人気ブログランキング | 話題のタグを見る

No.244 真の平和は神より来る 2006.9.3

真の平和は神より来る

 日本の憲法は偽装憲法であると、本紙前号に書いたばかりであるが、次期自民党総裁つまり次期首相の呼び声高い安倍晋三氏が、その正式の候補出馬表明で、それを傍証してくれた。
 つまり、その表明の中で「新憲法制定に全力、自衛軍明記など想定」(大分合同新聞見出し)などと言っているそうだ。その意図は、「21世紀の日本にふさわしい新憲法を作りたい」と言うことです。今までのあやふやな偽装憲法を止めて、すっきりした軍備志向憲法を作ろうではないかと言うことです。
 この安倍さんの考えを全面的に本気で賛成という人はさして多くはあるまいが、「国家のことだもの、理想論では、実際問題としては国を守れまい。仕方ないさ。しかし、軍需景気が又やって来るかな」などと、思う人は多いでしょう。
 平和論を人の心の問題として語る間は、だれも一応納得します。それでさえも厳密論で責めたてられると、不満顔で異議を唱える人は多いのです。例えば、「右の頬を打たれたなら、左の頬を向けてやれ」、などというイエス様のお言葉など、それは理想論だよ、実際出来たとしても、心の中では腹を立てているよ、それでは偽善じゃないか」という反論です。
 人間の道徳観は、その作る集団が大きくなれば大きくなるほど、水準が低くなって行きます。全体の安全と利益を守るためには、全体で手を組んで一致して外敵と戦わねばなりません。それは人類の有史以前よりの彼らの生存法則だっただろうと思います。それを乗り越えた人は、かつて歴史上いないのではないでしょうか。
 イエス様でさえも、厳密な平和主義を個人の戒めとしてはお語りになっていますが、国家論としてはどうでしょうか。イエス様はお語りになっていません。私がかつて絶対的非戦論の信念が崩壊したのはこの故でした。
 それは、1943年晩秋でした。大分の刑務所内の未決監にいました。私はふと考えました。一国が外敵から侵攻されようとしている。大軍である。この国の独立も国民の安全も危ない。そのような時、絶対非戦論者がその理想論を語るのは許されもしよう。それは善であると言い切ってもよい。しかし、この国の首長たる天皇や総理大臣はどうだろう。やはり、止むを得ず、抗戦を布告するのは当然でなかろうか。これは必要悪と言えまいか。
 ノアの洪水が終わって、神様はノア(人類)に他の生物を食物とすることを許された。それはアダム以降、人類は穀物や果物を食べることは許されていた。しかし動物や魚類等、生物たちはその許可の範囲外だった。しかし、ノアの洪水の以後、植物が減ったのだろうか、動物たちをたべることを許されたのである。これこそ神様の認めた必要悪であったのではないか。同様に戦争も国家、民族集団を預かるものにとっては許されるのではないか。
 私はそう考えた瞬間、今でもありありと覚えているが、私の絶対非戦論の信念は一瞬に消えたのである、私は呆然とした。私のあれほど強固だった信念が消えた。人間の信念など、なんとはかないものか、私は腰を抜かした。私はそれ以後、現在に至るまで、「信念」というものを信じていない。
 もっとも積極思考法などで、自己宣言等により一応の信念を作りあげてゆく、あの信念を私は矢張り認める。この世でいわゆる成功するための成功哲学である。クリスチャンと言えども活用するにしくはない。しかし、悪魔の強大な誘惑、攻撃の前には、しばしば人間の信念らしきものは壊れる。また叙上の私のような場合、極度の矛盾点で人間の信念では勝てないのだ。
 この要所で勝てるのは、神よりくる信仰だけである。私は以上の信念崩壊の時より、約1年して1944年の11月23日、聖霊による回心の結果、神様から信仰を頂いた。この時より、私は信念の力の薄弱さに悩むことはなくなった。信念の重要さに信頼することは前にもまさっている。信仰生活の上にも応用できるのである。
             *
 私は未決監に居ました。ということは、警察での取調べが終わって、検事局に送られ、検事局から即刻、未決監に送られ、そこで、裁判を待っていた時ということです。
 あの絶対非戦主義というものは思想的に当時の国家意識に真っ向から対峙する危険思想である。こういう思想を正面からぶちまけたら、いわゆる非国民意識、国家的犯罪である。とにかく法律の範囲内で最高の刑をつけるのは当然であるし、私はそれを覚悟した。一人残る母はどうなるだろう。そのことだけは気にかかったが。
 ところで困ったことが起こった。上記の信念崩壊のことだ。この結果によって多少とも国家意識を受容して必要悪論を口にすれば、判決も少し柔らぐことであろう。そう考えると、私がこの時になって戦争必要悪論を唱えることは卑怯な醜い態度に見えて仕方がない。これは私のサムライ流の美学に反する。……だからと言って、自分の本心に背いて、私の旧論を吐くことは、良心に背くことに思える。私はこれまで他者の思惑に左右されず、私の非戦論を口外してきた。しかるに、些かこの裁判を有利にするために、この場に及んで長年の絶対非戦論を妙な奇弁で修正して舌先三寸で言い逃れする。そんなはずかしいことはできないと、こういう2つの論点で私は悩むことになる。こうしたあげく、公判の日がきた。それは私の誕生日、1944年1月14日であった。
              *
