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No.247 「降伏論」について 2006.9.24

「降伏論」について

 先週の本欄の最後に「降伏論」のことを書いたが、余程の平和主義者でもギョッとして息を飲んだかもしれない。たぶん、この釘宮牧師のフアンでも「そこまで言わなくても」と思ったかもしれない。しかし、私は本当にそのとおりに思っているのである。
 大東亜戦争が終わりに近づき、その末期、広島、長崎に原爆が落ちてから、やっと降伏するような、あんな下手なことをせよと言っているのではない。
 最初のハル・ノートが来て、「日本は中国から全面撤退せよ、朝鮮も樺太も台湾も放棄せよ」などとアメリカから無理難題。そこで日本は、堪忍袋の緒を切って、真珠湾攻撃に踏み切る、というような馬鹿な事はやめよというのである。
 あの時点で、「おや、おや、ルーズベルト大統領、そんな無茶なことを……」と、のこのこ外務大臣がワシントンに出て行って、向こうさんの言うとおりになったとしても、昭和20年8月15日の時点よりは気がきいている。国民の家も焼けず、工場も残り、金も残っている。ただ、無為に負けたということから起こる国民精神の衰退が困るのであるが。
 とは言え、軍事国家の威勢良さからくる国民精神の昂揚というような安易なことではなくて、真の道徳力と高度な文化に保持されて高貴な国民精神が培われているとき、どんな敵性国家や攻撃的民族の侵略にも負けることはない。……こんな例もある。
 内村鑑三がよく言った。「中国は外敵から侵略されて勝ったことがない。いつも負けてきた。しかし、最後には侵略してきたはずの敵民族のほうが消えてしまう。そして中国の民衆が残るのである」。
 例えば清国。清国を作ったのは満州人であるが、満州人の清国は日本に負け、辛亥革命によって滅びる。その時、既に満州人は中国人に同化され、みんな中国人になってしまっていたと言うのです。《く》


