No.794 《聖書のことば》御ことばを貯えよ!/聖句暗記のおすすめ(4)/私の信仰記(4)入る息に、呼く息に 2017.4.2

《聖書のことば》聖書暗記コースA~4 
御ことばを貯(たくわ)えよ!

キリストへの服従「わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」(ヨハネによる福音書一四・21)
 
 子はだれでも父を愛します。それが本性というものです。しかし、父の言葉を聞かず、これを守らないものは、しだいに父を遠ざかり、父を愛することが苦しくなります。そして本来愛すべき父もにくらしく思え、父の愛は又かえって怒りに見えてきます。
 キリストの言葉を聞き、これを心に貯えなさい(コロサイ三・16)。御言はこうじ菌のように発酵して、あなたの心を変えます。
(1980.4.27週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(4)

 心を変えよ
 記憶力のことについて、もう一つ言いそえます。これまで記憶力が悪いと思っていた人の多くは、記憶することを大儀なことだと思って、記憶しようとする意志を投げすてていたにすぎないのです。悔い改めて(心の向きをかえる)、「必ず覚えよう」と心の態度をかえなさい。祈って喜んで、記憶カードに向いなさい。決して、大変容易であるとは保証しませんが、案外たやすく覚えられるものです。
 聖句暗記は神のご命令である。
 申命記六・六を見て下さい。「きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め」。新改訳では「……あなたの心に刻みなさい」。つづく同章七節、八節では、これらの御言を子どもに教え込み、家でも道でも唱えなさい。これをしるして手にむすび、額におき、門や柱にしるしなさい、などと念には念を入れて、教えてくれています。
 聖句を暗記することは、神様の御心であり、命令であります。そして、その暗記するための方法(心に刻み、教え、口に唱え、手にカード、壁や柱に聖句色紙等)さえ具体的に教えてくれているのです。
 (1980.4.27週報「キリストの福音」より)


入る息に、呼く息に
――私の信仰記(4)―― 
釘宮義人 
 
 昭和一九年二月、私は大分刑務所より福岡刑務所へ押送(当時の行刑用語)されました。大分検事局で、「お前のような非国民は刑務所に送って使い殺してやる」と検事にどなられましたが、いよいよその本番の刑務所行きでしょうか(大分の刑務所は当時は小さくて、仮収容所という感じでした)。
 青色の囚人服(獄中では普通赤着物です。外に出る時は青着物をくれます。青色の方が、少しは位が上なのです)を着て、顔を寒風にさらして、生れ故郷の大分駅のプラットホームに立つことは、さすがにつらい事でした。たまたま、同町内で顔見知りの婦人がホームにいて、刑縄につながれている私を見て見るに忍びなかったのでしょう。顔をそむけてくれました。
 しかし、汽車に乗って連れられていく囚人の心は、存外恥かしさも忘れて嬉しいものであります。それ程外の様子がなつかしいのです。一つには、囚人というドン底の位置に据えられると、人間は居なおったように腰もすわるという事ですね。パウロの言う「キリストの囚人」という時、どこかそれに似た感慨があると思います。
 さて、福岡の刑務所にきた私は、本来厳正独居房に入れられるべきだったんでしょうが、一時あやまって雑居房(囚人が八人から十数名くらい収容されている)に入れられ、そこから昼間は工場に行く(刑務所用語で、おりる、という)のです。工場では、最初軍用の落下傘に使うズック地の袋縫い、次に飛行機製造用のジュラルミンのナットの修正作業でした。作業台のそばに立って、今にも崩れおちてヘタヘタと坐りこみそうな、空腹と衰弱の故に、私は目も舞いそうでした。
 私はその時、橋本鑑という牧師の「福音的称名序説」という本を思い出しました。それは仏教の念仏のように「インマヌエル・アーメン」と主の御名を呼び求めるという、とてつもない教えでした。私は後年、一燈園に行って、そこの鈴木八重造さんに会って、当初橋本先生が、その「称名的キリスト信仰」に入るきっかけになった人物の事などを聞きました。ともかく、私は監視のきびしい行刑工場の中で一瞬一瞬吸う息にキリストを念じ、呼く息に御名を呼びました。そのようにして一ヶ月ほどした時、担当看守が私を呼びました。
 「お前は変っとるのう、今日から役付にしてやる」
 雑役囚をとびこえて平の囚人の人事(?)を看守が扱うのは珍しい事です。ともあれこうして、私は役付(食事がふえる役得あり)になったのでした。
 (1980.4.27週報「キリストの福音」より)
 


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# by hioka-wahaha | 2017-04-14 15:01 | 日岡だより