 公判には実は弁護士として加藤虎之丞さんがついてくれた。当初、母が面会に来て、「加藤さんが弁護してくれると言っている」という。私は「弁護士なんかいらないよ」と言った。私のような国事犯で、確信犯に弁護士なんかつけようがあるものか、と思っていたのである。ところが面会室でそばにいた看守さんが「折角じゃないか、弁護士をつけてもらったら」という。仕方なく加藤さんの弁護を承知したのである。加藤虎之丞さんは伯父釘宮徳太郎の聖書研究会の常連で、伯父のよい相談相手、補助者であった。その関係で加藤さんが自ら弁護を買って来てくれたのである。
 その関係で、公判の席上で弁護士として立って、同じクリスチャンとして「聖書は単純な非戦主義に立つものではない」と、旧約聖書や日本の神武天皇東征記などを引用して聖戦論を交えて戦争必要悪論を述べまくり、そして「釘宮被告もこの意見賛成することと思う」などというと、その時の私だから、つい「ハイ、そうです」と口には言わないが、その表情を出してしまう。
 1週間たって、1月21日、その効果は裁判長の判決に歴然と出ていたと私は思った。判決は「懲役1年」。その軽い刑に驚きました。検事局はさぞ不満だろう思いました。
 「釘宮義人。お前は日本の国体変革や天皇制廃止を訴えた訳ではないんだね。ただ、聖書の信仰で戦争は反対だ、戦争に行く気持ちはないと言うんだね。これは日本国民として絶対にいけない。懲役1年に処す」。これが判決でした。もちろん、正確な言葉は覚えていませんが、私が国体変革など求めていないことと、聖書の信仰だけで戦争反対したのだね、という趣旨の裁判長の言葉には私は感動しました。そして直ちに「服罪します」と答えました。「うん」と裁判長はうなずいたことです。
 こうして公判は終わりました。しかし、懲役1年の刑はなかなか執行は始まりませんでした。私は公判の席ですぐ「服罪します」と言ったのは、すぐにでも執行されたかったからです。1日も早く執行を早め、1日も早く刑務所を出たい、そうした欲念からの一種のいさぎよさですが、検事局がいっかな承知しません。検事局は控訴猶予期間1週間を一杯、そのまま放っておいて私をいらいらさせました。だって、検事控訴されたら刑期は確実に少しでも延びる可能性が強いですから。しかし、ついに検事控訴はありませんでした。そして1月21日、刑の執行開始。と言っても、同じ監房で、今度は懲役ですから、軽い労働が始まります。
 1、2週間して他の囚人2、3人と一緒に手錠をはめられ、鎖につながれて大分駅から汽車で博多駅に向かいました。博多駅では自動車が迎えに来て福岡刑務所に向かいます。この福岡刑務所でその後、1945年1月21日まで過ごすことになります。
 初めの3月は一般工場に降ります。降りますというのは、夜間寝させてもらう雑居房という部屋から、労役の場所、決められた工場にゆくことを指します。雑居房には8人か10人ほどの囚人たちが一緒に居ます。掏摸の人や、ごく普通の窃盗犯や、当時特有の経済違反(統制経済でヤミをして捕まった人)や、暴力行為の人、いろいろ面白い体験談を聞きます。小説でも書くなら、ネタは一杯です。ひどい男がいた、大分経専の卒業生でしたが、この刑務所の中で同級生だった看守とグルになって詐欺をやります。こういう男は敬遠されます。北九州の造船所に回されて図書係をした。「楽だったあ」と出所後、会った時、言っていました。
 3か月して、「お前は一般工場は誤りだった。お前は国事犯じゃないか、独居房に行け」と、北3舎という棟に回されて、独居になるのです。ここに私は9か月過ごします。そこでは、夕刻になると、窓ぎわの桑の木に雀たちがチュンチュン鳴きながら帰って来ます。私は彼らのために窓の枠のところに御飯粒を少しおいて食べさせました。それが唯一の楽しみだったと言えます。
              *
 この部屋で私は回心します。相手が全然いない独房ですから何も罪も犯すはずは無いのですが、そこで私は徹底的な罪意識で苦しむのです。この汚い自我が心の罪を犯すのです。もう自我に死ぬ外はないと思いました。「この自我を殺して下さい」と、私はイエス様に向かって悲痛な叫びをあげます。
 11月23日(秋季皇霊祭、現在の勤労感謝の日)の夕刻、私は聖書の言葉を聞きました。「一人すべての人に代わりて死にたれば、すべての人すでに死にたるなり」(第二コリント5:14文語訳)、このお言葉が私の魂を打ち抜きました。魂の奥底、霊のど真中に打ち込んで来た感じです。そして「私は死んだ。私の古い人は死んだ。私の自我は死んだ。私は新しい人になった。私はイエス・キリストの人になった」と心に叫んだことです。
 私に一瞬に歌が生まれました、「愁い多き獄にしあれど主によりて生かさるる身の幸に我が酔う」、「イェス君の熱き血潮の今もなお、溢るる思い、わが身ぞすれ」、この二首です。その後、私は歌を一首か二首しか作っていない。私は文芸好みの青年ではあったが、短歌にはなじまなかった。
 当時、刑務所は囚人に月2冊の本を貸してくれていた。しかし、毎月聖書を希望しても戒護課の多分、課長命であろう、私には聖書を貸してくれなかった。それまで、よく「この聖書一巻あれば、後は何もいらぬ」と威張っていたが、こうして聖書の与えられない時があることを私は初めて思い知った。しかし、1回だけ、顔を知った同じ囚人仲間の図書係がニッと目配せしながら、聖書を持ってきてくれた。その聖書を、私は食い入るように読んだ。その聖書の中の一句が私の脳裏に残ったのか。それを聖霊様が使ってくださった。あの聖句は、まさに聖霊様の声でした。そのお声が私を救ったのです。私はこうして真の平和を得ました。しかり、平和は神より来る! 《く》

