第四。尚、苦痛は、その故に神をのろい、つぶやく罪をさえ自戒すれば、罪を犯すことを止める、良き防錆剤であります(ペテロ第一書四・1)。(一九八〇・三・三〇主日礼拝説教「キリストの苦難はあなたのため」より抜粋)
(1980.4.6週報「キリストの福音」より)












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# by hioka-wahaha | 2017-03-25 23:55 | 日岡だより

No.790 「信念」のむなしさ―私の信仰三段とびの記(2)― 2017.3.5

「信念」のむなしさ
――私の信仰三段とびの記(2)――
釘宮義人 
 
 よく山の頂上や、中腹にお寺やお宮があって、その前に長い石段があることがありますね。八十段とか、百段とかあって、たいそうにきつい坂が多いものです。私どもの信仰の道も、本来はそんなもので、百段も二百段もふみ越えて行かねばならぬのか、と思います。パウロは言います。「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである」(ピリピ三・12)と。信仰は、そういう意味では、「永遠の求道」であります。私はその道程の中で、やっと今、三段くらいとびこえてきた(というより、やっと這い上って来させて頂いた)という実感がいたします。その貧しい体験を少々お証ししたいと思って、この連載記事を始めたのであります。この前の記事の最後に、「これで私の助走期は終った」と書きましたが、その助走期とも言うべき信仰以前の思い出を、もう少し書きたいと思います。
 
 実は獄中で、私の心の中に大きな変化がおこりました。それはこうです。私のそれまで持っていた非戦主義の考えが突然、くずれたことです。「戦争は悪ではあるがこの人間のつくる世界では止むを得ない。どんなことがあっても正義の戦争などと呼べるものはあり得ない。にもかかわらず、それを見逃さざるを得ないこともある。どの程度の軍備、どのような戦争なら止むを得ない、というのか。そんな基準は客観的にきめにくいことだ。神の恩寵によって、許しを乞い求める祈りの中で与えられる微妙なバランス感覚によってきめるしかない」。実に、人には言い表しにくい、一種の弁証法的止揚とも言える考え方でして、そのようにして非戦主義は私の中で自壊していきました。
 何とかして刑務所を早く出たい一心で、こういう事を考えつくのかも知れませんが、表面意識のことではないから、自分では本気です。偽装した転向ではないのですから、転向という表面の卑しさにかえって苦しむのです。ガリレオが宗教裁判にあって法廷では自説を撤回しながら、その法定を出る時、「それでも地球は動いている」とつぶやいたそうです。そのガリレオがうらやましくてなりませんでした。私は、当時の島木健作などという一連の転向作家の、まじめに本気で転向して、なおその上うしろめたい気持でいる辛さが、よく分るように思いました。
 私は、自分の信仰を折ったという屈辱感と、信念というものが一夜で自壊するというはかなさに、まったく自信を失いました。自己に忠実であろうとすれば、転向者。意地を張って古い自説を固守すれば、二重人格。その頃、倉田百三の「治らずに治った話」を読みました。倉田氏が恐怖症になって、理性による自我抑制が不可能になり、有名な「出家とその弟子」に見られるような信仰の修辞学はいっぺんに消しとんでしまうのですね。そのあと、森田正馬博士の「ありのままを受け入れる」身心療法で解決して行くのですが、この時、私は初めて、人間の理性主義にもとづく信念のはかなさを、理論的にも教えられるのです。
 いわゆる「信念」ではない、キリストに絶対委托の「信仰」に入るのは、それからしばらくして前に書いたとおり、一九四四年一一月二三日のことであります。
 
 〔附言〕戦争に関する私個人の現在の考えは、右の文中の表現とあまり変りません。少年時代、ある立派な金持が、「人に悪心をおこさせてはいかぬから」と言って窓に丈夫な鉄柵を作っているのを見て不愉快だったことがありますが、やはりそれは致し方のない正論で、特に隣りの大国エゴイズムをそそるような、無防備丸腰はダメだと思います。とは言え、いくら軍備をせりあった処で、ソ連などには敵わぬことなのですから、程々にすべきです。
 (1980.3.30週報「キリストの福音」より)

