No.786 《聖書のことば》4題(「内なる人、強くされよ」ほか) 2017.2.5

《聖書のことば》 
内なる人、強くされよ

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」
(エペソへの手紙三・16)
 
 健康も富も大切なものであります。しかしそれよりも心の強さは更に大切であります。
 およそ、万人が万人と言ってよい程、多くの人が病気や貧しさで心くじけるのです。病気や貧しさは人の力でどうにもならない外からの力による事がありますが、心の力のある無しは、その人の責任です。
 と、言ってしまえば苛酷な精神主義になりそうです。そうであってはならない。父なる神より溢れくる霊的栄光の力によって、内なる人は強くされるのですから。
 (1980.2.3週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
サタンの霊縛を解け

「そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。」
(ルカによる福音書一三・11)
「サタンに縛られていた、……この女」
(同・16)
 
 近代人にとっては信じにくいことだろうが、イエス様の言葉によれば、病気の仕掛人はサタンである。強盗が縄で人をしばるように、サタンは病気の霊で人をしばる、というのである。
 とすれば、この病気の霊の縄目をとくにはどうしたらよいか。御言の剣を用いるのである。エペソ六・14~17によると神の武具類の中で御言の剣はただ一つの攻撃的武器である。御言葉によっていやされよ(詩〇七・20)。地上で解くことは天でも解かれるのである。(マタイ一六・19)
 (1980.2.10週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
キリストに似る

「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」
(コロサイ人への手紙一・15)
 
 私はこれまで、見えない神のかたちを表わしたのは、あのパレスチナに生れ、パレスチナで生活されたナザレ人イエスである、とは信じてきた。しかし万物創造以前より今に至るまで、また後の世までも永遠に変らざるキリストが常に見えない神のかたちである、とはあまり考えてみたことはなかった。しかし、今、天界にいまし、又、私どもの中に生きて下さる主イエス・キリストこそは、実に形をとって神を表して下さる唯一のお方であると分った。その故に、彼を宿す私どもは人格的に個性的にキリストに似ざるを得ないのである。(釘宮)
 (1980.2.17週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
ノストラダムスの予言

「すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。」
(ヨハネの第一の手紙四・1)
 
 又も、テレビでノストラダムスの予言の番組をやっていた。こういう好奇心や恐怖心しか生まない予言は、真の預言ではない。第一あのノストラダムスには、何とでも解釈できるあいまいな表現が、まだ別にいくらでもあると聞いている。より大切なことは、人類がいつ滅亡するかという事ではなくて、どうしたらその日から逃れ得るかという事だ。ノストラダムスには、かしこい五人の乙女の求める油はない。目をさまして主の日を待とう。
 (1980.2.24週報「キリストの福音」より)


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# by hioka-wahaha | 2017-02-11 17:40 | 日岡だより

No.785 私のうちに満ちみつるキリスト 2017.1.29

私のうちに満ちみつるキリスト

「あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」
(ガラテヤ人への手紙四・19)
 
 この聖句の中の「形ができる」という言葉は、イザヤ四四・2を思い出させます。そこでは、「形づくる」という言葉が胎児の成長のこととして用いられていたのでした。
 イエス様は、ヨハネ三・3で信仰の始めを「新生」と呼んでいます。ところで、さきの聖句はパウロによって導かれたガラテヤ教会の人々にあてられたもので、彼らはすでに新生しているのですし、あれ程パウロから叱責されているとしても、決して「もはや捨てられた」人々ではありません。そこで、私たちは最初の新生とは異なる別の誕生(or胎児の成長)をパウロが願っていることを知るのです。
 A・Bシンプソンは、こう言っています。「クリスチャンは、キリストにあってひとたび生れた。そして、もう一つ大事なことは、今度はキリストがあなたの中に生れることである」と。そうです。これがキリストの内住です。
 
 これまで私はキリストの内住ということは分っているつもりでした。又、分っていたと言ってもウソではありません。(これまでのキリストの内住の信仰については、昨年の週報四八号より五一号までの「わたしの中に宿るキリスト」という連載説教を読んで下さい)ところでその後、妻の断食等を通して次々に信仰が開かれてきたのです。新しい神様の教えは、私にはおどろくべき事ばかりでした。その一つがキリストの個性的人格的内住です。
 「御子は、見えない神のかたちであって……」とコロサイ一・15にあるのですが、これはイエス様がパレスチナ御在住の時のみの事でしょうか。いいえ、そうではありません、「すべての造られたものに先だって」(コロサイ一・15)生れて以来このかた、「罪のきよめのわざをなし終えてから、いと高き所にいます大能者の右に、座につかれ」(ヘブル一・3)ている今日に至るまで「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿であ」(ヘブル一・3)るし、又、未来も永遠に神の本質の表現者として個性的に実在されることでありましょう。
 