〔あとがき〕
最初、安倍晋三さんの候補出馬表明から、日本の憲法問題にテーマをすすめて、書き込んでゆくうちに、次第に文章が流れて、私の回心記事になってしまった。避けられない用事も起こって紙面ぎりぎりで、時間不足、土曜日の夜半ですから。やむなく、この辺で原稿を切り上げました。ご祝福を祈りつつ。《く》
# by hioka-wahaha | 2006-09-05 12:14 | 日岡だより

No.243 日本国憲法は偽装憲法 2006.8.27

日本国憲法は偽装憲法

 本年6月18日の本紙で星野富弘さんのことについて、ちょっと辛口批評を書いた。つづいて先週、8月20日号の本紙で、あろうことか内村鑑三先生のことについて、日ごろ思っている批判気味な記事を書いた。
 だからと言って、内村先生に対する敬愛の念が薄れている訳でもない。これは前者の星野富弘さんについても同様である。言い訳じみるが、敬愛するからこその辛口の批評だとも言える。
 さて、今回はいささか違った角度で、一般の常識のすき間を突く批判を書きたい。それは現行の日本国憲法である。よく「平和憲法を守ろう」、あるいは「九条を守る会」などと言うのがある。お調子に乗ってそういう会や、そういう宣伝文句に私も名前を並べているが、本当は不本意なのである。
 なぜか人々は、現行の憲法を「平和憲法」と呼ぶ。私は「いいえ、偽装憲法なのだ」と言いたいのである、これは悪名高き「偽装建築」よりも、更に良くない。人を惑わすにも程があると思っている。
           *
 問題はその前文である。その中ごろにこういう一文がある。「日本国民は、恒久の平和を念願し、(中略)、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。云々」。この前文に基づき、有名な軍備絶対放棄の憲法九条が掲げられる訳である。
 私たちは、いざ某国が我が国に戦争しかけようとする時、どこの国の「国民の公正と信義に信頼」すれば、平和ですませられるか。その辺の見通しは非常に曖昧で、幼児的信頼を架空の解決策に預けているとしか思えない。
 ところで、現時点の外交模様を照らし見れば、この「諸国民」とは明らかにアメリカやアメリカ同盟国のことを指していることは明らかである。つまりアメリカの傘下にある平和主義であって、だからアメリカのイラク侵攻には、日本も追随する。これでは、日本の平和憲法なるものは、天上に舞いあがる凧みたいなもので、単なる紙きれに過ぎない。
 聖書を開くと、旧約聖書では嫌になるほどイスラエルの対外戦争が出て来る。それをユダヤ人たちは「聖戦」と称する。ところで、新約聖書では戦争を肯定し賛美する言葉は、全然出て来ない。何故か? ローマ帝国内において、クリスチャンたちは帝国の権威に対峙し、帝国の権威に抵抗した。もちろん、国家の軍事力に参加することも協力することもあり得ない。とは言え、国家の法的秩序には従いなさい、と使徒たちは教えている、この逆関係が凄い。
           *
 この逆関係の真理性は近代に至り、ガンジーによって見事に実践的に証明された。彼は大英帝国のインド政治が真理に背いていると確信した時、堂々とその法律に背いた。そして、その国法の法廷で審判を受け、その判決に従い、堂々と刑を受けた。これはソクラテスが死盃を避けなかったと同じように、正に凛々しい態度だった。全世界、これに感銘した。
 たとえば、当時のインドには白人だけが渡れる橋があった、そこに立札があったという。「犬とインド人はこの橋を渡るべからず」。そこをガンジーの教えを受けたインド人たちは静々と、その橋を渡った。渡り終えると、待ち構えていた警官たちの前で、彼らはみなインド風に敬虔に合掌して逮捕される。つまり堂々と罪を犯し、刑罰は法律に従って文句一つ言わず従うのである。
 このインド人たちはただちに刑務所に入れられたが、間もなく刑務所は満員になり、小学校の校舎を臨時の刑務所に代えたという。この報道はまたたく間に全世界に流布されて、さすがの大英帝国もこの悪法を撤廃せざるを得なかった。徒手空拳のガンジーが大英帝国に勝ったのである。国家よりも、勇気ある真理に従う者のほうが強いのである。
 現代の非戦主義者も斯くありたいと思う。兵役召集を拒否しようとする弟子に「止めたまえ、家族のことを考えてみよ」では困るのである。《く》


戦時の日本における一青年の非戦論

 ここで言う一青年とは私のことだが、若かった私のたどたどしい文章を以下に載せます。私はちょうど20歳、原稿用紙1、2枚に書いた幼稚なもの、辛抱してお読み下さい。《く》

