No.177 祈りと恵み 2005.5.22

祈りと恵み

 本日は私は愛媛県北條市の府中集会に招かれて礼拝に奉仕させていただいています。数日前、礼拝司会の秋山姉から、「『祈りと恵み』について説教してほしい」と要望がありました。私はそのご要望を心にして、聖書個所と説教題をルカ11章1~13節により「聖霊を求めよ」と説教題をきめて、ご通知したことです。それは本紙の最後に書きました手束先生の新著から受けた感動からでもあったのです。
 この先生の新著では聖霊様を受けるには、切なる求めと、単純な信仰が秘訣であるとあります。つまり「祈りと恵み」です。
 祈りは信者の側からの努力です。恵みは神様からの一方的恩寵であります。理屈から言えば、矛盾します。しかし私は「信仰とは神と人との協力作用である」と言われた旧師の言葉を思い出すのです。
 当時、「信仰とは全く自力を排して、ひたすら神様の恩寵にすがることだ」とする絶対義認信仰に生きていた私には驚天動地の神学でした。
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 さて、たまたまノーマン・V・ピールの50年前の名著、「積極的考え方の力」を書棚の隅から引っ張り出して拾い読みしていました。そこにこんな言葉がありました。「力の出し惜しみをするな。多くの人は力を出し切っていない」というのです。
 力を出し切らないで失敗した時の誰でも味わう後悔の念は想像できますが、たとえ成功したとしても一種言うに言えない不快感、後味の悪さが残ります。これでは颯爽とした幸福な人生は望めません。
 さあ、自分を励まそう。「うん、力を出し切るまでやるぞ」。力を出し尽くした場合、たとえ失敗しても爽快な気分を保てます。力の限り祈ろう! 《く》