老人に祝福あれ

 「ちから」という福音雑誌がありますが、この10月号に「98歳の現役牧師」と題して、神戸の大嶋常治先生の記事が載っていました。私も「84歳の現役牧師」ですから、ちょっとお株を奪われた感じでしたが、すごい方もおられるものですね。
 そう言えば、20年ほど前、大阪方面での聖会で、この方の開会ご挨拶をお聞きしたことがあります。少しは存じあげていたわけです。そんなことを思い出しましたが、そのころの大嶋先生は既に78歳の老令だったわけですから、挨拶のご用に駆り出されるのは理解できます。
 私も先年、アメリカの9・11同時テロの時でしたが、大阪で持たれた大きな集会があって、開会祈祷を要請されたことがありました。これも年配から来る役目だったでしょうが、田舎牧師として名誉なことに思いました。
 先週の月曜は世間でも「敬老の日」でしたから、町内会からお祝いの紅白まんじゅうを頂いたことです。前日の日曜日には礼拝のあとで、教会の敬老会でした。私も老人の一人として招かれます。会場は大分川のほとりのホテル内の料亭でした。
 招く主催役の相良姉も老令の人ですから愉快です。会する者、8名ほどでしたか、例によって土岐兄が美声(?)を張り上げて「夕焼け小焼けの赤とんぼ」を歌い始めます。これがないと、当教会の敬老会らしくありません。
 私は求められて、一声、「開会説教」のようなものを語りましたが、威勢がありません。最初からお客様気分で、説教らしきものの用意がなかったからです。用意がないからと言っても一応の説教らしき説教ができなくては牧師としては落第です、呵々。
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 「老人」についての聖書の教えや言葉が幾つかあります。まず、レビ記19:32です。
「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また、老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である」。
 私は幸いに髪がまあまあ白いほうだからよいけれど、髪の黒い元気な老人は、少々きまりが悪いかな。いやいや、白髪であるにしても、この言葉のように神様と同列に並べて「敬いなさい」と聖書に書かれていては、ちょっと落ち着けませんね。もったいないです。
 「起立」という言葉は戦前の男子生徒は、天皇さんのことを思い出します。運動場で朝礼に整列している時、配属将校あたりが「賢くも……」と言い始めたら、これは天皇陛下にかかわる枕言葉と分かっているから、私たちは一斉にパッと体をととのえ、かかとをそろえて起立の姿勢をとる。かかとを合わせる時のカツッという音は今でも私たちの耳に残っています。
 次は、第一テモテ5:1です。これは老人の耳には痛いような、恥ずかしいような、照れるような言葉です。言わく、
 「老人をとがめてはいけない」。
 とは言え、いやあ、とがめたくなるような老人も案外、多いのです。先に引用した「老人を敬いなさい」という言葉にふさわしくない老人も少なくないということか。これは老人として自戒すべき言葉でしょうね。
 私は最近、母を思い出して申し訳無く思うことが多い。「親孝行したい時に親はなし」という諺もあるが、この意味がだんだん分かって来た。年を取ってみると、時代や周辺の習慣にそぐわない愚かな行為や発言をしたりする自分を発見する。こうした時、家族の者から注意されたり、たしなめられたりする。そんな時、「あっ、こういうことを自分も母に言ったな。そして笑ったな。あざけったつもりはなかったけれど、あの時、母は嫌な感じを持ったことだろうなあ」などと思うのです。
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 次にあげたい聖書の言葉はテトス2:3です。パウロがテトスに「このように老人に教えよ」という言葉ですが、老人に直接語る用語に変えて以下に記します。
 「老人は自ら制し、謹厳で、謹み深くし、また、信仰と愛と忍 耐において健全であるように勧めます」。
 こういう言葉は、老人たる者にとっては過大な要求にも思えますから、ちょっと身を引きたくなります。しかし、先に若い人々に「老人を敬え」と言った勧めの言葉に相対する、老人への良い勧めです。つまり、「老人よ、自信を持て」ということです。
 「自ら制せよ」という言葉を「自分に言い聞かせよ」と言い替えましょうか。自分に対し良い意味で「自尊心」を持てと言いたいのです。英語でセルフ・レスペクトですが、自敬心と訳しましょうか。若者が老人を尊敬するよう、老人も自分自身で自分を尊敬するのです。そして尊敬するに足る自分になろうと、決意しなさい。そして自分自身に「しっかりやろう」と言い聞かせなさい。
 「自分に言い聞かせよ」という勧めはよく金田福一先生から聞きました。金田先生はマルティン・ルターの本で発見したそうです。信仰を強め、困難な事態を乗り越えようとする時、「自分に言い聞かせる」のは非常に便利で有効な方法です。放蕩息子が本心に立ち返って父親のところに帰ろうと決心したあと、自分に言い聞かせているイエス様の喩えをお読みください(ルカ15:17以下)。クリスチャンが地上に生きる時、特に「み言葉を言い聞かせ、また言い聞かせ続ける」のは信仰生活の秘訣です。
 最後に、次のみ言葉を上げましょう。使徒行伝2:17です。
「神がこう仰せになる。終わりの時には、わたしの霊をすべての人に注ごう。……、老人たちは夢を見るであろう」。
 老人が夢を見るとは、けっして呆けてしまって、ボンヤリとした夢を見ているというのではありません。クリスチャンが年を取ったらどういう夢を見るか。
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 まだ若い人、まだまだ中年の方々に言います。「将来、すばらしい老人になるんだ」と自分に言い聞かせなさい。「すばらしい老人」の夢を持ちなさい。パウロは言います。「主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい」。この言葉のように、あなたの肉体はたとえ弱ってきても、あなたの魂は「主の偉大な力によって強くなる」ことができます。このお言葉を自分に言い聞かせなさい。こうしたお言葉があなたに夢を与えます。
 聖書は言います。神様は「老人に夢を与える」と。このお約束をしっかり握りましょう。神様が下さる夢が老人を変えます。
 かつて大正・昭和に活躍した作家・思想家に倉田百三という人がいました。この人が言った。「もし、あなたの頭にピストルの玉が撃ち込まれたとする。あなたの脳は思考力も記憶力も無くなってしまう。その時、あなたの信仰はどこへ行くのか」。これは若い時の私に対する挑戦でした。
 私はこういう風に解決しました。神様が聖霊をもって私に与えた下さった信仰は単なる思考力や記憶力の所産ではない。聖霊による記憶は、私の表面意識ではないのはもちろん、いわゆる潜在意識でもなければ、深層意識でも無い。私は神層意識と造語したが、この神層意識に培われる信仰の意識ではないか。これが倉田に対する私の答えでありました。
 昨年来、私の妻、釘宮トミは脳梗塞で倒れました。だんだんと脳の生理的活動が衰えてきました。最近は言語活動も殆どだめです。ところが驚くべきことを発見しました。ある日、妻が熱心にビデオの画面を見ているのです。それは中川健一先生の「ハーベストタイム」の画面でした。特に「サラ」というアブラハムの妻の名が出たときにはすすり泣いていました。長い、長い時間を見続けています。理知的にどの程度分かっているのか、そこは疑問ですが、その他、特に大川従道先生のビデオ、私の説教等も、飽くこと無く見ています。私は泣かされます。
 昔、預言者たちは霊夢を見ました。現代でも私たちはヨセフのように神よりの霊夢を見る可能性が十分あります。教会の老人たちよ、そのユメ(!)を見ましょう。これは老人の特権かも知れません。愛するクリスチャンの老人たちに、またすべての将来老人になるはずの若いクリスチャン諸君にこのご祝福を送ります。《く》