  一、世界の歴史において
 
 真実の意味に於いては未だかつて人類は平和を持ち合わせたことは一度も無かった。個人的には(そして瞬時的には)それを持ち合わせた人がないではなかったとしても、おしなべて人間の世界を振り返ってみるとき、そこには一片の平和も見られないのである。世界歴史をひもとく時、そこに見られるものは争いの記録である。歴史とはつまり戦記に外ならないかに見える。近世に於いて、世界に戦争のなかった年は僅か数年であるという。
 しかも、ここでいう争いとは戦争のみに限るのではない。実は戦争の無かった年といえども、それを平和の年と呼ぶにふさわしくはなかった。そうした年にも、我々は戦争の原因の幾つかを数え得ることができるだろうし、事実はなはだしい戦争準備の策動が暗流していたに相違ないのだ。それがつまり、「平和」(?)なのであった。

  二、人倫あっての国家

 人倫が国家よりも大なるものであるか、小なるものであるか。
まずこの点を明らかにしなくてはならない。私は人倫あっての国家であって、国家あっての人倫ではないと信じる。
 国家はまず正義によって立つべきものである。人の集団は財力や軍備によって立つのではない。もし亦、後者の何かが欠けたとして、その故に国家が亡んだとしても、最後までその正義を失わなかったのならば、決してその国にとってその滅びは恥ではない。それを恥と思う人は、あたかも楠木正成の敗戦を恥と考える人たちである(註・まさに戦争中の一青年の文章らしい)。
 「先立つものは金」というような考え方は此の国の人たちの共有する卑点(註・当時の私の造語です)だが、それが矢張り国家自体にもある。何でもよい、南方にある一切の資源を獲得して、世界に権威を振るえるようになれば、それで日本の黄金時代が来るのだと思っている、帝国主義的思想も甚だしいと言わねばならぬ。
 豊臣秀吉の朝鮮出兵のような末路を引き起こすことは決してないと誰が言えよう。いずれにしても、この国はまさに好戦国である。
 私が非戦論を称えるのは別に深い子細があるわけではない。ただ、善を善とし、悪を悪と呼びたい一念からである。
(註・この手記は昭和17年8月20日、私が徴兵検査を受ける日の朝に書いている。当然持って行くべき幹部候補生志願書を私は故意に持って行かなかった。監督将校の叱責を受け、憲兵隊に送り込まれるのも覚悟していた日である。しかし、検査の結果、「筋肉脆弱」という情けない理由で、甲種にもならず第一乙種にさえ不合格、呆然として家に帰った日である)。


どうして、こんなことが

 どうして、こんなことが起こったのか。こうして表立てて書くのは面映ゆいのですが、先週の8月21日のことです。
 その日の11時ごろ、急に心の底から、ある思いがカーッと突き上げてきたのです。「海に行きたーい。海で泳ぎたーい」という強烈な思いです。
 こういう「強烈な思い」は、私の84年間の生涯で、一度も経験したことがありません。突然に湧き起こる龍巻のような思いです。いくら払いのけようとしても、私の心から払いのけることが出来ませんでした。
 私は心に湧きあがるその思いにせきたてられるようにして、玄関に立って戸を開けながら、娘のせつこに「海に行くよ」と声をかけると、「何ごとなの」。「うん、海に行って、泳ぎたいんだよ」と答える。せつこは「待って、待って」と私を玄関に立たせて、「私も行くから」と言います。
 「なぜだい」と私は思いましたが、「彼女も海に行ってみたいんだな」と考えて同意しました。そして彼女の車で大分市郊外の田の浦海岸に行ったのです。
              *
 天候は快晴で、私はもう40年ぶりでしょうか、海の水にはいって、ほんのちょっとの間でしたがジャブジャブと泳ぎました。爽快でした。ともかく、細腕で平泳ぎらしきものが泳げたのが不思議でした。その私の様子をせつこが携帯で写真を取って、堺にいる長男のえりやにメールで送ったのです。えりやから、すぐ返事です。「びっくりしたよ、父ちゃん、大丈夫かい」。
 その時、私は初めて、せつこやえりや君の私に対する心配が分かりました。「心配かけたな、申し訳なかった」と思いました。
 私は自分が84歳の老人で、こんな行動は「年寄りの冷水、心臓麻痺でも起こしはしないか」と、彼らがヒヤヒヤしているのだと、やっと悟りました。
          *
 さて、書きたいことは、こうした「海で泳いだよ」という自慢話ではなくて、最初に書いた「急に心の底からカーッと突き上げてくる思いが起こった」という、そのことです。こんなことは、私の人生に初めての強烈な「意志体験」でした。
 聖霊による意志の急変、深刻な転換は、よく聞くことです。私にも体験があります。しかし、今回のような聖霊体験とは違う、私自身の意志による強烈な発奮は初めての経験でした。そして、これは人間の自我意識の自覚・強化のため、非常に大切な事なんだと思いました。これまで、一度もこういう経験がなかったという事は、私のこれまでの未熟さをさしていると思いました。
 確固たる意志、目的、継続力。こうした人間力は、まずこの発奮の強さから始まるのだと気がつきました。こういう精神の形成に加えて、聖霊様による意識転換(コンバーション)の経験を持つならば、クリスチャンとして百人力だな、と思ったことです。《く》