   
実行的信仰の秘訣

 ブラック・ボックスという言葉があります。たとえばビデオです。一方で入力すると一方から音や映像が出てきます。器械の中身がどうなっているのか、さっぱり分かりません。しかし、ビデオという器械を通して入れたものは何度でも再演されますね。この時このビデオをブラック・ボックスといいます。
 かつてわが家のビデオが故障しました。専門の技術屋さんが来て、中を開きました。そして、一個所の部品をそっくり取りかえました。それでもう修理は終りでした。
 さて人間の心もブラック・ボックスに似ています。一つの刺戟が入ると一つの反応が出て来ます。日本人の子供は大人から頭をなでられると喜びます。しかし頭をなでられると怒ったり、しょげたりする国の子供もいるでしょう。国民によって心のブラック・ボックスが違うのです。
 いや、厳密に言えば人によって違うのです。同じ音楽を聞いて、「やかましい」と顔をしかめる人がいますし、目をほそめて心安らぐ人もいるのです。
 同じように、苦難や痛みに会うと、「なぜ俺だけこんな目に会うのか、神様は不公平だ」と神様をうらむ人は多いでしょう。しかるに、「これは試煉だ、神様が私を強い人間にしようとして私を鍛えて下さっているのだ」、あるいは「これは明らかに私のかつての不誠実の結果だ。私を更に清める為に神様が懲らしめてくださっているのだ」と思う人もいるものです。人はさまざま、それぞれの心のブラック・ボックスが違うのです。
           *
 クリスチャンを分けて第一次、第二次、第三次のクリスチャンとしてみましょう。
 第一次のクリスチャンは「救い」の確かさを握っています。しかしその救いを実生活に活かしきれないでいます。生活面では非クリスチャンと殆ど変りません。
 もし、この第一次のクリスチャンが、実にすばらしい生活態度や能力を持っていたとしたら、それは信仰に直結した霊的賜物によるというよりは、儒教、修身教科書、教育勅語、親の家庭訓、偉人英雄の伝記類に啓発され習得した徳力なのであります。もちろんそれは大いに称賛されてよいことです。しかしそのように立派な人であるにもかかわらず、なおも第一次的クリスチャンにとどまっているということがよくあります。
 この点、信仰的偉人であって、もともと人間として傑出した長所や魅力を持っている人であって、信仰的な偉人と呼ばれている人々は後世の人をある意味で誤らせることが多いのです。
 例えば内村鑑三先生。先生は青年時代、生物学者としてもすでに優秀であつたとか。字をカイ書で丁寧に書いたとか。それは先生の信仰以前の能力や性質です。信仰によってそれらの特質が倍加増幅されたという事実はもちろんです、しかし生来の先生の特質の方が、のちの信仰体験よりもこのことに関しては大きい影響力を持っていたと思えるのです。
 似た話はインド伝道のウイリアム・ケーリーにもあります。少年時代から努力家であった、語学の大家であった、などというのです。私はかつてこの実話に腹立たしい思いを抱いたものです。本来のなまけもの、語学ダメ男、それが信仰のおかげで努力家、語学の大家になったという話なら、われわれ愚者、小物にとり福音です。
 信者がその人間的能力で努力して出世する、能力が倍増する、道徳的になる、もちろん、善いことです。しかしその人は相変らず第一次的クリスチャンにとどまっているということはよくあるのです。その証拠に成功したら、つい心の中で人を見くだす。能力の無いものをバカにする。不倫な人間を心で許せない。もちろんクリスチャンだから、そのような素振りは決して見せません。しかしそれは(!)、イエス様が最もお嫌いになった偽善者の姿ではありませんか。
 もっとも、この第一次的信仰にとどまりながら、その中で生きつづけて行く信仰の在りかたで割目すべき心境が一つあります。前述で言えば、この「偽善者」なる我をそのままに主の前に持って出て、主の許しを信じて、その許しの中で憩うのです。
 この信仰には一種の崇高さが伴い、多くの人の感動を呼びます。日本人には浄土真宗の下地があるから尚更よく、この信仰の境地が分かるのです。一種の自在感さえあります。プロテスタントの人は信仰的訓練ということを認めたくないので、この信仰路線を甚だ喜ぶのです。
 さて第一次的クリスチャンの問題点は、自分が身分的に神の国の国籍を持っているとは信じていますが、その民籍の権利を使徒パウロがローマ市民の権利を遠慮なく利用したように、この世で利用しようとしない処にあります。天国においての祝福を信じ、現在の個人的内面生活における祝福を体験してはいるが、しかし地上の実行生活において矛盾と無力を覚えるという人々です。
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 第一次のクリスチャンは霊においては救われ、第二次のクリスチャンは精神(心、魂)において救われ、第三次のクリスチャンは肉体においても救われている(ローマ8:23)……肉体のあがない、これがパウロの究極の願いでした。
 実は、もともと第二次の精神(心、魂)の救いのことについて書きたいのでした。これはローマ人への手紙第七章後半から第八章前半にかけての主要テーマです。多くの人が「心」をサタンに食い荒されています。霊は主にあって救われているのですが、心はサタンにあって呪縛され自由を失っているのです。この心の自由をサタンより奪還するのが聖霊の法則です。心の中で各部品がメタメタに故障しているのです。この心というブラック・ボックスの中の小部品を丹念に聖霊の法則によって入れかえていく、その過程を聖化というのです。冒頭の例でいうならビデオの修理です。器械の外側を開いて故障の症状に対応する故障箇所の部品を入れかえるように、われわれの汚れた態度、しぐさ、言葉、習慣、の心の部位に聖霊のメスを入れるのです。聖霊のメスとは神のみ言葉(ヘブル4:12)だ、とも言えます。み言葉には人の魂を救う力(ヤコブ1:21)があるのですから。
 人格改造の秘訣はここにあります。聖霊抜きでも、ある程度やれます。教育の必要な所以です。ローマのエピクテトス等の先達者、日本の吉田松蔭等の偉人、すべて尊敬すべき模範です。しかし聖霊はそれ以上のことをします。
 教育とは梅干を作るのに似ています。梅の実を塩とシソの葉っぱの中につけこむ。すると塩とシソの色素が梅の実にしみこんで梅干ができ上がります。聖霊は教育とは違う、聖霊は活きた土壌に似ています。この中に梅の実を埋めると、すると活きた梅の木となります。そして遂には何千倍の実を結ぶことになるのです。
 キリスト教の歴史を見よ。殆どは名も無き小さき愚かな男女の群像です。その人々の気高さと清さと歓喜とを見よ。その秘訣は聖霊による心の変革であります。
 心が変ると行動が変わります。霊的信仰だけで心の法則を手中に納めないと、実行ができません。実行の無い信仰は死んだものであります(ヤコブ2:26)。死んだ信仰とは活動力の無い信仰のことです。
 実行的信仰を求めていくら努力しても肉の力によるならば必ず失敗するでしょう。ご聖霊様を勧請しよう。ご聖霊様を歓迎しよう。ご聖霊様に聞こう。ご聖霊様に従おう。(1984年旧稿 《く》)