〔あとがき〕
第一頁の「降伏論について」で、ちょっと触れたことに関連するが、9月19日の夕刊で「日本政府が北朝鮮に対する金融制裁を発動する」とあった。太平洋戦争はABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲陣と称した対日経済封鎖を受けた日本が、負けて元々という「一か八か」の自棄っぱちな発想で真珠湾攻撃を始めて起こったのです。うっかりと金融制裁などを始めて、北朝鮮側の幼稚な対応で、日本が核攻撃を受けないとも限らない。日本政府、慎重であれよと言いたい▼ホンマに薄い小冊子「喜んで(笑って)祈る、祈りの実践」という16頁の冊子を作りました。お求めに応じて無料でお送りします。「笑えば必ず幸福になる」の続編のようなものです。▼キリスト教の本ではありませんが、総合法令出版社発行、野口嘉則著「鏡の法則」、良い本です。お奨めできます。本屋でお求めください。たくさん、店頭に出ていました。《く》
# by hioka-wahaha | 2006-09-26 12:46 | 日岡だより

No.246 人生の評価 2006.9.17

人生の評価

 人間を評価するのに、現在何かをしでかした、大仕事をやったというようなことは小さい問題です。自分が願うことをまだ十分に成し遂げないまま、とうとう終わってしまう人生があります。しかし、神様はそういう人生の歩みも全て、次の世界においてお用いになる予定のはずです。ですから、現在の、この世だけの成功とか失敗だけを見て、人を評価してはいけないし、自分をさげすんでもなりません。人間の評価と神の評価は違うということです。
 自分の中にある大きな理想、夢、願望、それらが大きければ大きいほど言葉では説明できないし、世の人々には分かりません。人々が無視したところの全て、成し得なかったところの全て、これこそが神の前における価値である。
  (「生命の光」2006年9月645号より抜粋)
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 これはR・ブラウニングの詩に寄せた手島先生の解説的短文です。僭越ながら些少、私の手を加えましたが。
 私はこの手島先生の文章に異常なほどの感銘を覚えました。斯くの如き文章を書かしめたブラウニングは別として、世界にこんなことを言った人は、過去にも、現在にも一人もいないのではないか、と私は思うのです。
 しばらくして私は気づきました。臆面もなく言えば、私の「絶対非戦主義」や「日本列島を世界のカントリーに」等の論もほぼ、ここに手島先生がおっしゃる「世の人々に分かって貰えない理想だったんだな」と、思ったことです。しかし、
 ずいぶん以前のことですが、キリスト新聞に「降伏論」という社説(?)が出たことがあるのです。私の「絶対非戦主義」に比して「降伏論」というのは正に現実的であると思うのです。他国が攻め込んで来た時に処する最も平和的で効果的な対処法ですよ。
 現に日本は太平洋戦争にはっきり降伏宣言してけりをつけ、今のように繁栄して世界中からうらやましがられているではありあませんか。これこそ「降伏」のてきめんな効果です。
 多分これは、正に人々に分かって貰えない所論でしょう。しかし、戦争は降伏してでも上手に早めに終わらせることです。
 国土があり、優れた国主が居られ、教育に富む勤勉な忠実な国民が残っていさえすれば、国は立派にあとに残ります。《く》