〔あとがき〕
先々週17日以来、20日まで台風10号はグズグズ九州に滞留、ちょうど同じ時期に帰郷していた長男夫妻は、連日雨中決行で由布院あたりを巡っていた。気の毒だったが、どうしようもない。しかし2人はこれを苦にもせず、大分の山野を楽しんだようで、息子夫婦ながら「偉い奴じゃ」と思ったことです。《く》
# by hioka-wahaha | 2006-08-29 22:58 | 日岡だより

No.242 非戦論者と非戦主義者 2006.8.20

非戦論者と非戦主義者

 某君から「最近、『キリスト者の戦争論』を読みました。なかなか参考になり、信仰のあり方を考えさせられました。内村鑑三には預言者的面がありますね。日本のキリスト者はもっと内村鑑三を研究されるべきだと思いました」と来信があった。
 私はまだ、この本を読んでいないので、なんとも言えない。しかし、私の非戦論は全く内村先生の影響から来ているのだから、この某君のいうことは心情的によく分かる。
 しかし、私は内村先生にはたった一つ不満な点があった。例の花巻事件です。内村先生に反旗をひるがえすようで心苦しいのだが、内村先生は非戦論者ではあっても、非戦主義者ではなかった、と言いたいのである。
           *
 内村先生の花巻事件とは、こういうことです。当時、日露戦争の時代。岩手県の花巻にすむ斎藤宗次郎という青年、内村先生の心酔者だった。この人に兵役の召集礼状が来た。斎藤青年、日ごろの内村先生の非戦論にしたがって、兵役を拒否することを決心、その旨を内村先生に知らせた。
 内村先生驚いた。即刻、花巻に急行、斎藤青年の短慮を戒めた。「君、信念とその応用は違う。非戦論は正しいが、ただちに召集拒否はいけない」というようなことをおっしゃったらしい。
 その時の先生の正確な言葉は私にはわからないのだが、要するに「聖書の研究」の読者は5千人はいたと言われ、多くの尊敬者を集めていた内村先生は、斎藤青年の短慮(!)の結果おこる、先生の無教会集団にたいする政府筋や世間の反応を恐れたのではないか。これは私の憶測だが。この内村先生の反応に、私は深く悩んだのである、非戦主義者として。《く》

