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No.793 《聖書のことば》献身/聖句暗記のおすすめ(3)/私の信仰記(3)窮地に徹する 2017.03.26

《聖書のことば》聖書暗記コースA~3 
献身

キリストへの服従「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」
(ローマ人への手紙一二・1)
 
 礼拝のプログラムに献金という時間がある。これは本当は、「献身」とすべき所ではないかと、よく思う。お金を献げさえすればそれで良い、というものではない。真の礼拝は、この生きた体を神に供えることにある。
 パウロの手紙、この文章の冒頭、原文ではパラカロー(勧告する)!、強い言葉です。信者になった者に対する、パウロの真剣なアッピール(英訳)なのであります。
(1980.4.20週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(3)

 自信をもて
 記憶力が無いということに自信のつよい人が多い。案外、小学校時代に九九の掛算や漢字の学習に難渋したなどという経験が、そういう記憶不安を生み出している事が多いのです。記憶するには記憶するためのコツがあります。映像法や歌誦法はいい例です。映像法は今、ベテル聖研でやっていますね。歌誦法の好見本は掛算の九九(世界に類を見ない日本独得のもの?)や、鉄道唱歌の曲で歌う聖書名目づくし等です。
 筋肉を使うことにしろ(すべて技術は筋肉のわざである)、頭脳を使うことにしろ(すべての技術は脳のわざである)、そのコツは案外簡単だからして人づてに習得するのが得策です。しかし、その基本に最大に必要なのが自信です。聖書→「信ずる者には、すべてが可能である」(マルコ九・23英訳)。わたしたちは「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる」(ピリピ四・13)。
 つけ加えたいのが攻撃精神です。天国でさえも激しく攻めるものが、これを奪うのです(マタイ一一・12)。さあ聖句暗唱に取りくみましょう。激しく熱心に取りくむと自信もまた、湧いてきます。
(1980.4.20週報「キリストの福音」より)


窮地に徹する
――私の信仰記(3)――
 釘宮義人 
 
 昭和一八年一二月の中頃、私は警察より大分刑務所の未決監に移されました。さっそく木綿の囚人服、いわゆる赤着物を着せられました。すぐに、母が面会に来ました。その翌日、母からの差し入れで、かすりの着物が届きました。ところが、その着物というのが、うすい肌着と、ひとえの着物と羽織です。母は多分あの赤着物の上に、かすりを重ねて着ればいい、と思ったのでしょう。しかし、看守はそうはさせてくれないのです。規則か意地悪か知らぬが、これまでの官のものは全部脱ぐのだと言います。母からの着物の差し入れで、やれ嬉しや、思ったのが、とんでもない。看守からせきたてられて、あわてて着かえて、監房でひとりホッとして座ったトタン、寒気に身ぶるいして、私は「大変なことになった」と気づいたのです。木綿の洗いさらしの官衣の方が余程あたたかかったのです。
 十二月の寒さ。空気抜けから雪のふりこむ監房に、勿論火の気はない。おまけに、私の体は長い留置場生活のおかげで衰えきっている。気をゆるめたら、いっぺんに風邪をひいてしまうでしょう。夜、寝ている間も、たとえ眠っていても一瞬も気をぬかれません。二十四時間、緊張をつづけて私は寒さと戦いました。二、三日して、母はこの事を知って驚き、あわてて下着や丹前などをもって来ました。そのあたたかい衣類にくるまって、極楽に行ったような気分になったことを、今でも忘れる事は出来ません。ガンバリズムのきく人には何でもない事かもしれませんが、生来体が弱く、おまけに母に甘やかされて育って、柔弱であった私には貴重な経験でした。
 同じ頃、奥歯の大臼歯がムシ歯で痛み出し、看守に訴えるけれども、
「非国民のくせに、何をぜいたく言っているんだ。第一ムシ歯ぐらいで、死にはせん」
 相手にしてくれません。ああ、これはもうあごの骨までくさってしまうまでは取りあってくれないな。それまでは二年でも三年でも歯の痛みはガマンするより仕方ないな。そう覚悟したら、その晩ぐっすり眠ってしまい、翌朝少しも痛みません。その歯は大きな穴をあけて、ついこの前まで私の口の中にありました。
 人間は逃げ場の無い所に押しつめられると、徹しきるほかありません。そして窮地に徹するということは信仰に入る手前の最も良い訓練の学校であります。
 少年時代、軟弱に育った私には、信仰の事は抜きにしても非常によい鍛錬の場所であった事はたしかです。
 (1980.4.20週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2017-03-31 23:00 | 日岡だより

