No.180 我、日本の柱とならん 2005.6.12

我、日本の柱とならん

 創価学会が出している「大白蓮華」という雑誌がある、その雑誌の7月号の広告が新聞に出ていた。その中に池田大作さんの論文であろう、その題名があった。言わく、「我、日本の柱とならん」。
 いいなあ、と私はつぶやいた。もちろん、この言葉の出所は日蓮のはずだ。日蓮さんの言いそうな言葉である。背骨の太い人物の言葉である。こういう言葉はあまりキリスト教会では聞かれない。
 日蓮さんの有名な主張は「立正安国論」である。まず正義を立てるのだ、それが国を安んじる基本だぞ、と言うわけだ。
 私が戦争中、非戦論を唱えたのは、殺人が罪であるように、戦争で他国を侵すことは悪いことだと思ったからである。戦争は神様の前に罪である。自分の愛する国に罪を犯させたくない。これが私の非戦論だったのだ。ところが、
 今の日本には、「戦争なんか嫌だよ、戦争が始まったら国外に逃げるよ」などと、そんな事を言う無責任な愛国心欠如した若者たちが幾らもいると聞いて、私はいよいよ日本人に失望を禁じ得なかった。
 私の非戦論はそんなものではない。こうである。たとえ我が国を攻撃してきた外国に対し、非戦主義のゆえに武器を取って抵抗もせず私は戦死、むざむざ国を亡ぼしてしまったとしても、天国に帰ったら神様から「お前たちはよくやった。私の教えを守って戦争に負けてしまったが、あれは栄光の敗北である。お前たちの国を、そして天皇を、政府を誉めてやるぞ」とお褒めの言葉を頂けるのなら、これこそ最高の名誉、国家の幸福であると思ったのである。
 これはまあ、なんと夢みたいな世迷言を言う奴だと、当時の警察や世間の人や、いやキリスト教会の人まで思ったであろうと思うが、私は本気で真面目だった。自分の国をそのように敗戦に至らせたとしても、その非戦論者こそ本当の愛国者である、と私は思っていたのである。
           *
 国益のために政治を取りあつかう有能な政治家は多くいることだろう。しかし、正義のため、真理のため、神様のため、信念をもって政治に挺する人こそ、本当の政治家であると思う。
 もし真理のため、正義のため、信念をもって国際政治に手を染める時、時には国を危なくするかもしれない。しかし、そういう人が政治をし、それを賛成応援する国民や国会議員諸君を擁している国は、どれほど神様から愛されることであろうか。私は日本をそういう国にしたい。(中国に気を使って国益をあげつらう諸君よりは、個人的信念を標榜する小泉さんの方に、私は好意を感じます)。
 植村正久や内村鑑三、熊本の花岡山で血判して日本をキリストの福音で救おうと決意した明治のクリスチャンたちを、私は今憶う。《く》