〔図書推薦〕
「聖霊の新しい時代の到来」手束先生の新著である。ちょうど、先週のペンテコステ主日の朝、早天のため、家を出ようとして玄関脇にポストを見ると宅配のメールが届いていた。手束先生からのご恵送である。ぱらりと開いて見た。▼86頁のルーマニアの自由の革命の発端の個所、民衆の「神は生きておられる」という叫び声が澎湃として起こり、銃を持った軍隊がたじたじとなって銃を捨てる場面である。私は感動した。▼早天祈祷と、朝食を終わり、礼拝を控えているけれども、心は手束先生のこの新著に取り付かれて離れない。急いであちこち頁を開いて読む。最も心を打たれるのは、クリスチャンの最初の信仰を与えられるのは信仰によるのだが、聖霊を受けるのも信仰によるのだというくだりである。▼信仰が強くなり、清くならなければ聖霊は下らないと思うのは誤解である、ただ信仰だけで聖霊はいただける。だから、求めなさい。熱心に求めなさい。というのが、今回の先生の骨太い主張、お読み下さい。▼〔付言〕この5月15日号のリバイバル新聞の第1頁にも全面、永井信義先生の論文が出ていた。大見出しは「聖霊よ、来てください」とある。まさに、今こそ、聖霊待望の時代。▼日本列島、JR脱線からグライダー墜落等、全島運輸関係事故だらけ。それのみか、各地地震頻発。世界はキナくさい報道、小国から核軍備の欲求の声も聞こえる。ご再臨近し! 《く》
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# by hioka-wahaha | 2005-05-22 22:00 | 日岡だより

No.176 ペンテコステの力 2005.5.15

ペンテコステの力

 当教会の礼拝室の背後の棚に「祈祷テーマ・リスト」を置いてあります。その中の第2項に挙げてあるのが以下の文章です。
 「私は、父なる神、御子なるイエス・キリストと使徒たち、並びに天使たちとの交わりの中に(第一ヨハネ1:3下参照)私をも入れてくださるご恩寵を感謝します。これは又、聖霊様によって組織された聖なる神の軍団であると信じます。この軍団の力を信じます。この軍団の司令長官はイエス様であります。イエス様の御名によって敵なる悪魔に向かって勝利を宣言できる恵みを感謝します」。
 このことについて、先週の午後の聖会の最後の時、私は少し説明を加えました。この第一ヨハネ1:3下の聖句に注意なさるかたは少ないと思いますが、これは地上の教会が戦闘の教会として機能を果たすエネルギーはどこにあるかという秘密を書いてあると思います。
 ここで聖書は、「父なる神と御子イエス様と使徒たちの結束堅固なる軍団」に触れているのです。この一連の文章の中で隠れて現われない存在があります。それは聖霊様です。聖霊様こそ交わりのエネルギーです。ペンテコステは聖霊様降臨の日です。
 この日に教会が始まったと言われるのですが、その意味が、よく理解されない傾向があります。父と子と聖霊は三位一体と言われて、結束固き一体です。そこに主の弟子たちが加わって更に大きな一体となる。それが教会です。
 私たちは初代教会の使徒たちの群に伍(ご)して福音の戦線に参加します。この軍団こそキリストのからだなる教会です。その司令官は主イエス・キリスト。私たちは十字架の軍旗を押し立て、主に従ってサタンと戦って勝利するのです。《く》

 
祈りのコツ(一)