No.793 《聖書のことば》献身/聖句暗記のおすすめ(3)/私の信仰記(3)窮地に徹する 2017.03.26

《聖書のことば》聖書暗記コースA~3 
献身

キリストへの服従「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」
(ローマ人への手紙一二・1)
 
 礼拝のプログラムに献金という時間がある。これは本当は、「献身」とすべき所ではないかと、よく思う。お金を献げさえすればそれで良い、というものではない。真の礼拝は、この生きた体を神に供えることにある。
 パウロの手紙、この文章の冒頭、原文ではパラカロー(勧告する)!、強い言葉です。信者になった者に対する、パウロの真剣なアッピール(英訳)なのであります。
(1980.4.20週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(3)

 自信をもて
 記憶力が無いということに自信のつよい人が多い。案外、小学校時代に九九の掛算や漢字の学習に難渋したなどという経験が、そういう記憶不安を生み出している事が多いのです。記憶するには記憶するためのコツがあります。映像法や歌誦法はいい例です。映像法は今、ベテル聖研でやっていますね。歌誦法の好見本は掛算の九九(世界に類を見ない日本独得のもの?)や、鉄道唱歌の曲で歌う聖書名目づくし等です。
 筋肉を使うことにしろ(すべて技術は筋肉のわざである)、頭脳を使うことにしろ(すべての技術は脳のわざである)、そのコツは案外簡単だからして人づてに習得するのが得策です。しかし、その基本に最大に必要なのが自信です。聖書→「信ずる者には、すべてが可能である」(マルコ九・23英訳)。わたしたちは「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ四・13)。
 つけ加えたいのが攻撃精神です。天国でさえも激しく攻めるものが、これを奪うのです(マタイ一一・12)。さあ聖句暗唱に取りくみましょう。激しく熱心に取りくむと自信もまた、湧いてきます。
(1980.4.20週報「キリストの福音」より)


窮地に徹する
――私の信仰記(3)――
 釘宮義人 
 
 昭和一八年一二月の中頃、私は警察より大分刑務所の未決監に移されました。さっそく木綿の囚人服、いわゆる赤着物を着せられました。すぐに、母が面会に来ました。その翌日、母からの差し入れで、かすりの着物が届きました。ところが、その着物というのが、うすい肌着と、ひとえの着物と羽織です。母は多分あの赤着物の上に、かすりを重ねて着ればいい、と思ったのでしょう。しかし、看守はそうはさせてくれないのです。規則か意地悪か知らぬが、これまでの官のものは全部脱ぐのだと言います。母からの着物の差し入れで、やれ嬉しや、思ったのが、とんでもない。看守からせきたてられて、あわてて着かえて、監房でひとりホッとして座ったトタン、寒気に身ぶるいして、私は「大変なことになった」と気づいたのです。木綿の洗いさらしの官衣の方が余程あたたかかったのです。
 十二月の寒さ。空気抜けから雪のふりこむ監房に、勿論火の気はない。おまけに、私の体は長い留置場生活のおかげで衰えきっている。気をゆるめたら、いっぺんに風邪をひいてしまうでしょう。夜、寝ている間も、たとえ眠っていても一瞬も気をぬかれません。二十四時間、緊張をつづけて私は寒さと戦いました。二、三日して、母はこの事を知って驚き、あわてて下着や丹前などをもって来ました。そのあたたかい衣類にくるまって、極楽に行ったような気分になったことを、今でも忘れる事は出来ません。ガンバリズムのきく人には何でもない事かもしれませんが、生来体が弱く、おまけに母に甘やかされて育って、柔弱であった私には貴重な経験でした。
 同じ頃、奥歯の大臼歯がムシ歯で痛み出し、看守に訴えるけれども、
「非国民のくせに、何をぜいたく言っているんだ。第一ムシ歯ぐらいで、死にはせん」
 相手にしてくれません。ああ、これはもうあごの骨までくさってしまうまでは取りあってくれないな。それまでは二年でも三年でも歯の痛みはガマンするより仕方ないな。そう覚悟したら、その晩ぐっすり眠ってしまい、翌朝少しも痛みません。その歯は大きな穴をあけて、ついこの前まで私の口の中にありました。
 人間は逃げ場の無い所に押しつめられると、徹しきるほかありません。そして窮地に徹するということは信仰に入る手前の最も良い訓練の学校であります。
 少年時代、軟弱に育った私には、信仰の事は抜きにしても非常によい鍛錬の場所であった事はたしかです。
 (1980.4.20週報「キリストの福音」より)



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# by hioka-wahaha | 2017-03-31 23:00 | 日岡だより