神は我らの避け所 また力なり

 今、自分たちの住んでいるこの土地に地震が起こるのではないかと異常に心配している方がいます。心配しています。その心配が異常なほどなのです。その電話に私は答えました。
 「大丈夫です。地震なんか起こりませんよ」。私は自信ありげに言っても、その言葉は疑わしいらしく(無理もありません)、しばらくすると、また「地震が起こりませんかねえ」と電話がかかってきます。私は青年時代ひどい強迫観念だったので、その強迫観念風の心配の仕方も想像できるのです。
 昔、中国の杞の国の人が「天地が崩れ落ちる。天地が崩れ落ちる」と言って心配したそうです。こうした無用の心配を「杞憂」と言うと辞典には出ています。現代流に言えば、典型的心配症、強迫観念です。しかし、聖書に従うと、終末の時代が近づく時、「天地が崩れ落ちる」という心配は決して杞憂だとは言えません。
 イエス様は「世の終り」について、かなり精密な預言を残しておられます。くわしくはマタイの福音書第24章を読んで下さい。
 「偽キリストが表われます。戦争や飢饉や地震が頻発します。クリスチャンはイエス様の名のゆえに迫害に会います。多くの人の愛が冷えます。しかし、こうした中でもキリストの福音は全世界に宣べ伝えられます。きびしい艱難の後、太陽は暗くなり、月は光を落とし、星は空から落ち、天体は揺り動かされます。そうしてイエス様は天の雲に乗って来られる」と、言うのです。
 私は少年時代、このイエス様のお言葉を伯父から聞いて身震いしたものです。さて、最近の日本列島の地震があちこちに起っているのを見る時、かつての映画「日本沈没」も、あながち架空の物語ではないと思い始めた人も多いでしょう。
 先に書いた地震恐怖症の方のような心配も、一概に笑っておれないのです。無理もない心配かもしれません。いずれにせよ、一応の地震被害対策をしておくことは大切でしょう。しかしそれ以上に心配で夜も眠れないとあれば、病的と言ってもよいのです。
 しかし、こうした「恐怖症」の尤もな点は、心配していることは理屈から言うと合理的だということです。これを「取り越し苦労だ」と笑っているほうが、却って「阿呆で、間抜け」なのです。
 旧約聖書の預言者たちの王や国民の不信仰の罪に対する糾弾や日蓮聖人の鎌倉幕府に対する北禍来の予言や、私の戦時中の非戦主義など、すべて祖国を愛するあまりの宗教的過反応、小児病的過敏さと当時の世人は言ったでしょう。しかし、いずれが本当の愛国者であったかどうか、矢内原先生がその「日蓮論」の末尾で言ったとおりです。
              *
 もう一度、精神病的強迫観念の話に戻りますと、本当は心配する方が当然という病例がたくさんあります。たとえば「紙幣不潔恐怖症」です。紙幣は日銀から発行されて、また日銀に回収されるまで、どれほどの人の手に渡るのか知りませんが、昔は特にひどい、よれよれの紙幣がありましたね。
 こうした紙幣は立派な清潔な人の手にも渡ったでしょうが、またどんな汚い人の手に渡ったかもしれない、特に異常な不潔な人の手に渡って意図的に汚物に浸された紙幣が無いとも言えない。
 こういう紙幣を恐れて、自分の手に渡ってきた紙幣をすべて消毒して自分の部屋で乾かしていた人がいたそうです。誰かが偶然それを見て偽札造りかと思って警察に通報したという笑い話もあるくらいです。