 ある方からの手紙に「祈りの仕方を教えてください」とあったので、私なりのご返事を書き始めたのがこれです。
 私の父は切羽つまって、初めて教会に行って「キリスト教の神さんに会わせてくれ」と言ったそうだ。初心者も初心者、まったくキリスト教を知らなかったのである。
 牧師は「あのう、釘宮さんとおっしゃるか。キリスト教では神主さんやお坊さんのように御祈祷料を頂いて、代わって祈ってあげる。そういうことは致しません。でも当のあなたが天と地を造られた真の神様に祈ることが出来るんですよ。さあ、こうして祈りましょう」と、まず父なる神様の名を呼んで、最後に「イエス様のお名前によって祈ります」という言葉まで教えて父を帰らせたそうだ。
 牧師も素朴で無知な必死な求めの父の願いに、さぞ困っただろうと思う。それにしても最善の答えをしたのであった。父は「へい、そうですかい。やってみますわ」と感心して、腕を組み組み家に帰ったことだろうと思う。父は家に帰ると、早速、納屋に這入って先ほど牧師に教えてもらったとおり祈り始めた。
 「天のお父さま。私は正直に、誠心誠意、一所懸命、家を捨てて放蕩している本家の兄貴のやり残した商売の始末を引き受けてやっていましたが、その兄貴が突然帰って来て、私のやってきた商売に難癖をつけ、私が財産を横領したかのようにふれまわり、私を泥棒猫のように、この町中に評判をたてています。私は恥ずかしくて、この町に歩けもしません。天道是か非か、神も仏もあるものか、と思います。キリスト教の神様は本物の神さんと聞きました。私はこの恥辱を払いのけたい。本当の神さんに会って疑いを取り払ってほしい。ついては、今夜、キリストの神さん、私に現われてください。私を安心させてください。そうでなければ、明日の一番列車に跳び込んで死にます」
 とゴミだらけの床を叩いて祈った。大分の町に日豊線がやっと届いて、町に汽笛の音を響かせていた時です。
 父は本気でした。今夜中にキリストの神さんに出て来てほしかった。繰り返し前記のように祈ってオラビ(叫び)あげた。30分もして突然、暗い納屋の中が火事になったかと思った。明るくなったのである。「オヤ」と思って辺りを見回すと、やはり暗い。しかし、祈りかけると明るくなる。「ヘエッ?」と首をかしげたとたん、体がギューッと締め付けられ、ガタガタ震え始め、何よりも「神様」が分かった。神様が来てくださった。恐ろしくなって「神さまーッ、すみまッせん」と、平伏してあやまった。見えない神様だが、そこに居られるという感じがしたからである。
 父に言わせると、清くて、おごそかで、温かい、神秘な方の臨在に囲まれてしまったのである。それっきり、父は謙遜でやさしく雄々しいクリスチャンになった。そういう父に何より驚いたのは、それまで父を迫害していた兄である。この兄が後に地方に名士として知られた無教会の豪の者、釘宮徳太郎である。私の伯父である。この伯父の影響で、私は非戦論者となり、戦時中、牢屋に繋がれることになるが、そのことは今回には関係ない。
 この父を見る時、祈りの「コツ」と言うのは軽すぎます。祈りの「秘訣」と言いましょうか、死をも賭した祈祷です。父はまさに命をかけて祈ったのでした。(この父の経験はインドのサンダー・シングそっくりですが、サンダー・シングについては、又別の機会にふれます)。
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 とは言え、上記の場合は特殊すぎます。一人ではなかなか、こういう熱心さでは祈れないものです。しかし、多数が思わず声を限りに叫び出し、涙をぼうだと流し、あるいは意味のない言葉や歌が飛び出す、集団の場があるものです。時にはその集団が去ったあとの会場に一人が遅れて来て、その部屋に首を突っ込んだとたん「ワッハッハハハ」と思わず笑い始めたという例もあります。
 そこには、はじけるような霊的磁場が出来ているのだ、と私は称していますが、なんと言うにしろ、それこそ初代教会で見られたペンテコステ現象ではないでしょうか。そういう場に入りさえすれば、誰でも熱狂的祈りに溶かされざるを得ない。ペンテコステ的集団祈祷のすばらしさです。
 ところで場合により一人で祈らざるを得ない場合も多いわけ、次回はそういう方々のために「神と共なる孤独」を守りつつ、爽快なる祈りに這入れるコツを述べることにしましょう。《く》

