<   2017年 07月 ( 5 )   > この月の画像一覧

No.811 《聖書のことば》永遠の命を再認識せよ/聖句暗記のおすすめ(17) 2017.7.30

《聖書のことば》聖書暗記コースB~11
永遠の命を再認識せよ

救いの確信「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」
(第一ヨハネ五・12)
 
 自分に信仰があるのかどうか、疑わしくなることがあります。そして、こんな不信仰な思いが出るようじゃ自分はだめだなと、絶望することもあるでしょう。
 しかし、こういう経験はだれにもあります。第一級の聖者にだって時におこることだと思います。これは、悪魔が私どもの心に悪い思いを入れるからです。悪魔の思いを追い出す手だては御言葉です。聖書の目的の一つは、私達の内にあるいのち(信仰)をもう一度確認し悟らせることにあるのですから。
(1980.9.7週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(17)

 今、教会学校ではいつも、「十戒」を朗唱しています。よく意味も分らずにとなえている生徒も多いと思いますが、それで良いと考えています。言葉の意味はいつか分ってきます。幼い時に、くりかえし口にとなえた言葉は、人の心に深く刻みつけられて、一生を支配します。
 非行少年、非行少女(のみかは、非行成人者)をうみださぬ為の、最もかんたんで強力な方法は「十戒」の朗唱です。これをうわべだけの(口さきだけの)朗唱にせず、感情をこめ、声をしっかり出し、十戒を暗唱することを、家族もいっしょに実行して下さい。
 旧約聖書以来三千五百年間、ユダヤ人とキリスト教徒をつちかった御言の霊力が働きます。「十戒」を日夜朗唱して(暗唱できれば更によい)、すばらしい子供を育てて下さい。
 (1980.9.7週報「キリストの福音」より)






[PR]
by hioka-wahaha | 2017-07-31 23:30 | 日岡だより

No.810 《聖書のことば》主の食卓/聖句暗記のおすすめ(16) 2017.7.23

《聖書のことば》聖書暗記コースB~10
主の食卓

キリストを受け入れる「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう」
(ヨハネの黙示録三・20)
 
 「神の国で食事をする人は、さいわいです」と人は事もなげに言う。しかし実際に神の国の盛大な晩餐に招かれると、人はだれも来ないのです。(ルカ一四・一五以下参照)
 そこで主は言われる。「私のほうから出かけて行こう。友よ、戸をあけて下さい。それだけでよい。そして、わたしはあなたの部屋に入り、あなたの貧しい食卓を祝して、盛大ににぎわし、そして共に食事しよう」と。
(1980.8.31週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(16)

 ヨシュア記一・八の「思い」、詩篇一・二「思う」を新改訳聖書では「口ずさむ」と訳し、なお詩一・二では「思い巡らす」と別訳を注に入れている。これが聖書でいう瞑想であり静思である。
 東洋風の無の瞑想について。これに近いことを西洋のキリスト教神秘家たちも説いている。しかし、すべてのクリスチャンに必須のこととは言わない。
 神秘主義は重要であるが危険である。サタンの誘惑の多い道であり、しかも信仰の最初と成長のためにぜひ必要というものではない。
 最初の回心は、通常どう考えても、いわゆるエクスタシー下でもベーター脳波でもない時におこっているように思われる(かといって普通一般の心理下でもないかもしれない。心理神経学?としては研究のいる所であろう)。
 ところで信仰の成長のためには、ぜひとも御言の瞑想が望ましい。はっきり、そうと自覚しなくても信仰の成長途上にある人は、みな自動的にしていることである。そして瞑想するためには人は必然的に御言を暗記しなければならぬ。暗記していない御言を瞑想することは、およそ不可能であるから。
 (1980.8.31週報「キリストの福音」より)





[PR]
by hioka-wahaha | 2017-07-31 23:00 | 日岡だより

No.809 《聖書のことば》決断/聖句暗記のおすすめ(15) 2017.7.16

《聖書のことば》聖書暗記コースB~9
決断

キリストを受け入れる「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」
(ヨハネ一・12)
 
 ビリー・グラハムの伝道雑誌の名は、「決断の時」という。私は長い間、この決断という言葉がきらいだった。人間のがわからの決断という力で、キリストを信じることが出来るとは、どうしても思えなかったからである。
 しかし、やはり人生は選択の連続であって殊に聖書の重要語句や霊的啓示の前で、それに従うか否か、受け入れるか否かは、私どもの選択、つまり決断によるのである。
 「神に属(つ)くか、悪につくか、今こそ、きめなさい」――これこそ預言者の声であった。
(1980.8.24週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(15)

