聖書は神の直伝の書
ダ・ヴィンチ・コードの評判につられて、聖書の権威を疑わせようとする本が続いて出版されている。「捏造(ねつぞう)された聖書」とか、「イエス・キリスト 失われた物語」とか、そういう類の本である。 いずれも、イエス様の神性を否認し、キリストも人間であった。だから結婚もしようし、子供も生まれるだろう。聖書は人間が都合よくでっちあげたもので、矛盾や欠陥が沢山ある、といった具合である。 多くのクリスチャンたちも、こういう本を読むと、かなり動揺するだろうと思う。聖書が現在の形になるまで、何度かの会議を経て、古くからの写本類を取捨選択してきたことを知っている人なら、尚更のことである。 * しかし、多くの会議を経てこうなったとしても、斯くならしめたのは聖書自身の力なのである、ということを私は強調したい。 聖書自身の力が、聖書編纂者を突き動かして、斯くならしめたのであると、聖書は語っている。神の霊感が聖書記者をして、このように書かしめたのである(第二テモテ3:16、第二ペテロ1:21参照)と。 言い替えれば、聖書は神の直伝の書なのである。このことは、聖書自身が聖書を読む私たちに証明する、それが聖書の力である。 私たちが、聖書を読んで、イエス様を信ぜざるを得なかった。そして私たちの内に人挌の変革が起こった。このことが何よりも、聖書に霊的力があることの証拠である。《く》 ダ・ヴィンチ・コードについて 多くの日本の民衆にキリスト教に興味を持たせるためには、今回のダ・ヴィンチ・コードの本ほど効果のあった例はない。誰でも読みやすい小説仕立てのようであるから、有り難い。「ようであるから」というのは、私はまだ読んでいないのである。 残念ながら、さすがの読書好きの私も、最近はとみに読書力が落ちて、特にこういう反キリスト的と分かっている文章に対しては読む気力が起きない。 ともあれ、前頁に書いたように、次々に類似本が出て来るようで、私は歓迎している。 このくらいの本で、信仰の危機を感じるクリスチャンは、まだ本当のクリスチャンではないのである。そういう方々は、この機会に真の信仰の再建築をしてほしい。 キリスト教信仰と言わないで、「教」を除いてキリスト信仰と言ってほしい。私どもの教会の名称を私は「キリストの福音大分教会」とつけたのも、似たところから来ている。 キリストの福音大分教会と呼んでいただく時、この「の」は所有挌の「の」である。キリストの所有される福音を私たちは信じ、この福音に私たちは属するのである。 一般にキリスト教会と呼ぶ時、キリスト教の会と誤解される懸念がない訳ではない。断じてそうではない。キリストの教会であって、キリスト教の会ではない。 クリスチャンのチャンを、まさか「サッチャンはね」のチャンと思っている人はなかろうが、似たようなものかもしれない。このチャンはキリスト「の者」という意味である。 クリスチャンはキリストの者になりきっていてほしい。イエス様を信じているつもりのクリスチャンでは困る。イエス様を信じるとは、どういうことか。イエス様の朱印が赤々と心臓に打ち込まれている人のことである(エペソ1:13参照)。 * 聖書を読みましょう。聖書は第1頁に書いたように神様直伝の書である。神様が書いた本であるから、書いてあるままを、そのまま信じるのである。 旧約聖書では、神様は唯一の万物の創造者なる方であると書いてある。そのことを信じましょう。それがクリスチャンである。 新約聖書ではイエス・キリスト様は真の神であり、また真の人間であると書いてある。そのことを信じましょう。それがクリスチャンである。 旧約聖書における父なる神様の神髄は、「我は有りて在るものなり」と言われる、そのコトバの発信源そのものの方である。言いつめると、そのコトバそのものである。 そのコトバこそ、その方がキリストである。キリストが人間として地上に表れる時には、彼は神様が最初に作られたアダム以上に、理想的人間、欠陥なき人間、神様そのままの姿に造られた人間なのである。だから、助け人が不要なのである。つまり妻を必要としない存在である(創世記2:18参照)。 肉体的父を必要とせず、「人の子」としてお生まれになった方は、ご自分も肉において子をお造りになることはない、霊において子を造られる。 霊の子らは風のごとくに新しく生まれるとイエス様はニコデモに説明されたとおりである。 だからイエス様をいわゆる普通の人間並に、妻を必要とし、生殖において子を造らざるを得ない存在として解釈するダ・ヴィンチ・コードのキリスト像は、偽のキリストである。 キリストは、真の神であって、なおかつ真の人間なのである。 * このようなイエス・キリストを理解することは、並の人間の理性では不可能である。まして、信じることは出来ない。 どういう人が、それが出来るか。