 実は、この話は笑っておれません。よくよく考えれば、紙幣不潔恐怖症の人の方が理にかなっているので、紙幣の不潔さを恐れない人の方が鈍感なのですね。紙幣不潔恐怖はもともとあって然るべき恐怖心ですよ。(本当に人々に持ってほしい過敏症は自己の罪に対する過敏症です。この罪過敏症こそルターの陥った回心の前駆症状であったのでした)。
 先だっての尼崎脱線事故でも、あの事故が起こらなかった時には、JR西日本のダイヤ過密に批判があったとしても、一笑に付されたことでしょう。内部告発だったら不満分子、不穏分子として左遷されたことでありましょう。
 ですから、昨今の日本列島地震多発の状況を見て心配をするのが当たり前です。ある人は言った、「災害は忘れた頃にやってくる」。北新潟地震から最近の熊本の地震にいたるまで、これを異常な事態だと気にしない方が不思議、安閑しすぎているというべきかもしれません。
 しかも一向に、心配しない人が多い。政府も、学者も、新聞も心配していません。一体にこういう心配を「下世話」という。こういう下世話な報道は案外、週刊誌や、一部のタウン紙や、無責任ネットや、右翼の街宣車のほうが本音を吐く傾向があります。時々品のない週刊誌も拾い(電車などで?)読みすることです。
              *
 しかし、常識人はやはり言うでしょう。それは思い過し、心配する方が、神経の使い過ごし。精神衛生上よくないよ。起こった時は起こった時、その時は不運とあきらめるさ。
 しかし、クリスチャンの対応は違うのです。最近、雑誌「ハーザー」で泉パウロ先生も触れていたが、先にも書いた聖書的見地から、今後の世界に起こるべき大地震への関心は当然あってしかるべき、ますます福音の宣教に当たるべき時代に突入しているとの認識を持つべきだと思います。
 しかし、言いたい。「過敏な不安は捨てましょう」。単にノーテンキに安閑としておれ、と言うのではない。私たちは大能の神様を信じるからであります。聖書の詩篇第四六篇を開きましょう。
  「神はわれらの避け所また力である。
  ……、たとい地は変わり、
  山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
  たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、
  その騒ぎによって、山は震え動くとも、
  われらは恐れない。」
 本当に恐るべきものは、こうした自然災害よりも人間の狂気でなかろうか。みんな、心配しないことにしているけれども、北朝鮮の核武器など、いつ日本に襲ってくるかも分からない。
 あの金日正総書記さんが、国内にクーデターが起こったりしてヒステリーを起こし、一旦核ボタンを押しでもすれば、日本の五大都市くらいはいっぺんに崩壊です。政府の機能は停止し、日本全国行政は麻痺する。もちろん、北朝鮮もアメリカの核反撃で全土火だるまである。
 今、最大に要求されるのは、私たちクリスチャンの強力な信仰である。世界を聖霊の火だるまにする大リバイバルである。国民の精神も、教育も、経済も、産業や、政治も、大変革する、そういう国を上げての革命が起こるときが来るのである。それは我々クリスチャンの責任であり、使命である。《く》