〔図書推薦〕
「父なる神に抱かれて」
            ジャック・フロスト著
 この本の著者ジャック・フロスト先生は長い間、自分は奥さんに対して良い夫だと思っていたそうです。しかし、本当は思いやりのない冷たい旦那だったと気がつく時がきました。
 フロスト先生の問題の所在の第一は幼い時に、先生のお父さんに厳しく育てられたことにあるようです。ともあれ、結婚した男性がしばしば一人合点で圧政的で、そのくせ自分は良い夫だと思っている例は、特に日本ではほとんどの家庭に見られます。
 私(釘宮)は妻を「トミさん」などとやさしく呼びますから、よほど愛妻家に見えましょうが、それでもどうしてどうして仲々そんなものではなかった。男性は自惚れの強いものです。妻が涙をこらえてそっと我慢していることに決して気づこうとしません。私もその一人でした。
 フロスト先生が変わったのは、ある聖会でこういう祈りを聞いた時からでした。ある牧師が祈りました。「父なる神様、父親から抱きしめられたことのないこの部屋の男性を、すべて受け入れてください。彼らをしっかりと抱きしめてください」。
 その時、熱湯のような愛がフロスト先生の心にそそぎこまれ、先生は赤ん坊のように泣きはじめたそうです。子どもの時から飢えていた父親の暖かい愛情が満たされたのです。そして奥さんをホンマの愛情で抱き締めることが出来はじめたのです。
            *
 愛されたことのある人だけが他を愛することができると言います。ところで、これまで愛されたことのなかった男も、女も、いま改めて愛されることを経験できる時がきました。どなたも神様の前に来ると良いのです。
 「皆さん、神様の愛を知っていますか」。こう質問すると、多くの方々が「ハイ、知っています」と答えます。「私はイエス様の十字架の血潮で罪を赦されました。イエス様による父なる神様のアガペーの愛で愛されました」と模範的回答が返ってきます。
 ところが、このフロスト先生の説明は違うのです。これには私も驚きました。神様の愛はアガペーだけではないというのです。
 フロスト先生が赤ん坊のように泣いたあの時、先生は神様のフィレオーの愛に抱き締められたと思う、その感動で一杯になった、それゆえ泣いたのだというのです。
 すこし説明しましょう。これまでの種々の本が見逃し勝ちだった神様の愛について、これまで聞いたことのなかった愛について語ってくれます。よく「父なる神」と言いますね。それなら「母なる神」とは言っていけないのでしょうか。「母なる神」と言うべき特質をも神様はお持ちのはずです。
 神様はご自身の形に似せて人を作りました。まずアダムです。それなら、なぜアダムからエバを作ったのでしょうか。神が持っておられる女性の性質が、アダムに欠けていたからに違いありません。神は私たちの父であり、母でもあります。その点を理解しないとイエス様の母マリヤを神様同様に崇拝しようとする衝動が起こるのは、無理もないことです。
 だから更に、この本では珍しい指摘をするわけです。神様が私たちを愛する愛は、アガペーの愛であるのはもちろん、先ほどふれたとおり、またフィレオーの愛でも愛するのです。フィレオーの愛は友情の愛です。又、神様はストロゲーの愛でも私たちを愛するというのです。ストロゲーの愛とは肉親の愛のことですが、こうしたことは滅多に聞かれない説です。私は驚きを隠せませんでした。この本をお奨めします。《く》 (「生ける水の川」発行、売価2000円)

〔あとがき〕
先週の5月8日は昔からよくやりました「母の聖会」でした。午前の主日礼拝では「信仰の土台」について。午後の特別集会では「父と御子と使徒たちとの交わりに入れ」と題して(本紙巻頭文参照)語らせて頂きました。この聖会の終結章、聖霊様の息吹きもかくやと、祈りの熱気あふれ、泣き崩れる人、あるいはハレルヤと叫んで大歓喜の人、霊的に磁場の沸騰点に達したかと思いました。本日は教会暦でペンテコステの日、先週の聖会に引き続き主の恵みの大驟雨来たらんことを。《く》
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# by hioka-wahaha | 2005-05-15 22:00 | 日岡だより