それは、真の神であり、なおかつ真の人間であるイエス様ご自身が、その人の心に宿る時、それができるのである。 キリスト信仰とは人間が「信念」をもって神の存在を認め、信じ、イエス・キリストを救い主と認め、これを信じることではない。信仰とは信念のことではない。 イエス様が私の内にお住みになってくださって、信じるも信じないもない、まさにイエス様が私の内におられることを直感させられている、そういう事実をさす。 * 物が燃える時、火はその物とは全然異質なものであるが、その物に寄って燃える。人は肉なる存在であるが、聖霊の火が燃えると、人は燃える。 しかも聖霊の油が注がれるので、いつまでも燃える。その内、肉は燃え尽きてしまうが、新生した霊なる私は死ぬことはない。そして天に帰って行く。 イエス様を信じる信仰が、それを実現させてくださるのである。主を賛美しましょう。《く》 〔あとがき〕 去る6月4日夜、予定どおり東京秋川集会に寄せていただき、小集会を持たせていただいた。赤坂家、相馬姉、瀧澤兄のご愛に感謝します。▼翌日は八王子の野上家を訪問、時間が少なくて残念でしたが、夫妻と主にある交わり、祈りを共にできたことを感謝します。▼5日、6日は、御茶の水のキリスト教学生会館で日本民族総福音化運動の評議委員会に出席しました。総裁が奥山実先生、事務局長が手束正昭先生、大分からは橋本守先生もご出席。その他、全国から20名ほどでしょうか、世間並の表現をすれば多士済々、元気のよいご意見、談論風発、珍しく(?)黙っているのは私だけ、ということでした。▼特筆すべきは手束先生の提案でした。目下、日本における新宗教の間に分裂騒ぎが起こる可能性が強い情勢あり。これら教団から脱出してくる鍛われた信者さんたちを、キリスト教圏に迎え入れる用意が必要だということ。あたかも、先週の本紙に紹介した元創価学会や幸福の科学の幹部を務めて現在鈴木先生のシャローム教会の信徒になっている小沢さんが来席していて、同兄に今後のそうした受入れ体制作りの助言と応援を得ようということも話題になりました。今回、本紙に執筆しました「ダヴィンチ・コードの良き効果」も期待できる現在の時代趨勢の面白さに注目したいと思います。《く》 #
by hioka-wahaha
| 2006-06-13 11:07
| 日岡だより
愛国心とは何か
「愛国心とは何か。それはエゴイズムを国家大にしたものである」、という言葉をある本で読んで、「なるほど」と思ったことがある。まだ、戦前のことだ。 人間の造る組織や団体は大きくなれば大きくなるほど、人間のお互いの欲心や自己防衛心をモロにむき出して、それが善いことだと思わせる力学がはびこる。この傾向に逆らうことは本当に難しい。 特に国家が「愛国心」などと言い出す時には、キナくさいものがあたりを覆う。軍備必要論が妖怪のごとく動き始める。そうこうしているうちにハッと気がついた時には、もう「愛国者」たちが鼻をうごめかせ、肩をはって歩き始めている。昭和の一桁の頃がそうだ。上海事変が始まったのである。 * 「愛国心」の出所を「愛郷心」になぞらえて、なんだかロマンチックな色彩に染めて語る人がある。これはインチキである。「愛郷心」には母性を恋うるような秘めた感情がある。「愛国心」には外敵を意識する排他精神がある。 ただし、予想できる外敵にたいして、国民を護ろうとする護民精神は是非無ければならない。外なる敵から最新の核弾頭を打ち込んで来る時、これを頭上にあびる国民をその災害から護ることは果たしてできるのか。やってくる核弾頭を完全に迎撃できる武器は今の日本にもアメリカ軍にもあるようには思えないのだ。 西本さんのシェルターの輸入販売を応援したい私の思いはそんな所から来る。これこそ、本当の愛国心、いや護民精神である。《く》 創価学会に負けるな リバイバル新聞の6月11日号に、小沢さんという方の「日本の宗教と政治」という欄があって、創価学会のことに触れている。この小沢さん、元創価学会の幹部であったらしいし、その後、幸福の科学の理事長にも就任、その後、クリスチャンになったという人物だ。 このような人には、今のこの日本のキリスト教の沈滞ぶりに対して、ズバリものを言う十分の資格がある。心して聞きたいものである。1950年代から、戸田、池田と続いた折伏大行進の頃、あの爆発的エネルギーはどこからはじき出てきたのか、もともと日蓮系の宗団にはこういう勢いはあるのだが、それにしても創価学会は凄かった。 先週のこの「日岡だより」で、まず上げたのは、日本の霊的暗部を衝くということであった。そして日本にたいするジェイコブスさんの預言と、天野先生のしるしと不思議の集会であった。 そこで言いたかったのは、<1>私たちの祖国日本に対する神様による洞察と政策と、<2>聖霊による奇蹟的伝道の必要であった。 