内村鑑三先生の聖句暗唱
 私は青年時代は内村鑑三の大崇拝者で、内村鑑三全集をあかずにくりかえし読んだ。そして先生に習ったのは聖書研究(学習ではなくギリシャ語がどうの、パウロの年代がどうの、という研究である)と、社会批評であった。そして先生が寺子屋式集会の時代に励行したという聖句暗唱などは、夢にも真似しようと思わなかった。当時、先生の集会で二、三十名であったろうか全員が、講義の前に先週覚えた聖句を暗唱させられ(それをギリシャ語でやった御婦人もあるという)二回か三回それが出来ぬと退会させられたという伝説もある。これを若い時、真似しなかったのは何といっても私の不覚であった。先生の文章に、聖句暗唱をすすめる記事は一行もなかったと思う。実際には実行していて、それを説いてくれぬ一例であるが、それが、本だけで勉強するおそろしさ、住み込みでもして親しく弟子入り事の大切さである。祈りや瞑想についても同様。特に賀川豊彦の瞑想法など、少しはかいま見せてくれているが、本来はもっと聞きたい所、先生の宗教生活の秘奥の間であった。信仰修業上、心してほしい点であります。
 (1980.8.24週報「キリストの福音」より)


[PR]
by hioka-wahaha | 2017-07-29 07:55 | 日岡だより

No.808 《聖書のことば》3題(キリストの生と死/神の義・人の義/肉体化された事実) 2017.7.9

《聖書のことば》聖書暗記コースB~6
キリストの生と死

キリストの代償「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである」
(第一ペテロ三・18)
 
 何といっても、これがキリスト信仰の中心です。キリストの死と生、これが私たちの死と生とに、あたかも血管をつなぐようにして結ばれてくる所に、信仰の秘義があります。これを、裁判での身代りの刑罰のように説くこともあり、商業上の負債の振替のように説くこともあります。捕虜を奪還することのように説くこともあります。要するに、キリストの死生が私の中に再現するのであります。
(1980.8.3週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》聖書暗記コースB~7
神の義・人の義

救いは行いによらない「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」
(エペソ二・8-9)
 
 救いは、人間の行いによらず、神のがわから出る恵みの賜物である。故に、救いは信じた時、その時に成就する。伝道をし、神の律法を守ることは大切ではあるが、救いの条件では決してない。エホバの証人のような信仰の熱心さは、神の義のよらず、人の義を立てている(ローマ一〇・二)のである。キリストを神と信じない以上、この過ちを生じる。
(1980.8.10週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》聖書暗記コースB~8
肉体化された事実

救いは行いによらない「わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け……」
(テトス三・5)
 
 行いによらず、信仰のみにより、神のあわれみによって救われる! これは浄土真宗の教えによく似ています。似ているというより人間の救いに関する公式として、同一の真理なのだと思います。
 ただし、聖書の主張する処はこうです。
「救済者は現実の人間として、歴史上にあらわれた。そして、その救済の完成の為、十字架上にて死、そして復活された」
 「教えのみ」によらず、肉体化された事実こそキリスト教の根本であります。
(1980.8.17週報「キリストの福音」より)














[PR]
by hioka-wahaha | 2017-07-22 13:49 | 日岡だより

No.807 《聖書のことば》神はあなたを愛しておられる/信仰成長、第一の秘訣 2017.7.2

《聖書のことば》聖書暗記コースB~5
神はあなたを愛しておられる

キリストの代償「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」
(ローマ五・8)
 
 「敵を愛せよ」というイエス様の教えは、神に敵対する人類のために命をすてる、という御自身のわざによって身をもって証明されました。私どもの心がくだけて、私ども自身が神にそむく者であり罪人であると自覚する時、この神の愛がよく分ります。
 私どもが、自分で「義人である」「少くともそれ程悪い人間ではない」と思っている間は、この神の愛が分らないのです。
 信仰とは、へりくだってこの神の愛を受け入れることであります。
(1980.7.27週報「キリストの福音」より)


信仰成長、第一の秘訣

 生れたばかりの赤ちゃんにとって、最も大事なものは何か。理くつから言えば、それは第一に空気、第二にお乳、第三に家庭であります。しかし、実際的に言えば第三の家庭がありさえすれば、第一、第二の必要物は、さほど気にする事はない、自然に与えられるものであります。
 信仰生活において、祈りは空気に、お乳(食物)は聖書に、そして家庭は教会にたとえられます。そして前の文章のように、理くつから言えば、最も必要なのは、祈りと聖書だ、と言い得ますが、実際的に大事なのは教会出席(礼拝や諸集会の交わりにつらなること)です。誠実に教会の諸集会に参加しさえすれば、祈り、聖書、のことのみならず、その後の成長に必要な訓練(幼児期の発達で言えば、集団遊戯、お手伝い、学習等に類比され得る信仰の成長段階)を、おのずから受けることができます。
 ですから、礼拝や諸集会への出席をまず第一に重んじて下さい。一人で家で聖書をよんで礼拝をしていればよいといって、その必然性(遠方、病気等)もなく孤独にしていると、発育不良になる恐れは充分にあります。(ヘブル一〇・二五を参照)
 (1980.7.27週報「キリストの福音」より)









[PR]
by hioka-wahaha | 2017-07-08 15:08 | 日岡だより