〔あとがき〕
私事ですが、妻トミは一応治療を一段落し、今回リハビリのため湯布院厚生年金病院に転院しました。設備もスタッフも揃っていて安心していますが、それ以上に創造主なる神様の力と臨在を信じ、最高の癒しを信じて退院の日を期待しています。先生がた、信徒の皆さんのご加祷を切にお願いします。釘宮義人
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# by hioka-wahaha | 2005-06-12 00:00 | 日岡だより

No.179 私は日本人に失望した 2005.6.5

私は日本人に失望した

 先日、中国の呉儀副首相が小泉首相との会議を突然断わりもなく中止して帰国した。当時、日本政府首脳部は不快感を表明していたが、中国側に言わせれば、せっかく日本を訪問して友好的会議を開きかけている最中に、小泉首相が靖国参拝継続の意向を明らかにした。我々に対する嫌がらせであるということでしょう。
 中国の言い分が分からないではないが、何よりもこの靖国問題をいくら繰り返し取り上げても、外交問題として中国のトクにはならないことを私は中国側に忠告したいのである。これは日本人民の普遍的宗教意識に関することだからである、と私は思ったのである。
 私はクリスチャンだから私自身が靖国神社に参詣することは絶対に無い。しかしこれは日本人としてはごく少数派であろう。とは言え、私は同胞の日本人の多くが靖国神社に参拝したい気持ちはよく分かっているつもりだ。
 もし小泉さんが、中国側の牽制に従って「ハイ、承知しました」と靖国参拝をとりやめたら、日本中の総スカンを食うに違いない。日本は中国と違って独裁国家ではない。日本人民の人気を気にしながら首相の座についている小泉さんだ。簡単に靖国問題で妥協はできないことを中国は冷静に認識すべきである。
 外交とは最終的には互いの国民の同意を取り付けておかなくては、いつかは逆転の結果を生むであろう。もしこの問題を中国が執拗に言いつのるのであれば、日本人民のほとんどが中国離れする。長い将来のためには、これは中国のためにならない、と私は思っている(本当は思っていた)のである。
            *
 ところでその後(数日前のことです)、某新聞の世論調査で「小泉首相靖国参拝中止を賛成する」が53%とか出ていた。昨日あたりの別の記事では30%余ともあったようだが、私にとっては30%でも吃驚仰天である。そして本日(6月4日)の新聞では、あの右派的に見える中曽根前首相まで「小泉さんは靖国参拝を中止したほうがよい」と言っているという。私は唖然とした。
 私はここで、現代の日本人をまったく誤解していたことを悟った。私は大正人間。クリスチャンらしい顔はしていても、マインドは旧日本人。現代人を理解していなかったことに気がついた。
 靖国神社は明治の初頭に明治政府が作り上げた天皇国家造形のための装置と言えようか。戦死者を一様に祀り、そこに天皇陛下も参拝なさり、そこに祀られた人々は神武天皇でも聖徳太子でも豊臣秀吉でも東郷元帥でも乃木大将でもない、一般市民の父親や兄貴や近所のオッサンたち、明治以来のいわばご先祖さんたち、戦争に倒れた国家の恩人である。こういう靖国神社だから、日露戦争以来のニッポン・バンザイで昂揚された気分と祖先崇拝の国民感情が合成されて、私は全国民いっせいに小泉靖国参拝賛成するかと思っていたのである。たとえ10名そこそこのA級戦犯が合祀されていようと、殆どの祭神たちは身近な、この百年以降の戦争で亡くなった国民先輩たちの祀りの場所ではないか。
 中国の人たちはあの靖国神社をA級戦犯たちだけの神社と思っているのではないか。たとえ日本人たち自身にうとまれている戦犯たちだったとしても、日本人は死んだ人をすべてホトケさんだと思う民衆だ。これはクリスチャンの私としては褒めるわけにはいかないが、これが平均的日本人。日本では凶悪な殺人事件の犯人であっても彼が死体となって発見されれば、警察の刑事さんたちはホトケさんと呼んで手を合わせて拝んでいる、こうした国民感情を考慮に入れて、靖国問題は慎重に扱いなさいよ。これが中国の政治家たちに私は言いたかったことです。
 ところが以上のような世論調査の結果です。私は日本人に失望したと言ってよい。もう日本人擁護論はやめようと思った。過激に言えば、こんな腰抜け日本人、クリスチャンに改宗させて叩きなおしてやりたい。いや待て待て、いくら叩き直しても日本人は骨太なクリスチャンにはなるまいなあ。「この国には失望した」とか、たしか内村先生だったか、藤井先生だったか、言ってたなあ、「先生、私も全く同感です。」とうなずいているのです。《く》