そして、今回言いたいことは、<3>私たち日本の伝道者、クリスチャンがかの創価学会的熱意と行動力をもって日本宣教に乗り出すべきだということです。 このために、まず何が必要か。第一に信仰の明確さです。全クリスチャンに、はっきりした回心を求めたい。あのパスカルがメモしたような「火の体験」がほしい。 火 アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神 哲学者や学者の神にあらず 確実、確実、感激、歓喜、平安 イエス・キリストの神 Deum meum et Deum vestrum. (わが神、即ちなんじの神) なんじの神はわが神なり 神以外、この世および一切のものの忘却 神は福音に示されたる道によりてのみ見出さる 人間の魂の偉大さよ! 「正しき父よ、げに世はなんじを知らず、 されど我はなんじを知れり」 歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙 われ神より離れ居りぬ わが神よ、我を捨て給うや 願わくば、われ神より永遠に離れざらんことを 回心について 尤も、回心と言っても、誰でも同じような激しい回心をするわけではない。 最近、茂木健一郎さんという人の「ひらめき脳」という本を読んで気がついた。これは宗教体験としての回心について考えさせられる。宗教体験としてと言うのは、キリスト教も含めてのことだが、激しい回心と言えば、使徒行伝に出るパウロのダマスコ途上の回心など良い例だろう。 私がしばらく属した手島先生の幕屋には、そういう例が多かった。今、西東京で伝道しておられる今橋先生などは、私も親しくしていただいたかの桜井先生の熱い按手祈祷により脊髄カリエスがバリバリ音を立てるようにして癒されたのだが、同時に信仰の回心をされた。 ちなみに「釘宮先生の回心はどんなでしたか」と今橋先生に聞かれたから、私の獄中回心記を語ったが、「その程度でしたか」とちょっとガッカリしたみたいで申し訳ない気がした。たしかに、私の回心はしっかりした確かな回心ではあったが、それほど外見的に驚かせるほどのものではなかった。 私は「一人の人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである」(第二コリント5:14)のお言葉により、「ああ、私もそのすべての人の一人だ。私の古い人はもう死んだのだ。私はもうキリストにある新しい人になった」と一瞬に悟ったのである。それは私にとり、かけがえのない徹底した回心であったが、しかし私の内面に起こったことで、外側では何の変化もない、簡単な事件であった。 しかし、その日から私は俄然変わったのである。それは福岡刑務所の独房の中で起こったことである。 だれ一人、私の内面の回心を悟る人はいない。しかし、その日からから、私は明るいきびきびした囚人に変化したのである。まず囚人仲間の雑役から、そして担当看守から、そして中央詰め所にいる看守部長にいたるまで、私の変化に気がついた。「あの902番に何が起こったのか」。私の囚人番号は902番であった。 それでも今橋先生の回心にくらぶれば、まことにおとなしい回心であった。 茂木健一郎さんの「ひらめき脳」を読むと、発明家や芸術家が「ひらめき」を覚える一種の心理学に脳生理学をプラスしたような気分変化、このひらめきと称する「気づき」、これには大小あるが、宗教者の回心に似ていることを発見するのである。 聖書を読んでいて、小さな一句に「ハッ」とひらめく小さな回心から、ジョン・ウェスレーやチャールス・フィンニーなどのような明確な回心にいたるまで、そして私の父・釘宮太重や私の母や、私や、私の妻や、私の初期の信徒の皆さんにいたるまで、大小の差はあっても、それぞれ明確な回心を経てクリスチャンにさせていただいたのである。この恵みを多くの方々に体験して頂きたいと思うのである。《く》 〔あとがき〕 回心を英語でコンバージョンと呼ぶのが普通であるが、ある英語に慣れた人に言わせると、宗教的回心の場合はコンバーションと言うのが正しいそうである。回心については、新教出版社の「回心記」(石原兵永著)が、参考になると思う。少なくとも、私などの体験してきた回心というものを、如実に表現している文章は、この石原先生のものが一番良いように思う。ご講読をお勧めする。《く》 #
by hioka-wahaha
| 2006-06-06 18:06
| 日岡だより
日本よ、神に帰れ