【参考】後年の義人牧師は「日本よ世界のカントリーとなれ」との理想を、「大風呂敷」と頭をかきながらも以下のように書いていました。
 「私は願っている。この日本国の国民のすべての人がクリスチャンになるのを。
 (中略)
 そうなれば、もちろん私の「日本絶対非武装、非戦平和国家論」も実現する。そうなると、日本は世界のカントリーになる。
 日本は、神様のため、福音のため、世界の幸福、平和のための祈りをもって立国する。世界中の人たちをこの日本に招きたい。そして、キリストの福音を語り合いたいし、その現実化を見たい。
 製鉄工場も自動車工場もコンピューター工場も何もない日本。ただあるのは緑の森と、田園と畑、牧場。そこに温かな信仰の交わりがある。人々を招き入れ、団欒の時をもてなす。どこの家でも見知らぬ外国の人を喜んで迎え、温かく食事の交わりに招き入れる。
 どの家庭でも、そこには隠れた招待主イエス様が居られる。多くの外国からの客人たちは喜んで、又、友人を連れてこの国に来たいと言う。こんな国には戦争など起こりようもない。」日岡だより2007.5.27号より http://hiokadayor.exblog.jp/5507877/


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# by hioka-wahaha | 2017-03-18 11:27 | 日岡だより

No.789 《聖書のことば》4題(「しののめを呼びさませ」ほか) 2017.2.26

《聖書のことば》 
しののめを呼びさませ

「 神よ、わたしの心は定まりました。
わたしの心は定まりました。
わたしは歌い、かつほめたたえます。
わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。
わたしはしののめを呼びさまします。」
(詩篇五七・7、8)
 
 神様は、人間に命の息を吹き入れて下さいました。それで人間の心は、動物の心と違って、自分自身に言いきかせ、決心することができるのです。これは偉大な力でして、人間に大なることなさしめる源泉であります。
 この力を悪魔に利用させず、善きことのためお使い下さい。無力・怠惰・沈滞ムードの頭脳に「しののめ(東雲・朝やけ雲)を呼びさまし」、善き決断をなさしめよ。
 (1980.3.2週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
信じることだけではなく

「 あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。」
(ピリピ人への手紙一・29)
 
 キリストが病気に苦しみ、貧乏になやんだとは、私は夢にも想像できない。にもかかわらず主は、自らすすんで人間苦のすべてを味わって下さったと信じる。
 クリスチャンも然り、病気や貧乏を主の御心と称して我慢する必要はない。健康と、繁栄のための英智を神よりいただけ。
 しかし、信仰の生活は必ず迫害を生む。この苦しみを恐れるな。この苦しみは更に信仰を増進拡大させる神様の恵みである。無用な摩擦はさけよ。しかし迫害を喜びなさい。
 (1980.3.9週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
深い穴から

「 主よ、わたしは深い穴からみ名を呼びました」
(哀歌三・55)
 
 明るい昼でも、深い井戸を掘って、その底から空を見上げると、星が見えるそうです。
 深い穴に落ちこんで、たとえフタをされて空の星は見えなくなっても、神様の御名を呼び得るものは幸いです。
 「あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」第一ペテロ五・6)
と聖書にあります。苛酷な人生を、不幸、不運、悪魔のわざかとおびえて小さくならず、神の御手の下にあると信じて、明るく大胆に待ち望みなさい。人生の深い穴を、星を仰ぐ事の出来る聖堂としましょう。「時が来れば神はあなたがたを高くして下さる」のです。
 (1980.3.23週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
神の子の武器

「 悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」
(エペソ人への手紙六・13)
 
 神の子の、持つべき品性については、他の箇所に「愛、喜び、……柔和、自制」(ガラテヤ五・22、23)とある。これは内なる人の性格、魂のかおりである。しかし、地上にあって悪の力と戦う時に、取るべき武器は「真理、正義、……」(エペソ六・14、17)等というように強面(こわおもて)である。弱い者を戒める時は、真理を愛で装って語らねばならぬが、悪と戦う時は愛や柔和を内に秘めて、神の強い武器で戦わねばならぬ。愛とか柔和という言葉は相手につけ入る口実を与えやすい。
 (1980.3.30週報「キリストの福音」より)















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# by hioka-wahaha | 2017-02-28 23:00 | 日岡だより