信仰の心理学(一)

 私は旧制の商業学校の卒業生。この出身学校を懐かしく思ったことなど一度も無い。当時の戦時色一色の画一教育で、しかもソロバンはじいて利息計算ばかりさせられた教育にはなじむはずもなかった。卒業と同時に戦時国民教育におさらば、一生独学者として終わったと言えば聞こえがよいが、所詮は、しろうとです。
 私は心理学者でも神学者でもない。公式の資格で言えば、伝道者ですらない。一時は「もぐり伝道者」と自称していたが、これは万代先生に「あんまりだ」と言って止められた。今は永井先生が「名誉牧師」の名称を下さった。これはたいへんな栄誉である。こうした言い方はもう今後、一切書かないつもりです。
 さて、信仰の心理学とは何か、しろうとなりに考えてみたい。まず入信の心理、回心の心理です。私の小冊子に「信仰の確かさ」という本がある。内村先生の弟子の石原兵永先生の「回心記」が一番よい参考本ですが、私の父のように、光を見たりする。ぶっ倒れたり、ペンテコステ派でいう異言を伴う事もあるが、単に心の内側だけで起こる鋭角的転換であることが普通だ。
 ともあれ確実なことは心が明確にグルリと回転する聖霊充満の経験である。私は若い伝道者の時代、この経験がなければ洗礼を承知しなかった。
 Y兄など、年末から正月にかけての5日間、私の作っていた印刷会社の工場のインクと油の匂いのこめる真中で座りづくめの特訓のなかで回心した。彼は私の家の玄関の踊り場に踊り上がって喜びの声を上げ、笑って、笑っていたものだ。
 これが本当の「悔い改め」だ、と一部の人は言う。もともと「悔い改め」という言葉はギリシャ語の「メタノイア」で、マルコ1:15のイエス様のお言葉です。直訳すると「心の転回」です。これはヘブル語の「シューブ」(立ち帰れ)のギリシャ語訳だとも言われる。「メタノイア」を「悔い改め」と訳したのは、誤訳と言ってもよい。めそめそと懺悔し悔い改めるのではない。心の底から転回する聖霊経験なのです。
 ところが、現実の伝道の現場では言葉で「悔い改める」だけで、信仰が起こることがある。次の項をお読み下さい。
             *
 前述した「心がグルリと回転する」経験、これはまさしく聖霊による内面の奇蹟です。心理学的にいうと(私のしろうと心理学だが)、潜在意識のその底にある深層意識、ユングの共通無意識といってもよい(私は更に深い神層意識などと言っていますが)、そこで「グルリと転回する」のです。だから人間の心の真の底から変えられるという感じです。(エペソ4:24の「心の深みまで新たにされ」は正確に訳すと「心の霊において新しくされ」です。深層意識の場を言い表わしているかと思います。このエペソの手紙の場合は、既に義認信仰を得ている人の、その後の信仰の成長、一段と高い信仰への形成は如何にして行われるか、それを語っているのだと私は思っています。)
 初歩的信仰から次第に霊的に成長する信仰の経過は、前項で書いた瞬間的鋭角的奇蹟的入信と違って、徐々に信仰が固まって行くタイプです。先に書いたとおり、こうした漸進的信仰を私はかつて信用しませんでした。ですから伝道用トラクトで言葉巧みに求道者を信仰に誘い込む方法を嫌いました。しかし、実績的に、その方法で信者さんがどんどん出来てゆくのを見て、私は驚いたのです。そこで、それこそ私は悔い改めて、その伝道法を取り入れました。その優秀な小道具がトラクトの「四つの法則」ですし、また西田国雄先生の「太陽と闇」です。
 ここからが、大事な文章です。よく読んで下さい。テキストはローマ10:9、10です。
 まず9節、「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」という言葉を学びましょう。
 まず「自分の口」で、信仰の言葉をはっきりと「告白する」ことが肝要です。この「告白する」という動詞は原語では、一回限りというか、きっぱりと、断固として、口を開いて言うという感じの言葉の文法で書かれています。その口ではっきり言った口の言葉のお蔭で、信仰が「心」の中で決然として(一回限りの生起文法)起こると、言うのです。口で言う(告白する)と、それが信仰に変わるという原則があるというのです。
 つまり信仰の言葉を口で決然と言い表しなさい、すると、心の中に信仰もピッタシ生まれるよと言っているのです。事実、前述の「四つの法則」や「太陽と闇」の伝道トラクトで初めての方をお導きするとき、最後の信仰を決心にする場で、しっかりと口で「はい、イエス様を信じます」と言ってもらう、そこがコツなのですね。
 次の10節は口と心の順が反対になります。「人は心に信じて義とされ、口に告白して救われる」とあります。これは初めに心で信じた人のことです。この人は「イエス様を信じます、イエス様を信じます」と何度も心の中で思うけれども、どうしても信仰が湧かない。こういう人も、諦めないで何度も、繰り返し「イエス様を信じる、イエス様を信じる」と繰り返し心の中で思い、あるいは、もっとくわしく「このキリスト教の信仰こそ正しい。この信仰を得たい」と期待して、少々の躊躇逡巡が起こっても、口で何度も「イエス様を信じます、神様はイエス様を死人の中からよみがえさせられた方です。この方のおかげで私の罪は赦されます」と繰り返し言うのです。そうすると、次第に心に信仰がはっきりしてくるのです。
 この個所での「信じる」という言葉は文法的に何度も繰り返す言葉です。同じく「告白する」という言葉も何度も何度も口で言い表わすという文法です。つまり、心の内で信仰をなんども繰り返しているうち、イエス様によって「義とされた」ということがしっかり悟れる、そして「義とされたという信仰」を更に口での告白を何度も繰り返していると、本当に人生の生活ぶりも完全に救われ、永遠の救いの信仰もしっかりしてきて、遂に救いが完成するのです。
 パウロ先生の「救い」という言葉には、(1)キリストの血潮によって神の前に義人と認められるという救いと、(2)天的な完全な救い、霊の完全な体を着せられて、天国人として栄光の体に化せられることを指す場合とあるのです(ローマ8:23参照)。
 心理的に言うと、(1)最初心の底から聖霊により回心させられる場合と、(2)初めは口で告白し続け、信仰が心のうちに発酵して、全き信仰に成長する場合と2つあるのです。(信仰を成長させる心理的過程を次回に書きたいと思います)。《く》