No.792 《聖書のことば》生きているキリスト/聖句暗記のおすすめ(2)/イエスの断食 2017.3.19

《聖書のことば》聖書暗記コースA~2 
生きているキリスト

キリストが中心「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ人への手紙二・20)
 
 禅の世界的紹介者であった鈴木大拙はこの聖句の前半をとって、これこそすべての宗教の真髄である、と言いました。しかし、この御言葉の持っている真理は禅以上です。鈴木大拙の未だ知らぬ所です。
 キリスト様、神のひとり子なる、あのお方が、個性的に、人格的に、私の内に生きて下さること、この事実こそ、キリスト教です。
(1980.4.13週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(2)

 暗記は暗唱から。暗唱は熱烈反復、声と身ぶりで。
 学問することを、日本人は「勉強」という。「強(し)いて勉(つと)める」わけだ。始めから、学問はつらい事と恐れている。――さて、ユダヤ人は学問することを「ミシュナー」と呼ぶ。反復・復唱のことである。ユダヤ人は、数千年前の昔から、聖書を反復して、その文字に指をあて、目で読み、口で唱え(抑揚をつける)、その声を自分の耳で聞き、体をゆりうごかし、全身全心を用いて暗唱する。これがユダヤ人の秘訣である。
 脳のシナプス作動は、反復するほど、電気抵抗をへらして微電流の流れが良くなる。記憶力は筋肉に似て訓練で必ず強くなり巧みになる。覚えかたが上手になるのである。今、日本語をしゃべれている人なら心配はない。記憶力は充分である。自信をもって聖句暗唱を始めなさい。
 毎日、少時間の練習。継続が大事。腹の底から、しっかり声を出す。熱烈に感情をこめよ。手ぶり身ぶりを加えよ。一句一句をマスターして次の一句に移る小刻み前進だ。一度覚えた聖句は何度も反復暗唱して脳に刻みこむ。人に聞いてもらえ。お世辞でもよい、ほめてもらえ。早速未信者に語って聞かせよ。(1980.4.13週報「キリストの福音」より)

 
イエスの断食

荒野
 人は、一人前になるためには、訓練を必要とする。「全き人、イエス」は、その例外ではない。聖霊はイエスを荒野へ追いやり(マルコ一・12)、サタンは彼を試みる。荒野は神の子の教室である。失敗、貧乏、病気、離散、すべて、これ人生の荒野である。
 荒野という言葉は、ヘブル語では元来「語る」という動詞から出ているのだ、と言う。荒野とは人も居らず、声も無い所のはずであるが、そこである少数の人人は神の声をきく(沢崎堅造「新の墓にて」一七一頁)。しかし、その前に、まずイエスが聞いたのは、サタンの試みの声であった。それが、やはり、荒野というものであろう。

餓死直面
 イエスの四十日四十夜の断食は、パンも水も口に入れぬ徹底的断食ではなかったかと思われる。健康法や精神統一のための計画的断食ではない。聖霊に追いつめられ、荒野の真っ只中でさせられている断食である。その後にくる空腹は、二、三日断食して「おなかがへった」という程度の空腹なのではない。餓死寸前の恐るべき断食である。私たちが時々やる、断食祈祷とはおよそケタの違う断食、死に直面した断食なのである(マタイ四・2)。