 れっきとした、神の子キリストの誕生として、私の中に生れ、その後、確固として私の中に定住して下さる御子!このことに目がさめたとき私の心には私の中に王国を造り、王の王として君臨して下さるキリストの姿が見えました。このお方に、私のすべてをささげ、彼の支配力の下におく時、「神は無秩序の神ではなく、平和の神である」(第一コリント一四・33)から、私の一切が神の尊い秩序の下におかれるのです。
 
 このような王の王キリストの君臨をお迎えする玉座は、エペソ三・16、17によると聖霊により強められた内なる人の信仰です。この信仰により、キリストは私どもの心のうちに住むのです。
 のみかは、「キリストには神性の充満が肉体化している。それであなたがたもキリストにあって神性に充満されるのである」(コロサイ二・9、10私訳)とありますから、私は「キリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない」(エペソ一・23)と大胆にも信じられるのでありました。
 今も個性をもって天界に、又、私のうちに生きておられるキリスト、こう書けば何も変哲もない昔ながらのキリスト告白だが、一月三一日を以て、私はすっかり変った感動をもって、これを言うのです。(一九八〇・二・二〇 釘宮義人)
 
 〔附記〕参考図書 金田福一「キリストの内住」、ウォッチマン・ニー「霊の解放」、A・B・シンプソン「内住のキリスト」、メーベル・フランシス「聖霊に満たされてから」
 (1980.2.24週報「キリストの福音」より)


















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# by hioka-wahaha | 2017-01-31 23:00 | 日岡だより

No.784 《聖書のことば》4題(「すべてが新しくなる」他) 2017.1.22

《聖書のことば》 
すべてが新しくなる

「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
(コリント人への第二の手紙五・17)
 
 変りたい、新しくなりたい。それが、多くの人の願いえはないでしょうか。ヘアー・スタイルを変え、着物をかえる。家具をかえ、インテリアを変える。それでも変らない。魂が変らないからです。
 キリストに心をむけなさい。キリストを受け入れなさい。キリストのことばを味わいなさい。その御ことばのように生きなさい。
 あなたは一新されます。変ります。
 あなたの周囲も変りはじめます。
 (1980.1.6週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
悪魔に立ちむかえ

「神に服(したが)え、悪魔に立ち向(むか)え、さらば彼なんじらを逃げ去らん」
(ヤコブ書四・7 文語文)
 
 一月八日、吉良先生(私の父母に親しくしていただいた老牧師)の新居を別府の山手に訪ねた。石がかさなり、木々おいしげり、程よい広さの屋敷に簡素なたたずまい。私の最も好きな型の家である。しかし実は、ここは石垣原合戦で戦死した大友家の七人の将士たちの塚があり、幽霊が出るといって人が寄りつかず荒れ果てていた家だそうである。そこに先生老夫婦にこやかに悠然と住んでおられる。近所の人が「先生、幽霊出ませんか」という。出ません。幽霊、あるいは実在するだろうが、神の子の前には逃げ去るのである。
 (1980.1.13週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
日常的な罪をも

「彼は我らの罪(複数)を、あの木の上にて彼の肉体の中に、自ら運び上げて下さった。それは我らが罪に死に、義に生きる為である。彼の鞭の傷により汝らはいやされたのである」
(第一ペテロ二・24の私訳)
 
 右のように、直訳的に訳してみた。第一行の「罪」が複数で表わされてあるのが、ありがたいのである。私の原罪としての単数的罪を許されているのみならず(これはクリスチャンとしての根本的救いである)、日常的もろもろの罪を、主イエスによって処理されてしまっていること、それが、彼の自発的能動的な私たちへの働きかけによるのであること(「自ら」という言葉で表されている)、そこがありがたいのである。
 (1980.1.20週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
イエス・キリストの血

「……小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」
(ヨハネ黙示録七・14)
「キリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き……」
(ヘブル人への手紙九・14)
 
 今日の教会学校は、出エジプト記の過越の祭の話。主要な題目はキリストの血である。
  (字(じ)のない本(ほん)のうた)
 罪(つみ)によごれ くらい心(こころ)も
 主(しゅ)イエスさまの 血(ち)であらえば
 白(しろ)い雪(ゆき)のように きれいになり
 かがやく天(てん)の 国(くに)に行(ゆ)ける
 
 輸血で瀕死の命が救われるように、イエス・キリストの血(生命)が人を罪と悪とけがれより救い、神の子として生き返らせて下さるのである。
 (1980.1.27週報「キリストの福音」より)


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# by hioka-wahaha | 2017-01-31 22:00 | 日岡だより