〔あとがき〕
先週のこの欄の終わりの個所で妻の病気の事を書きました。「釘宮トミ、少々脳梗塞を生じたらしく入院中です。障碍は軽微……」などと書きましたが、その後、梗塞の影響が広がったらしいので少々心配な兆候でした。今やっと落ちつきかけています。話しかけるとニッコリしたり、そばで賛美を歌うと手で拍子をとったりするようになりました。医師の意見では、「ぼつぼつリハビリの段階です。専門のリハビリ病院に転院しましょう」とのことで、今週10日、湯布院厚生年金病院に転院することになりました。言語意識はまだ微弱ですし、体も右半身不随ですが、全能の主を信じています。先生方、諸兄姉のご加祷をお願い致します。《く》
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# by hioka-wahaha | 2005-06-05 23:00 | 日岡だより

No.178 国家の理想 2005.5.29

国家の理想

 「国家の理想」というタイトルは、もともと矢内原忠雄先生が昭和12年中央公論9月号に載せた論文である。この年の7月7日に蘆溝橋事件で支那事変が始まっていた。すでに先生は、前年1月に「真理と戦争」、その年の2月に「支那問題の所在」を同じ中央公論に発表している。
 このような時代、右翼の刃にかかる危険は充分の内容であった、先生も勇敢だが、中央公論社も勇敢であった。イノチがけである。この年の12月に矢内原先生は遂に東京大学を追われる。
          *
 さて、国家の理想とは、それは国民教育を普及させ、産業を繁栄させ、福祉を充実し、道徳国家としても頼もしい国となり、善良な宗教が栄え、軍備も適度に備わり、どの国からも軽んじられない、誇り高き国家になること。こう書けば百点であろうか。
 もちろん、日本が「平和憲法」を遵守しながら、こうした理想国家像を国民に語りかけることは、困難かもしれないが、言葉巧みな日本の政治家たちには出来ないことではなかろう、これは皮肉です。
 しかし、家庭で毎日喧嘩や争いの絶えないような家でも、玄関に「和」という額をかかげて、それなりの理想をかかげるのは、偽善だろうが、微笑ましくもある。皮肉そうに笑ってはいけない。
          *
 最後に私の「理想国家像」を。特に私たちの日本のために。私は日本を世界のカントリーにしたい。産業は水車小屋程度、教育は寺子屋、つまり教会学校。世界中の人が日本列島を故郷のごとく慕い、日本の家庭に宿泊して信仰を語り賛美を歌い、田畑を耕して帰ってゆく、そんな国になってほしい。《く》