No.175 この時代を問う 2005.5.8

この時代を問う

 4月25日の尼崎脱線の大事故より旬日、日本列島は交通事故だらけ。まず、あの事故より2、3日して、JR各所にオーバーランが発生した。バスが運転手のわき見運転で横転したという。「日本中浮足たっているのではないか」という新聞記事もあったが、私は運輸関係全般に「だらけ」の悪魔が働いているのでないかと思った。
 更に続いて、羽田空港。管制塔が閉鎖している滑走路のことを10数人の管制官全員がウッカリ忘れていたという。降下しようとする日航機の操縦士のほうが念を押しているのに「間違いなし」と答えたというから、度を越している。管制塔室内に例の悪霊がニタニタ笑っていたであろう。
 次は韓国釜山から博多に向かう連絡船が鯨にぶっつかって沈みかけたという。乗客の半分以上が日本人だった。もう一つ、これも海、五島列島の防波堤にフェリーが衝突したという。県警のヘリコプターが民家をかすめて墜落。もうホドホドにしてくれと言いたい、事故ラッシュだ。
           *
 私はイエス様のお言葉を思い出した。弟子たちがてんかん症状の少年の癒しに失敗した時のお言葉である。「ああ、なんという不信仰な、曲がった時代であろう」。日頃寛容なイエス様のお言葉としては、なんとも過剰反応に見える。
 しかし、イエス様は弟子たちの不手際を責めるよりも、その時代を責めている。イエス様は決して大げさなのではない。時代を憂えているのである。
 この1週間の運輸関係の異常な混乱を見る時、「ああ、なんという不信仰な、曲がった時代であろう」。私もイエス様の真似をして時代を問いたくなるのであった。《く》


 
小預言者とならざるを得ず

 先日、私の古い大学ノートの日記が出てきたので、ふと読んでいたら、こんな大時代な短歌が出て来た。
  「義を知りてこの世にあれば我もまた
   一小預言者とならざるを得ず」
 短歌というよりは、明治・大正の市井のおっさんの筆すさびの和歌のようなものだ。
 ずいぶん独り合点で、気負い込んだ青くさい歌だから、ここに拾いあげるのは恐縮なのだが、私としては感慨深い戦前の一首である。
 前頁に書いた、「ああ、なんという不信仰な、曲がった時代であろう」という気分が出ている。当時の大東亜戦争に躍起になっていた日本の趨勢に対して「蟷螂(とうろう)の斧に向かう」ような不敵な言葉であるが、結構、私は恐怖心を抱いていた。
 その頃、「日本を衝く」という小論を書いたことがあるが、その一文をA君に送った。ところが、その手紙が憲兵に見つかってA君が睨まれた。彼はやむなくスパイ教育を受けてフィリピンの山下将軍直轄の宣撫将校に送られる。終戦後、かの地で遂に行方不明死になってしまった。後悔しても、しきれない。剛毅だった彼を私は今も惜しむ。
 彼は私服を着て単身、軍用機に乗って板付空港から飛び立ったという。その時、福岡の刑務所に入れられていた私に面会に来たらしい。しかし、いくら軍人の威光を振り回してもそれは無理だった。私たちは遂に生きて会えなかった。
 ここで「預言者」というのは、予言者ではない。ただ神様の代理として国家社会を糾弾するタイプである。旧約聖書でいうとエレミヤである。奇蹟一つしない、時代を慨嘆する涙の預言者である。舞台を日本に移せば、日蓮か、内村鑑三か。
 でも私は内にこもって、一人悲憤慷慨していただけで、世間に向かって何も言えなかった。「家のなかで聞いたことを屋根の上で語れ」とイエス様はおっしゃるが、そんな勇気は私には無かった。
 戦時中の暗い時代に比べれば、今はなんと言ってもありがたい。日本が戦争して、負けたお陰であるというのは辛いが。
 今、日本は道徳的頽廃時代。少年や青年たち、大人たちの自制心が全然無い。向こう見ずな犯罪や、無軌道な殺人事件。かつてのオウム真理教や、最近のなんとキリスト教会の牧師の性犯罪、批判する言葉にも窮する。
 サタンの息吹が霧のように日本全土を覆うているのではないか。そうした不穏な息吹が先々週の交通事故に噴出しているのだと私は思ったのである。
 良い悪いは別として戦時中の日本人には一種の緊張感があった。終戦後の日本人にはなんとか生き抜きたいという必死の意気込みがあった。経済成長期、新幹線やオリンピックの頃、繁栄の夢で元気だった。石油ショックでちょっとはヒヤリとしたが、
 その後も、なんとかやって来た。しかし、明治のあとの大正のダダイズムではないが、次第に弛んで来たのか。国の外交も対米追従、土下座外交で、一向にキリッとしない。皇室だってピリッとしない。ケロリとした人に見えた雅子さんがどうも心が病んでいる模様。いたわしいが、残念である。
 今、日蓮やイザヤ、エレミヤ、内村鑑三のように「喝」を入れる人、この国に居ないのか! 《く》

