No.803 《聖書のことば》聖書はきびしい/聖句暗記のおすすめ(11) 2017.6.4

《聖書のことば》聖書暗記コースB~1
聖書はきびしい

すべての人は罪を犯した「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」
(ローマ人への手紙三・23)
 
 神が全能の神であるなら、なぜ人間を罪を犯し得ないように造ってくれなかったのか。又、罪を犯さぬよう、人間を守ってくれなかったのか。
 私には、その理由は充分には分らない。しかし、神は人間をロボットとして造らなかった。又、飼犬が悪いことをすれば、鎖につないでしまうようには、人間を束縛はされなかった。その事はあきらかである。
 天皇もソクラテスも、清純な乙女も、天使のような幼児も、すべて罪を犯していると、聖書は告げる。聖書は本当にきびしい。
(1980.6.29週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(11)

 四月六日の週報より、聖句暗記のおすすめを書きつづけてきました。そして、その号より第一頁に、暗記聖句を紹介してきました。この選択は、国際ナビゲーターのテキストによります(山本和萬先生の御教示で、このすぐれた国際的団体のテキストにふれました。この団体の創始者D・トロットマンの事については本日の説教でふれるつもりです)。
 先週まででA群の聖句を終りました。これはクリスチャンとしての生活の基本を示してあります。
 A①②キリストが中心 第二コリント五・17 ガラテヤ二・20
 A③④キリストへの服従 ローマ一二・1 ヨハネ4一四・21
 A⑤⑥みことば 第二テモテ三・16 ヨシュア一・8
 A⑦⑧祈り ヨハネ一五・7 ピリピ四・6、7
 A⑨⑩交わり マタイ一八・20 ヘブル一〇・24、25
 A⑪⑫あかし マタイ四・19 ローマ一・16
 右の通りです。復習してみて下さい。あなたのクリスチャン生活の再吟味ができます。さて、今週よりB群。B群の聖句は、伝道に用いられる最前線用武器です。これらの御言を剣として用いて、個人伝道に出て行くのです。あなたの信仰の最底基盤を再検討するのにもよい試金石となります。
 (1980.6.29週報「キリストの福音」より)











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# by hioka-wahaha | 2017-06-10 15:35 | 日岡だより

No.802 《聖書のことば》キリストを誇れ/聖句暗記のおすすめ(10)/私の信仰記(7)獄窓の回心  2017.5.28

《聖書のことば》聖書暗記コースA~12
キリストを誇れ

あかし「わたしは福音(ふくいん)を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である」(ローマ人への手紙一・16)
 
 福音という言葉は、もっと分りやすく訳せば「良い知らせ(グッドニュース)」と言うのであります。けれども、そう訳すよりも「キリスト」と、端的に言葉を入れかえて読む方が、かえって全体の意味がよく分るように思います。
 戦前はもちろんでしたが、今でもキリスト教と言えば、やや冷笑されそうな気配を感じることがあります。けれども、私たちは大胆に、私たちの信仰を誇るのです。弱気も強きも、智者も愚者も、キリストの前には同じく罪人であり、共に救われるのでありますから。
(1980.6.22週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(10)

暗記の能力に自信をもて
 なんども言いますが、聖句の一節を記憶することは、やってみれば案外やさしいのです。多くの人は、やりもしない中から、「私は暗記はだめでして」と、逃げ腰です。自信をもたず、無気力に暗記しかけてみると、何度やっても覚えきれず、そして「私はやっぱり暗記力はないのだ」とマイナスの自信をつよめてしまうのです。頭の悪そうな(失礼!)流行歌手でも、自分の歌はもちろんの事、人の歌でもたくさん覚えていてステージで歌っているではありませんか。