No.792 《聖書のことば》生きているキリスト/聖句暗記のおすすめ(2)/イエスの断食 2017.3.19

《聖書のことば》聖書暗記コースA~2 
生きているキリスト

キリストが中心「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ人への手紙二・20)
 
 禅の世界的紹介者であった鈴木大拙はこの聖句の前半をとって、これこそすべての宗教の真髄である、と言いました。しかし、この御言葉の持っている真理は禅以上です。鈴木大拙の未だ知らぬ所です。
 キリスト様、神のひとり子なる、あのお方が、個性的に、人格的に、私の内に生きて下さること、この事実こそ、キリスト教です。
(1980.4.13週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(2)

 暗記は暗唱から。暗唱は熱烈反復、声と身ぶりで。
 学問することを、日本人は「勉強」という。「強(し)いて勉(つと)める」わけだ。始めから、学問はつらい事と恐れている。――さて、ユダヤ人は学問することを「ミシュナー」と呼ぶ。反復・復唱のことである。ユダヤ人は、数千年前の昔から、聖書を反復して、その文字に指をあて、目で読み、口で唱え(抑揚をつける)、その声を自分の耳で聞き、体をゆりうごかし、全身全心を用いて暗唱する。これがユダヤ人の秘訣である。
 脳のシナプス作動は、反復するほど、電気抵抗をへらして微電流の流れが良くなる。記憶力は筋肉に似て訓練で必ず強くなり巧みになる。覚えかたが上手になるのである。今、日本語をしゃべれている人なら心配はない。記憶力は充分である。自信をもって聖句暗唱を始めなさい。
 毎日、少時間の練習。継続が大事。腹の底から、しっかり声を出す。熱烈に感情をこめよ。手ぶり身ぶりを加えよ。一句一句をマスターして次の一句に移る小刻み前進だ。一度覚えた聖句は何度も反復暗唱して脳に刻みこむ。人に聞いてもらえ。お世辞でもよい、ほめてもらえ。早速未信者に語って聞かせよ。(1980.4.13週報「キリストの福音」より)

 
イエスの断食

荒野
 人は、一人前になるためには、訓練を必要とする。「全き人、イエス」は、その例外ではない。聖霊はイエスを荒野へ追いやり(マルコ一・12)、サタンは彼を試みる。荒野は神の子の教室である。失敗、貧乏、病気、離散、すべて、これ人生の荒野である。
 荒野という言葉は、ヘブル語では元来「語る」という動詞から出ているのだ、と言う。荒野とは人も居らず、声も無い所のはずであるが、そこである少数の人人は神の声をきく(沢崎堅造「新の墓にて」一七一頁)。しかし、その前に、まずイエスが聞いたのは、サタンの試みの声であった。それが、やはり、荒野というものであろう。

餓死直面
 イエスの四十日四十夜の断食は、パンも水も口に入れぬ徹底的断食ではなかったかと思われる。健康法や精神統一のための計画的断食ではない。聖霊に追いつめられ、荒野の真っ只中でさせられている断食である。その後にくる空腹は、二、三日断食して「おなかがへった」という程度の空腹なのではない。餓死寸前の恐るべき断食である。私たちが時々やる、断食祈祷とはおよそケタの違う断食、死に直面した断食なのである(マタイ四・2)。

石をパンに
 「石をパンにせよ」とは、イエスにとっては空想的誘惑なのではない。神の子キリストにとって実行可能な「石をパンに」という誘惑であって、すぐにも手が出そうな誘い文句なのである。出来もせぬことを、幻想して白日夢のように脳裏に描いているのとは違うのである。

パンによらず・・・・・・
 「人はパンだけで生きるものではない」、この言葉を、餓死に直面してイエスが使われる時、そこに、異常な緊迫感と拒否権発動の示威を感じる。今にも死に崩れいきそうな体を、神の言のみで生かそうとするイエスの決意が見られる。「人はパンも必要である。神の言も必要である」と言う、二股かけての言い方をして一面、肉体人間の現実を了解しつつも、御自分の身の処しかたとしては、パン必要主義に一歩もくみしない、イエスの中にある「荒野の声」が、ここに聞える。

一つ一つの神の言
 ここで、神の言というのは、単なる聖書の言葉というより、神の口から直接語りかけられる──それはけだし、荒野こそ、それが語られる最もふさわしい場所である──一つ一つの、体験と具体性に即し、身魂に刻みこまれる神の語句(レーマ)なのである。この神の語句(レーマ)こそ、クリスチャンの真のパンである。(一九八〇・四・六祈祷会)
(1980.4.13週報「キリストの福音」より)


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# by hioka-wahaha | 2017-03-31 10:30 | 日岡だより