かつて書いたことがあるが、藤原正彦さんの言う国家の品格とは何ぞや。私に言わせれば、国家の品格とは国民の品格である。 そこで、最近の日本国民の品格はどうであろうか。多くの人が、「今の日本じゃ駄目だねえ」と吐き捨てるように言う。「昔はこんなじゃなかった」。 たしかに、それは言える。最近、毎日の新聞に上ってくる治安の悪さ、特に幼少年の被害が多いが、殺人事件、ひき逃げ事件、不審な転落事故、昔だったら、年に1回か2回しか起こらないような珍しい事件で、そうした事件は長い間、世間の話題になったものである。 大分県は温泉県で、あちこちの温泉から濁った温泉や、透明な温泉や、地獄では赤い熱湯が出たりする。地面の底に、そういう温泉を出す地層があるわけだ。温泉源は地層にある。 同じように日本の社会に湧出するもろもろの犯罪は、その地層に源泉があるはずだ。各々の犯罪は、それぞれの犯罪を湧き出させる原因が、その社会の下層に隠れている。それが、言わば品(?)格である。 一般民衆の世間意識、お互いの交流感覚、職業意識、情緒や道徳感覚、そんなものの中で仲良くなったり、反発したりで、上流、中流、下流と行き違う思惑の中から、大小の事件が起こる。 このような日本人の我々、他人事みたいに「昔はこんなじゃなかった」と言っているが、それで良いのか。今こそ、日本人は恥を知って神様の前に立ち帰るべき時がきている。そのことを、日本人クリスチャンは、特に知らねばならない。日本の悔い改めを自覚すべき時なのである。《く》 これからの日本 実は、リバイバル新聞の最近号(5月28日号)を見た。特に気がついたのは、シンディー・ジェイコブス師が去る5月4、5日埼玉県越谷市の会場で語った日本に対する主の預言であった。もう一つは草加神召キリスト教会の天野弘昌師の大阪でしたメッセージの内容であった。 今回は第一頁に続いて書くべき原稿を私は中止して、破格なことであるが、このリバイバル新聞の記事を流用することにした。これからの日本の動向、日本の教会は如何にあるべきか、そうしたことに強力なサジェッションを与えてくれるように思うからだ。リバイバル新聞には断わりもなくするので、出版道義上問題もあるが敢えて転載する。お許し乞う。 * 預言者として、また国際的祈りの働き「とりなしの将軍」の創設者シンディー・ジェイコブス師が去る5月4、5日埼玉県越谷市の会場で開かれたカンファレンスで日本に対する主の預言を携えて来られた。以下にその預言の一部をリバイバル新聞より転載する。これらの言葉が語られた時、その中から歓喜の声と拍手が起こったそうだ。では以下に…… 「日本はペンテコステを経験します。超自然的な神の力が、神の訪れを体験する鍵になります。これは神の教えを必要としないということではありません。『何が日本を変えるのか』というと、神の力が顕されることなのです」。 今後の日本宣教のために しるしと不思議を この4月29日、大阪府泉佐野市で開かれた日本福音教会春期聖会において、日本アッセンブリー教団草加神召キリスト教会の天野弘昌師が「宣教の緊急性」と題して情熱的に語られた。 天野弘昌師は、韓国、ペンサコーラ、フィリピンなどを回った経験から、「リバイバルには神の圧倒的な臨在と油注ぎに鍵がある」と述べ、その地域の教会に、<1>非常に単純な信仰がある。<2>大胆な宣教が行われている。<3>しるしと不思議が起こっている―の3つの特徴があるとした。 〔あとがき〕 先に「魔法の日記《なりたい自分日記》」を、皆さんにお送りしたら。意外に好評で驚いています。しかも、共感された福岡の河村賢吾兄から、同様の発想によりご自分で作られた「自己変革のための言葉」という膨大な言葉集を贈って頂いた。これが又、すばらしいものです。今回同兄のご了解を得てコピー印刷、皆さんにお送りします。▼この月は大阪の西本誠一郎兄と、この河村兄のお陰で、私たちクリスチャンの自己啓発のための有効な手段を教えをご示唆頂いて感謝しています。「救は信仰により、行いによらない」という常套句にだまされて自己努力を怠るクリスチャンが多い。しかし、「主にあっては私たちの労苦はむだになることはない」のです(第一コリント15:58)。▼西本さんと言えば、同兄の第二の事業たるシェルター輸入販売のお仕事に敬意を表したいと思います。いつか詳しく書きたいのですが、日本憲法九条を守ろうという程度の平和運動では、世界情勢には間に会いません。今の日本憲法は何度も書いたように偽装憲法です。本当に日本の人民を一人一人、原爆等からの生命危機を守ろうと思ったら、日本政府もアメリカ軍も役に立ちません。このことを政府もマスコミも頬かぶりしています。シェルターは一人一人の命を守る最後の砦です。▼でも魂の最後のとりではイエス様です。信仰の基礎は十字架の信仰、信仰の成長は聖霊様の援助と各自の実践です。《く》 #
by hioka-wahaha
| 2006-05-30 12:25
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