感情をこめて読む
 聖書の言葉を、あなたの信仰告白として、一語一語に力をこめ、感情をこめ、口でハッキリ言うとよいのです。言うというより叫ぶのです。何度もやって、その聖句と気持がぴったりするまでやるんです。聖句を暗記するためではなく、信仰育成のための訓練と思ってやるのです。そうすると、たしかにフツフツと心の中に信仰がおこってきます。そして聖句暗記はいつの間にか完成していますよ。黙読はいけません。詩吟のように、しっかりと声に出すのです(詩吟の人は、よくむつかしい漢詩を覚えているでしょう)。
 (1980.6.22週報「キリストの福音」より)


獄窓の回心
――私の信仰記(7)――
釘宮義人 
 
 五月二五日の週報に書きましたように、私は獄中で、自分の「信仰」を探して、「不信」の自己を発見し、絶望のどん底におちこみました。
 それは、「魂の死」とでもいうように表現できましょう。徹底的絶望感覚でありました。かつて自殺しようとした事が、その時、我ながらうらやましく思えました。自殺する人は、ともかく自殺することの意義と、その実行力を持ち合わせている。ところが、絶望した人間は、死ぬ事にも意義も見出せず、死のうとしても、意思が脱力症状を呈して何も出来ない。
 そのようにして、四日すぎます。独居の囚人にとり、四日間は長い。その間、死んだような気分。そして、一一月二三日がきました(ああ、それは後で知ったことですが、パスカルの回心の日です)。この日は、当時「神なめ祭」といって旗日で、休業。私は終日、ただ坐して焦燥しました。
 夕刻になりました。窓べの樹々に雀たちが、にぎわしく帰ってくる頃です。私は手もとの聖書をひらきました。次の一句が、私の目を射たのです。
 「一人すべての人に代りて死にたれば、凡ての人すでに死にたるなり」(コリント後書五・一四)
 ――私は、それ以上読もうとも思わず、その必要もなかった。この節を読み終わった瞬間、いわば平安の光というべきものが、私の心にそそぎこまれ、すべての疑問の闇は消え去ったからである。と、これは、アウグスチヌスの回心の時の告白ですが、私の感懐も、それと少しも変りません。
 これはたしかに御聖霊様の働きです。御聖霊様の働きの特徴は、聖書の言葉(その著者は御聖霊様です)を、私どもの中に、そのまま実現するという事です。その時、私に取り、一人の人、キリストの死が、私の死である、ということが、突然事実となった、つまり私の古き人が死んでいる事がよく分ったのです。
 パウロのような光も、ウェスレーのような胸のあたたまりも、フィニーのような電気ショックもありませんでしたけれども、私はそれで充分でした。今や、私の中にキリストの生命がありました。私の肉はキリストの内に死んで、古きは過ぎ去り、すべては新しくなっていました。パウロも、アウグスチヌスも、ルターも非常に身近かに思えました。
 こうなると牢獄も宮殿です。うすい囚人ぶとんの中ででも、私は主の血潮のあたたかさを感じて、嬉し泣きによく泣きました。
 (1980.6.22週報「キリストの福音」より)





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# by hioka-wahaha | 2017-05-31 23:00 | 日岡だより

No.801 《聖書のことば》網の中の魚/シモンとガリラヤ湖のぬし 2017.5.21 

《聖書のことば》聖書暗記コースA~11
網の中の魚

あかし「イエスは彼らに言われた、『わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう』」
(マタイによる福音書四・19)
 
 イエスは比喩の名手です。漁師には、人間をとる漁師になれ、と言われます。羊飼いには、迷える羊の話などをします。商売人には宝を得るために、全財産を売る話をします。女にはパン種の話。百姓には種まきの話。そしてパリサイ人には汚れたる墓の話。
 さて、最後にあなたに一言。あなたは、漁師の網にかかる魚ではないでしょうか。神の網に生け捕られ、神の言で生かされるほかはない、あなたは魚(魚はギリシャ語で初代教会の信徒の象徴語でした)なのです。
(1980.6.15週報「キリストの福音」より)