「イエス様って凄い」

 この9月9日に有働憲二兄は天に召されました。一月ほど前、210号線沿いのW病院に見舞ったばかりでした。見舞いと言うよりも、熱も高いというので、そのお癒しの祈りのために行ったのです。そして、あとでその熱が下がったというご報告を聞いて喜んでいたのです。
 ところで、9月9日の未明、憲二兄が危篤であるということを聞いて、直ちにA病院に行きICU室のベッドに居る彼のために祈った事です。その時、相良姉が側で憲二兄の眼がパッと開いたのを見たそうです。一同それこそ、愁眉の眼を開いたものです。
 しかし、残念でした。その日の午前9時45分、憲二兄は主のもとに帰られたのです。覚悟していたこととは言え、奥さんの喜久代さん、2人のご子息、武士君、智義君の落胆と悲しみは察するに余りあります。
 長い病床でした。15年ほど前のこと、脳梗塞でした。その倒れられて後、約3ケ月ほどして、病床でバプテスマを受けられたのです。当時の教会週報に私はこんな記事を書いています。
          *
 有働憲二兄は脳外科の病棟に入って約3ケ月、相良姉や原兄がしばしば通って熱心に祈ってくれた。また有働兄弟は私の訪問を喜んでくれた。
 さて、その日は、脳を開いて血管を切ってつなぐというような厄介な手術の前日だったが、私はベッドのそばに行った。彼が、
 「先生、奇蹟を待っています。奇蹟を」
 と言って私を驚かせた。「奇跡がおこるのが当然だし、それが無ければ私はたまりません」という表情であった。その頃、たしかに本田兄弟の手の負傷が不思議にいやされるなど、そうした現象が続出している頃であった。
 手術を終わって何日目だったか、私が集中治療室に行ってみると有働兄が居ない。聞いてみると、もう6人部屋に戻ったという。私はあわてて6人部屋に駆けつけた。介護の奥さんが言う。
「先生、順調なんですよ。少なくとも7日間ははいっているはずの集中治療室を4日目で、出してくれました」
 ベッドの本人の顔をのぞくと、その時。あの名文句が出たのです。
 「先生、イエス様って凄い」
 と言う。私はびっくりしたが、彼はすでにはっきりイエス様の癒しの力を感じているらしい。私は病院を出ながらつぶやいた。「イエス様って凄い」と。
 1週間ほどして、私は彼を訪ねて言った。
「どうも、有働さん、あなたはもうイエス様を信じているようですね」
 これはまた、牧師としてなんという手遅れな質問であろう。さて、彼は「はい」とうなずいた。私はもう一つ、念をおした。
「有働さんの心の中には、もうイエス様が居られるのですね」
 彼は大きくうなずいた。あの厳しかった病状、また困難な手術を前にした時、彼は心の底からイエス様に助けを呼び求めたことであろう。そして、自らイエス・キリストを見出したのであろう。それに違いない。
 私は感動した。そして、「では、明日洗礼式をしましょう。水に浸るのは無理ですから、水を頭につけるだけの式にしましょう」、そう言って病院を辞し、そして翌日の病床洗礼となったのである。
 以上が当時の週報の記事抜粋である。それは1993年の年の瀬も近い、12月23日のことであった。今、思い出しても感激する。
 とは言え、それ以後の長い紆余曲折。転院を繰り返し、リハビリや、また自宅療養。そばに付き添う奥様も大変であったろう。奥様にとって大きな試練です。しかし、その試練は奥様を信仰に導く。ヨセフやヨブに似ている。そして奥様もバプテスマを受けられた。
          *
 実は、有働兄が召されて翌日に前夜祭、その翌日の9月11日、午前11時から当教会で葬儀を行った。ご遺族と70名ほどの多数の会葬者を前にして、私は葬儀説教の席に立った。私は会葬席前列の喜久代奥様のお顔を見た。突然、私の胸は詰まった。
 私的なことになるが、私の父も15年ほどの長い療養生活を送った。しばしば危篤状態に陥り兄弟親族者が集まったものだ。私の母は、ずっとその長い間、看護に努めた。吸入器や注射器を握った母の姿を私は心に刻み込むように覚えている。あの母の苦労の姿が、喜久代奥様のご苦労と重なりあって、私の肺腑をついた。私の内側にわっと涙が湧いた。私は奥様に詫びた。
 私は奥様のご苦労を些かも察せず、うかうかと過ごしてきた。有働兄弟の病床をも1ケ月前の訪問を除いて、長い間お訪ねもしていなかった。申し訳無かったと、私は悔いた。そして、有働兄弟自身、どんなにか侘しい人生の後半生を送ったことであろうか。残念であり悔しかったであろう。思い残すことも多かったであろう。
 その時、私は本紙の第一頁に書いた手島先生の文章を思い出したのです。私は亡骸の有働兄弟に、いや天上の有働兄弟に語りかけた。まず、手島先生の「人生の評価」を読んだあとで、
 「有働兄弟、人生はこの世だけではない。心に願い、理想を抱き、夢を描いたことの幾分の一も達成できなかったとしても、悔いる事はありません。神様の御許に行って神様の御恵みのもとに、偉大な夢を更に、更に拡大し、完成する時がくるのですよ。
 スイスの碩学、カール・ヒルティは『天国は豊かな学び、果敢な活動のあるところ』と言いましたよ。期待して昇って行ってください。英雄が故国に凱旋するように、あなたも確信をもって天国に凱旋してください。本日の葬儀の式を有働憲二兄弟の凱旋式といたしましょう」、こう言って葬儀を終えたことであります。《く》

