No.789 《聖書のことば》4題(「しののめを呼びさませ」ほか) 2017.2.26

《聖書のことば》 
しののめを呼びさませ

「 神よ、わたしの心は定まりました。
わたしの心は定まりました。
わたしは歌い、かつほめたたえます。
わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。
わたしはしののめを呼びさまします。」
(詩篇五七・7、8)
 
 神様は、人間に命の息を吹き入れて下さいました。それで人間の心は、動物の心と違って、自分自身に言いきかせ、決心することができるのです。これは偉大な力でして、人間に大なることなさしめる源泉であります。
 この力を悪魔に利用させず、善きことのためお使い下さい。無力・怠惰・沈滞ムードの頭脳に「しののめ(東雲・朝やけ雲)を呼びさまし」、善き決断をなさしめよ。
 (1980.3.2週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
信じることだけではなく

「 あなたがたはキリストのために、ただ彼を信じることだけではなく、彼のために苦しむことをも賜わっている。」
(ピリピ人への手紙一・29)
 
 キリストが病気に苦しみ、貧乏になやんだとは、私は夢にも想像できない。にもかかわらず主は、自らすすんで人間苦のすべてを味わって下さったと信じる。
 クリスチャンも然り、病気や貧乏を主の御心と称して我慢する必要はない。健康と、繁栄のための英智を神よりいただけ。
 しかし、信仰の生活は必ず迫害を生む。この苦しみを恐れるな。この苦しみは更に信仰を増進拡大させる神様の恵みである。無用な摩擦はさけよ。しかし迫害を喜びなさい。
 (1980.3.9週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
深い穴から

「 主よ、わたしは深い穴からみ名を呼びました」
(哀歌三・55)
 
 明るい昼でも、深い井戸を掘って、その底から空を見上げると、星が見えるそうです。
 深い穴に落ちこんで、たとえフタをされて空の星は見えなくなっても、神様の御名を呼び得るものは幸いです。
 「あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい」第一ペテロ五・6)
と聖書にあります。苛酷な人生を、不幸、不運、悪魔のわざかとおびえて小さくならず、神の御手の下にあると信じて、明るく大胆に待ち望みなさい。人生の深い穴を、星を仰ぐ事の出来る聖堂としましょう。「時が来れば神はあなたがたを高くして下さる」のです。
 (1980.3.23週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
神の子の武器

「 悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい」
(エペソ人への手紙六・13)
 
 神の子の、持つべき品性については、他の箇所に「愛、喜び、……柔和、自制」(ガラテヤ五・22、23)とある。これは内なる人の性格、魂のかおりである。しかし、地上にあって悪の力と戦う時に、取るべき武器は「真理、正義、……」(エペソ六・14、17)等というように強面(こわおもて)である。弱い者を戒める時は、真理を愛で装って語らねばならぬが、悪と戦う時は愛や柔和を内に秘めて、神の強い武器で戦わねばならぬ。愛とか柔和という言葉は相手につけ入る口実を与えやすい。
 (1980.3.30週報「キリストの福音」より)















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# by hioka-wahaha | 2017-02-28 23:00 | 日岡だより

No.788 戦争と求道者―私の信仰三段とびの記(1)― 2017.2.19

戦争と求道者
――私の信仰三段とびの記(1)――
釘宮義人 
 
 私はクリスチャン・ホームに育ちました。父母の属した日本基督教会に行ったり、伯父の無教会の集会に行ったりしていました。内村鑑三が好きでした。戦争の時代です。私は非戦主義に心をうばわれました。内村鑑三のほか、トルストイ、ガンジー、ロマン・ロラン、矢内原忠雄などの影響でありました。
 そんなふうでありながら、どうしてもかんじんの信仰を持てませんでした。決して信仰を嫌ったのではないのです。いいえ、それどころか、熱烈に信仰にあこがれたのです。しかし、あこがれれば、あこがれる程、信仰は遠のきました。神の存在を認め、キリストの奇蹟を信じることは、私には早くより当然なことでありました。十字架も復活も、教理としては分りました。当時流行のバルトや高倉徳太郎の本をよみました。知的には何とか理解できました。
 問題は、実感ということにありました。どうしても自分の罪が実感として感じられませんでした。キリストの十字架の贖罪が、教理としてはともかく、自分の事として実感できませんでした。パウロ、アウグスチヌス、ルター、ジョン・ウェスレー、そして私の父などの明確な回心経験を私はうらやみました。その頃、熱読したのは石原兵永の「回心記」です。この本の回心の一瞬の空行を、何度も歎息してみつめたものです。
 その頃、外界は戦争の時代です。ある時、無教会の藤本正高先生を招いて集会をひらきました。先生は、口をひらいて、ずばり「西にはヒトラー、日本では軍部、悪のはびこる今の時代でありますが……」、静かな声でしたが、私の心は恐怖と感激でおどりました。
 私は、非戦主義への傾斜を早めました。教会の会合や、友人・後輩を集めての会合で、一種の英雄・預言者気取りで、やや気負って語りました。しかし、私の内面はみじめでした。私は魂の平安を求めていましたが、それは与えられませんでした。満たされぬ私の魂にとり非戦主義的口吻は、ひとつのアヘンでした。
 その破局はすぐ来ました。私に軍隊の召集が来たからであります。その時、非戦主義者として国や軍に対し正面きって戦うという気力は出ないのでした。そのわけは、当時の皇国思想というものが私の中に多分に生きていたからです。天皇の命令にあからさまに逆うという考え方が出来ません。吉田松陰流の「君主の過誤には死をもっていさめる」という、今の人にはとうてい分ってもらえないような倫理観が心の底にあったのです。もう一つはキリスト信仰がついに掴めないので、霊魂上の絶望感が非常に深刻だったのです。そこでついに自殺を決意するに至りました。
 その時、私は、服毒したのですが、薬物が多すぎたのか、少なかったのか、自殺は失敗しました。その事はすぐ特高に知れ、捕えられてしまいました。(新教出版社「戦時下のキリスト教運動(3)」参考)。そこまで行きつくと、人間も度胸はきまるものです。警察や検事局、裁判所ではあまり卑怯未練な言動はしないですんだと思います。それどころか、相当派手なやりとりもありました。そして、判決、服役、福岡刑務所へ押送です。
 福岡の刑務所では、戦時色一色でした。厳正独居の私に与えられる仕事が、軍用手袋や軍用品袋の縫製です。現代の戦争は国をあげて国民の総力態勢でやります。百姓でも商人でも小学生でも戦争協力から逃れることは出来ません。まさに終末の時代、「国と国、民と民」の戦争の時代であります。刑務所まで来ても、やはり戦争協力か?私の魂は絶望と無力感にあえぎました。
 その時、私の魂は、思わず私自身を徹底的に追いつめていました。私は悲鳴をあげて、私の不信仰を告白しました。地獄でした。私の目は地獄の火を見ました。――そして三日、私に回心の一瞬が訪れました。一九四四年一一月二三日、私は満二二才。ついに私の「信仰三段とび」の助走期が終ったのであります。
 (1980.3.9週報「キリストの福音」より)