 
大分市の戦後福祉事業の神話時代

 この8月16日、午後、一人の男性が来て、教会の駐車場の草をむしらせてくれと言う。そう言えば、半年ほど前にもこの人は来たことがある。当教会の駐車場はほとんど只に等しい謝礼で借りている土地だが、約2百坪はあるだろうか。そこに7月の梅雨と夏の日照りの中で相当に草は成長している。その草をむしらせてくださいという。
 前回も好感を持てる平和な感じの人だったので、応対に出た二女のせつこは、すぐに快諾して、道具の鎌も出して貸したらしい。
 もう2時間も作業しているし、ほぼ草刈りも終わっている感じなので、私が出て行って、聞いてみた。私は実は若い時、京都の一燈園に行って、こうして各家を訪ねて労働奉仕めいたことをして、無銭旅行をした経験もあるので、同じような経験者かと思って聞いてみたのである。
 ところが、この人はそういう修養団体めいたものには何の縁もなかった。ただ自分一人の考えで、こうして無銭旅行をやっているのだという。私は感心した。お名前を聞けば井上という人であった。こういうことを独創的にやれる人を見て凄いと思った。
              *
 私もかつて似たことはしたが、それは一燈園という有名な西田天香師の指導のもとに、真似してやっただけことにすぎない。
 さて、イエス様が弟子たちを地方伝道に出すときに、命じたことも、これと似た旅の方法であったに相違ない。事実、イエス様に最も忠実に従おうとした聖フランシスの行乞生活はこれであった。聖フランシスは言った。各家を回って各戸ごとに食を頂く。これは正に「キリストの遺産」であると。
  (ちなみに聖フランシスの伝記は私の読んだ限りでは宮崎安
  右衛門という人が書いた本が一番よい。私はこれを刑務所の
  中で読んで泣いたものである。その後、古本で買った。折頁
  の本で、まだペーパーナイフを入れてなかったので、どうい
  う人が持っていたのかと不思議に思ったことである。)
 私は終戦直後、大分駅周辺で戦災孤児を集めて一緒に生活した。熊本から流れてきた母親と少年の親子がいたが、その母親に簡単な食事を作ってもらった。時おり、その母親がいう。「先生、米が無くなりました」。放っておくと、子どもたちは駅に行って、待合室にいる旅行客たちに「オジサン、ご飯をくれ」と貰ってまわる。当時のこうした戦災孤児の姿を覚えている人は、まだ幾らか世間にいることだろう。
 そこで私は思う。「子どもに乞食の真似を二度とさせたくない。子どもに乞食をさせるよりは、私が乞食しよう」。私はリュックサックを背して農家を回って「お米をください」と乞うたものである。こういう時、私は意地っ張りである。「戦災孤児を養っております」などと格好のいいことを言いたくないのである。さも、行き詰まった乞食の体をして家を回るのである。当時、23、4歳だったと思うが、「まあ、あんたのような若い者が、乞食なんかして」と呆れて私を見る人もいたが、しかし、物の豊富な現代とは違う。こうした若者がいても可笑しい時代ではなかったのである。
              *
 昭和21年の秋、いよいよ冬が近づいた時、さすがに私は子どもたちを、夜、どこに寝せようかと苦慮した。私はついに大分市役所を訪ねた。当時の大分市長は木下郁氏であった。
 当時の市役所の建築の構造がどうなっていたか記憶はないが、どうも私は秘書課を通して木下市長に会った覚えがない。実はその後にも大分県知事に直訴したことがあって、その時の県知事は細田徳寿氏だったが、県知事の部屋の正面の扉をあけて、いきなり「知事さん」と声をかけてはいった記憶がある。