 
ヱホバ嗤い給わん

 私は最近、「笑いの達人」とも綽名される。「ワッハッハ牧師」と言ってくださる方もある。日曜の礼拝説教では冒頭でかならず信徒諸君に「ワッハッハ」と笑いの練習をして貰う。「いつも練習をしていると、どんな時にも自然に笑い顔をみせる微笑の人になるよ」、と言うのです。
 ベルグソンをはじめ哲学者の諸説もあまり笑いを褒めないが、でも、私はもっと笑いを評価したいと思う。
 ところで、笑いにもいろいろあって、冷笑、蔑笑、皮肉の笑い、これはいけませんね。しかし実は、こうした笑いも時にはイエス様に見られるのです。
 イエス様はパリサイ人を「まむしの子」と呼び、ヘロデ王を「きつね」と呼んだ。その口元にはかすかな笑いが見えたであろうと思う。
 詩篇第2篇を開くと、神様が天から地上を見おろして、神にさからう王や大臣たちにむかって笑う場面がある。「天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう」と。
 人間が持っている感情や性格で、神様の持っていないものは無いように私は思う。これは危険な神学かもしれないが、愛、喜び、勇気、悲しみ、加えて妬み、驚き、怒り、これらすべてを神様はお持ちである。
 それらを神様は一切聖別される。例えば、神は妬むほどに人を愛し給う、と聖書にある。イエス様は愛の方かと思えば,結構お怒りになる。又、イエス様は気丈な方かと思うと、時に涙を流される。
 十字架上では「わが神、わが神、どうして私を捨てられるのですか」と女々しい言葉も吐かれた。
 ともあれ、言いたいことはこれである。イエス様は今の日本を見下ろされて、慨嘆されるか。お怒りになるか、嗤いたもうか、どうだろう。
 私は祈る。「主よ、日本列島を覆い日本民族をたぶらかすサタンを、一喝し、嗤い、追い払ってください。この日本民族を全く救い給え」と。《く》
 
 〔あとがき〕
先週5月3日、チャペル延岡の開所式に参加しました。上木兄も一緒してくれました。午前、午後の2回の集会でしたが、驚いたこと、感動したことが、一杯ありました。まず、2回とも1時間以上、延々とフォーク調で賛美歌ではない語りぶしの歌を聞かされたことです。▼歌い手さんはノンクリスチャンの若者、中年、さまざまで、喜んでやっている。なるほど田崎先生から、そういう案内は受けていたが、これほどとは覚悟していなかったから驚いてしまった。▼なんと言っても新機軸、私はこうした音楽は分からない方で困ったが、でも、こうしてオープンするチャペル延岡、今後のキリスト教界を瞠目させる勢いになろう。期待したことです。▼さて、それでも説教は高森先生、すばらしい伝道説教で、牧師の私も心から感動しました。「みなさん、信仰とは喜びです」と先生はご自身の信仰を与えられた時の口に言うに言われないほどの大きな喜びについて語る。その又、先生のお話しを聞いて同じように大歓喜を受けて信徒の人々の証し。すばらしかったです。▼最後の特番、どういうことか私の畏友、傑僧、田口学法和尚が法衣のままやって来て、堂々と挨拶された。田崎先生とネット同士でお互いに私(釘宮センセ)との付き合いがあるということで結びついた仲と言う。和尚さんが法衣姿で祝辞のある教会なんて……、ほかにあるかなあ?《く》
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# by hioka-wahaha | 2005-05-08 22:00 | 日岡だより