 
しろうと経済論

 私はしろうとなので、ずいぶんと勇気がいるのだが、前頁の小論にしても、以下の文章も同様です。笑わないで読んでください。
 社会の構造や、経済制度を人為的に変えよう、と積極的に考えたのはマルクスが初めであったろうか、その前にもいたかもしれないが、まずしろうとの見るところです。
 マルクス主義は理論はとにかく、実地に試みてみて失敗であったことは現代史において明らかです。
 結局、マルクスの共産主義理論が倒れて、古びた資本主義が首をもたげざるを得ない。
 しかし、今、目の前に在る資本主義とは投げ出された動態であって、理想をかかげ計画を持ち達成に熱意を抱く人格ではない。それにくらぶればマルクス共産主義は一個の大きな人格であった。その当初はヨーロッパにうごめく怪物と称されたのである。
          *
 社会体制や、経済制度は自然に出来上がってゆくものである。それを人間が計画して、人間の一存で、それを作り上げて行く、あるいは作り変えて行こうとしたのは、はなはだ傲慢な向こう見ずな姿勢であったわい。それが現代の政治学者や経済学者の本音ではないでしょうか。
 アダム・スミスが言った「見えざる神の御手によって動く」経済の世界。金融の世界。賃金や価格の決定のメカニズム、インフレやデフレを生じさせる形態理論、バブルやバブルの崩壊、こうしたことは大国の政府閣僚も、蛮族のテロリズムの親玉も解決も手出しもできない。ただ時流に乗るだけです。
 この時流をうまく乗り切ったものが成功者、うまく渡れぬ不器用者が失敗者。
 「万事、金だよ。カネさえあれば何でも出来る」と言い切ったのはホリエモン氏であったが、まことに昔から世間でささやかれてきた俗流経済学の金言である。
 ところで前言をひっくり返す法則を提言したい。それは「カネのあるところに時流が集まる」ということである。最近、大手橋梁業者の談合が問題になっているが、談合のある所、大手業者がいる。小物の間では談合は起こらない。
 発注者が気づいても文句の言えないような大物がいるところ、談合が起こる。こうした状況のもとに日本の公共事業は順調に運んでいるといえば、現況肯定の度が過ぎると批判を浴びようが、これは儀悪的に言ってみただけです。
 実はこれこそ、驚くべし、イエス様の現実認識である。マタイ25:14~29のタラントの教えの個所を学んでみたい。
 ここにあるのは、多く資本を持って居るものは多く儲け、小さい資本の者は小さく儲ける。そして、持っている人は与えられていよいよ豊かになるが、持っていない者は持っているものまで取り上げられるという法則です。イエス様が資本主義の厳しい世界をズバリ見抜いています。イエス様は決して甘い評論家ではありません。
          *
 イエス様は「この世のことにかけては、光の子よりこの世の子らが賢い」(ルカ16:8参照)と断言します。しかし、「光の子らよ、おっとりしていて、この世の子らの知恵に負けてはなりませんぞ、この世の富に忠実でありなさい」、ともおっしゃるのであろうと思います。
 このルカ16:9以降は解釈の難しいところかもしれません。私はかつて、ここの個所を雑誌「ミーニング」の対話体小文で扱ったことがありますが、知恵をしぼりたいところです。
 ともあれ、マタイ25:20、21の「5タラント」は今の金で約3億円の大金です。その3億円をイエス様は「わずかなもの」と値踏みしています。そして、この僅かな世の富に忠実であれ、とも言われます。その金の出どころは「不正」であるとも見抜いておられる、このイエス様の経済観の微妙なところは、私にも難解ですが、クリスチャン経済学者の活躍してほしいところであります。
           *
 主は言われます。「あなたの宝を天にたくわえなさい、虫が食い、さびがつき、また盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない」(マタイ6:19、20参照)」。
 また言われます。「神と富とに兼ね仕えることは出来ない」(マタイ6:24)。
 そこで、申し上げます。富に、つまりカネに仕えるのではない。言い替えれば、カネに仕えさせるのです。先に、カネのあるところに時流が集まってくると書きましたが、もう一度ひっくり返して新しい経済の法則を談じてみます。カネに仕えさせる人にカネが集まってくる。つまり時流を呼び起こす人物がいるものです。
 官庁の調達場所で、係官が他に低価格の見積書が手元にあるのに、某氏にわざわざ見積書を書き直させて、落札させた現場を見たことがあります。その業者はけっして談合ではない、ワイロをもって係官を籠絡したわけでもない、その係官は仕事の内容と、業者の作業能力と、人物の公正さを見抜いて、そのきわどい配慮をしているに過ぎません。こうしたことは、案外、実際の現場で起こっていることです。
 ともあれ、このように神様の御手の働きにより、不思議にこの世の競争社会でも勝利する道はあるものです。《く》

〔あとがき〕
先週主日、北條府中家の教会の礼拝で用いられて、み言葉にお仕え出来たことは感謝でした。神様の恵みと、その恵みを受け取る熱意と力ある祈りの秘訣を少しでもお分かちしたかと、感謝しています。▼5月26日の辻本友子姉のサロン・コンサートは凄かったです。「曲目ではショパンが凄い。友子姉の演奏が凄い。加えて同姉のメッセージが一段と凄い。凄い、凄いの三位一体」と私は絶賛しましたが。友子姉のメッセージは「最大の奇蹟はあなたが今、ここに存在することです」と。名言です。私の説教に頂きたい、と書き送りましたよ。▼永井先生のおすすめに従い、「ヨブ記説教集」を作りました。相変わらず小冊子ですが、ご希望のかたはお申込みください。▼妻の釘宮トミ、少々脳梗塞を生じたらしく入院中です。障碍は軽微といえども、祈りこそ、癒しの力です。ご加祷下さい。《く》
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# by hioka-wahaha | 2005-05-29 22:00 | 日岡だより