 同じようなやり方で木下市長にも会ったのではなかろうか。その辺はよく覚えていないが、ともかく私にはこういう役所関係にはいってゆく常識は全然なかったと言える。木下市長に言ったことはこうである。「私は今、戦災孤児たちと共同生活をしています。食べることはなんとかしています。この点で助けてくださいとか申しませんが、冬も近づき、寒くなります。彼らを夜、休ませる家が欲しいのです。軍隊が残して行った三角兵舎のような只で貰えるような住む家を探してくださいませんか」。
 こう言う私に木下氏は、驚いて言った。「やあ、よかった。あなたのような人がいて、私は本当に安心した。実は万寿寺の足利紫山老師が創立した大分孤児院を買収させて貰って、あなたのいうような戦災孤児たちを収容する施設を造ろうとしているのだが、それに当たる人材がない。あなたのような人が出てくれて私は安心した。さっそく何とかします。ついては、厚生課長に立木という人がいる、細かいことはこの人に会って相談してください」。
 こうして、戦後の大分市の福祉事業の神話時代が始まるのである。こうした内輪話は市の公式記録には載ってはいない。
 この時、私は戦後とは言え、ボロボロの服に、ボロボロの靴、そして何の紹介状のようなものも持っていなかった。まったくの風来坊のような初見の私を、いきなり木下氏は信用してくれたのである。この人は本当に大物だなあと、一返に傾倒してしまったが、また紹介された立木課長という人がまた凄い。私はこの立木課長さんの人柄には、それこそ惚れこんでしまった、この方のことはまた、別に書きたい。
 ともあれ、私が木下市長にお会いしてから、一週間もたたないうちだった。大分駅裏に行路病者たちが寝泊まりできる小さな施設があった。小部屋が3つあり、台所もある、もっとも風にも倒れそうな無残な家であったが、突然、大工さんたちが来て、修理をはじめた。そして風呂場さえ作ってくれた。「この家を釘宮さん、使え」という。私もビックリしたが、周囲の者もびっくりした。突如として、私の社会的値打ちが上がったのであった。
 戦争中は非戦論で刑務所に入り、戦争が終わったら、ただ一人の母親を顧みず、戦災孤児の世話に夢中になる。そんなことは市や県にまかせとけ、なんでそんな一文にもならんことをするのか、あまつさえ家のものをどんどん持ちだして、どうする気か。と親族たちは非難、反対する。なるほど、非常識である。布団でも、柱時計でも、茶碗でも、お風呂用の石鹸でも、なんでも自分の家から持ち出して、旧行路病舎を修繕した戦災孤児用の家に持って行った。そういうものを一つ一つ市役所の厚生課に申請して買ってもらうなど、私は思い付きもしなかった。市長さんに約束していたではないか。「家さえ造ってくだされば、あとのことは皆、自分でします」と。
              *
 私はこの子どもの家を「リトル&メリー・ハウス」と呼んでいた。ところが後にこれが県の管理に移行したらしい。名前が「上野寮」と変えられた。私になんの相談もなかった。私は「リトル&メリー・ハウス」という名前が好きだった。訳せば、「小さな楽しい家」である。これが多分、後に私の県庁の役人嫌いになる端緒ではなかったろうか。
 私はもともと福音の伝道に使命を感じていた。戦災孤児と共に生活することは楽しかったが、しかし役人の管理下の施設長になることには私は不向きであることが次第に分かってきた。私はついに立木課長に申し出て、この施設長をやめた。私は無一物になって社会の真中に飛び出した。
 伝道に神様から直接呼び出されるのは、それから数か月後であった。主は私に言われた。「鶴崎に行け」と。鶴崎は今は大分市に合併されているが、当時は小さな町であった。実はその前に、重大な聖霊経験があって、いつでも神様のお言葉一つでどこへでも出かけてゆく、心の準備はできていた。神様のなさることは一つ一つ、無駄はない。そのことは次の機会に書こう。
 冒頭の井上さんのことを書きはじめてから、ダラダラな文を草して、ここに至った。こんな文章の作り方は初めてだ。ハーザーの随筆用にはむつかしいだろうなあ。
    (2006年8月16日、夜半脱稿 《く》)