〔童話ふうに……〕
シモンとガリラヤ湖のぬし
 
 その晩は、一晩中、シモンとアンデレの兄弟は、舟にのって網を打っていたのです。けれども、魚は一匹もとれないのでした。さて、その網というのは、投網(とあみ)といって、舟の上から水面にむかって、うまく放り投げると、網は大きなスカートのように、ぱっとひろがって水の中に沈んでいきます。それを片手でゆするようにして水面から引き上げながら、もう一つの手で繰り上げていくと、網の底の方に魚がつかまっている、といったようなものです。シモンたちの網はもう大分傷んでいましたが、それでも大切に扱うものですから、まだまだ相当使えそうでした。
 そこはガリラヤ湖という湖(みずうみ)でありました。イエス様の大好きな、きれいな湖でありますが、しかし、その底には、たくさんの汚(けが)れたものが沈んでいましてね(日本でも海の底はヨミといって死人の行く所と思っていたそうですが)。ガリラヤ湖の底の一番深いところに、実はガリラヤ湖のぬしがすんでいました。その主(ぬし)が、ガリラヤ湖中の魚や生きものを集めて、大会議をひらいていたのです。だから、シモンやアンデレがいくら網を打っても、魚はとれないはずですよね。
「おい、みなの者。この頃どうもいけないよ。ヨルダン川から流れこんでくる水に、あのおいしい汚れ物が少くなった。このままでは、みんな栄養不足になってしまう。あの川の水は、この頃、えらいキレイになってしまって、お互の体によくない」
「それは、王さま。イエスという人が、バプテスマを始めてからです。そのバプテスマの水が、すべて最近の悪いことの原因です」
「なるほど、それでよく分った。しかし、どうしたらいいだろう」
 ガリラヤ湖の底の国会は一向にはかどりません。その頃、シモンとアンデレは、もう漁をあきらめて、舟を陸にあげて、網を洗っていました。
「シモン君」
 はっとして声の方を見ると、シモンの舟にイエス様が乗りこんでいました。
「シモンよ、アンデレよ。あの海岸の大勢の人数を見給え。あの人達に神の国の話をしてやりたいのだ。私の伝道の加勢をしてくれたまえ。私をのせて、舟を、あの群衆の前の水面にこぎ出してくれたまえ。私は舟の中から、彼らに話をしてやりたいのだ」
 シモン兄弟は、今さら何を言えましょう。腹の中では少しは仏頂面でしたけれども、とにかく人目には喜んでイエス様の付人(つきびと)のようにして、舟をこいで皆の前に出たのです。みんなはざわめきました。
「おや、シモンとアンデレじゃないか」
 二人は顔をまっかにしました
 さて、しばらくしてイエス様のお話は終りました。たくさんの人だかりは消えて、舟にはシモンとアンデレが残りました。
「シモンたちよ、よいことを教えよう。引き網をもってきなさい。そして、あの一番水の深いところに行きなさい。網をできる限りひろくひろげて魚をとりなさい」
 山奥の村のナザレの大工であったというイエス様に、漁のことをかれこれ指図されるのは少し嫌でした。
「先生、ゆうべ一晩中かかっても一匹もとれなかったのですよ。しかし、先生のお言葉のとおりに引き網をもってきて、おろしましょう」
 その時、みなさん、湖の底ではガリラヤ湖中の魚たちが集って会議中でしたからね、魚はもちろんいっぱいとれました。シモンが、網を引いて最後を見ると、ギョロリと目をむいた、こわい、みにくい、ぬしのようなやつがシモンをにらみつけました。
「ひえーッ」
 シモンは自分の汚れ、罪、わるい所をみんな、にらみつけられたように思って、思わずイエス様にしがみついて、「許して下さい」と叫んだのでした。
(1980.6.15週報「キリストの福音」より)
 


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# by hioka-wahaha | 2017-05-27 19:02 | 日岡だより