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# by hioka-wahaha | 2017-02-28 22:00 | 日岡だより

No.787 信仰とはむつかしいものか 2017.2.12

信仰とはむつかしいものか

 先日、伯父釘宮徳太郎の昇天四四年記念集会があって本家にまねかれ、その司式と説教をさせて頂き、まことに光栄、また感慨無量でありました。次のように言うのは、余りにたかぶった言葉で、人に対しては非礼であるかもしれませんが、「伯父は家名をM子さんに、事業をR兄に、集会をK先生とその後の別府集会に、そして信仰をこの私にのこしてくださった」と思うのであります。親族一統、又、別府集会の方々等三十名ほど集って、「直線的かつ多面的」(当時の原田美実先生の評のよし)なる伯父の信仰人物像をしのび、集会後の座談もなかなか豊富でありました。さすがにこういう席上らしく、クリスチャンでない方々からでも信仰的な話題ばかりで、大変良い交わりとなりました。ただし、しばしば「信仰はむつかしい。信仰はむつかしい」という言葉が出てきて、私は大変気になったのでありました。
 私どもの間では余り聞かれない言葉だものですから、多少奇異に思い、二、三日して、ある集会の時「みなさん、私にかくれてひそかに信仰はむつかしいネ、など言っているのではありませんか」と聞いてみたところ、そういうことはないそうです。けれども、口には出して言わぬけれども、実際は心の中で「信仰はむつかしいなァ」と、思っている人があるかもしれません。求道中の方は特にそうでしょうね。
 信仰がむつかしい、というのには次の三つがあると思います。
①聖書や教会で使うコトバがむつかしくて分らぬ。
②聖書や教会のお話はそれは立派な事ばかりで結構だが理想主義空想論で実行はできそうもない。
③神の存在や、キリストの十字架の贖罪など、信じたいと思っても信じられぬ。信じられる人がうらやましい。
 
 第一のコトバのむつかしさ。これは魚を食べる時のように、食べれる身のところから食べて、おいおいハラワタや骨の方も味わうがよい。聖書のむつかしい処は、大学の教授でも博士さんでもむつかしいのですから。
 第二の実行のむつかしさ。これは、もっともでありまして、聖書の教えには、個人的聖者でなければ実行不可能なような金言名句訓戒説話が豊富です。これらの言葉を遠くよりながめて、他人事のように「むつかしいですなァ」と嘆賞するむきもあります。深刻なのはそういう人と違って、血みどろになってそれらの聖書の言葉を実行しようとして、刃折れ矢つきて絶望に至る人です。人間のあらゆる業(わざ)につきまとう利己心につき当って、人間悪の深淵にあえぐのです。しかし、ここにいつまでもいる必要はありません。
 第三の信仰のむつかしさは、信じられぬ非合理な教理をむりやりアタマで承認し、信じることにしよう、思いこむことにしようとするタイプ。あるいは、信じたいと熱望しつつ信じられぬ自分の魂のガンコさに悩むタイプ。いずれにせよ、自力で信じようとすれば、無理です。仏教風に言えば「仏の方よりもよほされ」、神の賜物として信仰が与えられるのです。たいていの場合、この信仰を頂くためには、第二の深淵は必要路で、この死の蔭の谷をとおって、信仰の峯に辿り行くことが出来るのです。
 信仰は自力ではない、絶対他力である、と言えば、これはもともと真宗的用語ですから問題があります。信仰とは本当は人の心と、神の霊の協同作用のような所があります。この神の霊にもよほされて信仰のおこる時、むつかしい事は何一つありません。
 なお又、信仰を実際社会(家庭、職業、経済、肉体等)の問題に適用して平和、成功、繁栄、健康を得る事は(こういう事は新興宗教の一手独占販売である筈がない)、天地の造り主、唯一のまことの神様を信じる者に能わぬ筈がないのであります。(二・二九・釘宮)
 (1980.3.2週報「キリストの福音」より)


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# by hioka-wahaha | 2017-02-22 14:20 | 日岡だより