〔あとがき〕
8月14日、15日に持たれる、大阪・高槻シオン教会(有井英俊牧師)の聖会に招かれて参加してきた。少数の聖会ではあったが、自由な雰囲気で楽しくやれた。なんと言っても有井先生が私の「ワッハッハハ」がお気に入りで、「笑いの聖会」をやろうと言うわけ、私もノラざるをえない。「お笑いコンクールをやろう」と言うのだから、有井先生も凄い。
 ところで今回は慌ただしい日程だった。出かける日の朝、堺市にいる長男(えりや)の細君のお父さんが、この朝亡くなったという。そこで聖会第一日の夜は長男宅に行き、近くの斎場に行って見舞った。今度は大分の私どもの教会の賛仰者ともいうべきKさんのお母さんが亡くなった。そこで、葬儀は教会でしたいとお申し出があったという電話。私は15日の聖会の午前の講義を終わって、取り急ぎ大分に帰ってきました。そして、まだ未信者であった、そのお母さんの遺骸に「洗礼」をほどこして前夜祭、翌日葬儀をしてさしあげることになる。詳しくは又、次の機会に書きたいですが、すべてのこと慌ただしくはありましたが、順調に終わり、神様のお導きの完全であったことと、神様の栄光の顕現をあらためて賛美したことです。《く》
# by hioka-wahaha | 2006-08-22 13:32 | 日岡だより