〔あとがき〕
前述のご葬儀では、私のお勧めにより供花にはお供え下さった方々のお名前を上に掲げる事はご遠慮願い、また弔電の紹介もしませんでした。お届け下さった方々には失礼でしたが、お許し下さい。▼教会の信徒諸兄姉には、葬儀の前後、その間、行き届いた愛のご奉仕を頂き、ご遺族ともども感謝いたします。《く》
# by hioka-wahaha | 2006-09-18 13:30 | 日岡だより

No.245 動物園、水族館、教会 2006.9.10

動物園、水族館、教会

 北海道・旭川市の旭山動物園が評判である。この旭山動物園は、かつてその存続が危ぶまれていました。入場者がどんどん減り続けて、これ以上運営はむつかしいと思われていました。旭川市議会も「もう廃園しよう」と腹をきめかけていたそうです。
 こうした現状を打破しようと、飼育員たちは考え始めました。「動物園の使命は何か」と。そして、「そうだ、生きた動物たちを見せるのだ。彼らが楽しく生き生きと生きている姿を」。後に行動(生態)展示と言われる飼育法の発想でした。
 これはまさしく、現在の「うみたまご」、大分水族館を作り上げた哲学でなかったでしょうか。その発想者はかつての高崎山のサルの餌付けを始めた元大分市長の上田保氏です。ホラ貝とさつま芋でサルを一般市民の前に誘い出して見せたアイデア市長は、次はその高崎山の麓の海岸に水族館を作ろうというわけでした。
 上田さんは釣が好きで、魚の生態を知っていました。魚を釣るには瀬がいい。流れの無いところに魚は集まらない。額縁のような狭いガラスの奥に魚を閉じ込めているだけでは彼らは身動きもせず浮かんでいるだけ。見る側に魅力も無いし魚も可哀そう。
 そこで、厚いガラスを周辺に巡らした大回槽を作った。その中に水を貯めて流れを作ってやれば、魚は必ず大喜びで泳ぐだろう、それを見る入場者も喜ぶだろうと考えた。この上田案は大当たりだった。今、日本中の水族館がこれを真似をしている。
 さて私たちの教会はどうでしょう。信徒の皆さんが神妙な顔をしてベンチに座っている。賛美歌を美しく上品に歌っているのだが、どこか生気が無い。こういう教会が多いのではないか。聖霊の川の流れの中で、牧師も信徒も皆さんが喜々として元気である。そういう教会でありたいですね。《く》

 
目標を持とう
 
 先々週の福岡の神の愛教会の週報を拝見しました。見ると、報告の中で、前週の礼拝出席者数がありますが、それが50名になっていました。「やったあ…」と声をあげました。これまでも、ずうーっと神の愛教会の週報では「目標・礼拝出席50名」とあったからです。
 中山先生ご夫妻が、これまで飽かず、気落ちもせず(オットこれは失礼)、「礼拝出席50名」と目標を掲げてこられた、その信仰の達成です。
 先生ご夫妻の熱意ある目標設定と、またそれにふさわしいご努力もあったことでしょう。信徒のみなさんも、それに応えて伝道に、礼拝出席に努力してきたことでしょう。
 しかし、それに勝る神様のお力添えがあったに違いない。聖霊様が牧師先生以下、皆さんを励ましてくださったからでしょう。それらのことを思って、私は感激して涙が出ました。まさにこうして目標設定は達成されたのでした。
 目標設定と言うと、かつてのSMIの総師ポール・J・マイヤーの「人生成功の鍵は目標設定にある」を思い出す人は多いでしょう。たしかに目標設定という言葉はポール・J・マイヤーと表裏一体でした、そして又、松山福音センターの故・万代恒雄先生を思い出さざるを得ないことでしょう。
 さて長い間、中山先生が「礼拝出席50名」の目標を掲げてこられた様子を拝見しながら、「先生の目標、いつ達成するかなあ」と多少、私は傍観的に無責任に見ていたことを、今、お詫びせずには居られません。そして「先生、そして洋子先生、良かったですねえ」とお喜びせずにはおられないのです。
           *
 実はこうしたことが、無意識に私の心を動かしたらしいのです。私は先日、ふと「私のこの大分教会、10年先に千人になったら、すばらしいや」と心につぶやいていました。韓国や、それぞれの教会の大きい国の教会と違って、日本では教会は一体に小規模です。
 日本で一番大きい教会は大和カルバリー・チャーチでしょうか。牧師先生は大川従道先生です。私はこの大川先生のご説教を毎週拝聴して勉強しています。いわゆる潮干狩説教ですが、時にひょうきんで楽しい説教です。
 この大川先生の大和カルバリー・チャーチは信徒千人の日本には珍しい教会です。私は突然、この大和カルバリー・チャーチを思い出したのです。もっとも大川先生の教会の教会堂は見たことがありませんので、イメージとしては早速、手束先生の高砂教会の堂々たる教会ビルを思い出しました。私の思い浮かべるイメージとして拝借したのです。
 そして今、わずか30人そこそこしか会衆の集まらない私の教会、このキリストの福音大分教会のこれからの10年間の成長モデルを紙に書き始めたのです。これを書き出すだけでも苦労しました。
 そして、その表を恥ずかしげも無く、先日の祈祷会の席に持ち出して、「みなさん、私はこんな目標を仮に書いてみましたよ。神様に訴えたいのです」、と言いながら、ピリピ人への手紙3章13~15節を拝読したことです。
 「わたしは(中略)、ただこの一事を努めている。目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである」。
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 当教会の現在の会堂の献堂式を行ったのは1976年でした。その10日前に母が天に召されていました。私は母のとむらい合戦をいどむような気持ちでした。「これまでの無教会的な伝道をやめ、牧師意識に目覚めました」と言って某先生には生意気に見えたらしくもありました。ともあれ、私の意気や壮たるものはあったでしょう。
 そして1989年、献堂式の年より12年、この間、私は心筋梗塞で倒れ、妻も乳癌で入院手術などいろいろダメージを受けることはあったのですが、2人ともすぐ健康を取戻し、そして礼拝出席は遂に79名にも達したのです。この数字をみて、永井先生は言われました。
 「先生、凄いですね。しかし、これから100名になるには、相当エネルギーがいりますよ。」
 この言葉に私は別に、気が弛んだとも、緊張したとも、恐れをなしたとも思わないのですが、今、それ以降をしらべると、年々出席者数が減って来ているのですよ。これには驚きました。
 よく調べてみました。それまでは、格別信徒の皆さんに口に出して訴えたことはありませんが、毎週の週報には「今年度の礼拝出席目標○○名」と載せてあったのです。そして、1989年の翌年より、どういうわけか、「今年度の礼拝出席目標○○名」の記事が無くなっているのです。
 その時の理由や、私の気持ちは全然覚えていませんが、1989年の頃は、私の最も張りきっていた時のような気もしますし、教会の外においても活動的であったような気がします。しかし、その頃からなぜか、慢心したのかも知れませんね。多いと言っても79名、大した数でもありませんのにねえ。
 こうして今日に至っているのです。中山先生の神の愛教会の週報の数字を見てから、私の心は燃えました。もちろん、数だけを教会成長の目標にして、一種の牧師さん同志の競争意識にからませることは危険ですし、牧会の本旨に反します。しかし、「数はどうでもよい、大切なのは数ではない。質である」、という逃げ口上には堕すまいと私は肚を決めているのです。
 たしかに、私は青年時代、無教会の影響が強く、信徒さんの数に心をひかれることはありませんでした。とは言え、少い信徒数でも構わないとする思い替え意識はあったかと思います。ともあれ、今後の成長目標を照れず、臆せず、少なくとも週報には書き上げますから、信徒のみなさん、よろしく! 《く》

〔あとがき〕
巷では酸素カプセルのことが評判です。ベッカム選手や早実の斎藤佑樹選手などが使ったという。実は私のほうでは一歩早く酸素を使った、とは言えカプセルでも缶詰でもない。パキラという観葉植物に、ある電磁波の器械をつかって酸素を大量に放出する仕組みだが、妻の脳の回復によく効いている気がする。私のしろうとなりのアイデアだったのですが。《く》
# by hioka-wahaha | 2006-09-12 11:07 | 日岡だより