石をパンに
 「石をパンにせよ」とは、イエスにとっては空想的誘惑なのではない。神の子キリストにとって実行可能な「石をパンに」という誘惑であって、すぐにも手が出そうな誘い文句なのである。出来もせぬことを、幻想して白日夢のように脳裏に描いているのとは違うのである。

パンによらず・・・・・・
 「人はパンだけで生きるものではない」、この言葉を、餓死に直面してイエスが使われる時、そこに、異常な緊迫感と拒否権発動の示威を感じる。今にも死に崩れいきそうな体を、神の言のみで生かそうとするイエスの決意が見られる。「人はパンも必要である。神の言も必要である」と言う、二股かけての言い方をして一面、肉体人間の現実を了解しつつも、御自分の身の処しかたとしては、パン必要主義に一歩もくみしない、イエスの中にある「荒野の声」が、ここに聞える。

一つ一つの神の言
 ここで、神の言というのは、単なる聖書の言葉というより、神の口から直接語りかけられる──それはけだし、荒野こそ、それが語られる最もふさわしい場所である──一つ一つの、体験と具体性に即し、身魂に刻みこまれる神の語句(レーマ)なのである。この神の語句(レーマ)こそ、クリスチャンの真のパンである。(一九八〇・四・六祈祷会)
(1980.4.13週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2017-03-31 10:30 | 日岡だより

No.791 すべてが新しくなる/聖句暗記のおすすめ/苦痛の意義 2017.3.12

《聖書のことば》聖書暗記コースA~1 
すべてが新しくなる

キリストが中心「 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」
(コリント人へ第二の手紙五・17)
 
 今、沖縄の那覇市ですばらしい伝道をしている田中菊太郎牧師。少年時代はひどい非行を重ねて、ついに少年刑務所入り。そこでも悪事をたくらんで、医者をだまして病気になりすまし、病舎でなまけていました。そこで暇つぶしのつもりで読んだのが、聖書。短いキリストの御言葉の一句が、彼の心を捉えました。彼の良心はめざめ、一気にキリストの御胸にとびこみました。そして、全く新しい人、神の子として生れかわったのです。
(1980.4.6週報「キリストの福音」より)


聖句暗記のおすすめ(1)

 今週より、巻頭の《聖書のことば》に、国際ナビゲーターという宣教団体によるカリキュラムに従って、信徒である方々に、ぜひ暗記してほしい聖句六〇句を、毎週載せることにします。一週間に一句ずつ暗記することにしたいのです。いかがです、さっそく始めませんか。
 聖句の上に書いている短い言葉(この号の例で言えば、「キリストが中心」)を主題(テーマ)と呼びます。このテーマと、本文の聖句と、引照箇所(この号の例では、コリント第二書五の一七)の三つをいっしょに覚えて下さい。
 あなたも必ず聖句暗記が出来る
 聖句暗記はこれまで何度もやろうと思って始めてみたが、結局失敗した。継続的努力は苦手である。私は記憶力がバツグンに悪い。そうお思いの人も、今回はぜひ始めてみて下さい。必ず、やれます。お手伝いもします。さァ、決心しましょう。秘訣の第一、まずカード(名刺型カード、教会にあり、無料であげます)に書いて英語単語式に手もとにおいて復習する。第二は二、三人のグループを作って一緒に練習する。(記憶力増進法を来週書きます)
(1980.4.6週報「キリストの福音」より)


苦痛の意義

 苦痛の持っている問題点の第一は、もちろん、その痛みそれ自身です。現に今、痛くてたまらぬ、という痛みの現実性です。「手軽に傷をいやして、……平安、平安と言う」(エレミヤ六・14参照)という手合が多いのです。そういう気安めのなぐさめ言葉に、「なぐさめられるのも厭(いと)う」(マタイ二・18文語)ほど苦痛の中にいる人は痛むのです。まして、心無い人々の快活な歌声は、「傷の上に酢をそそぐよう」(箴言二五・20)なものであります。
 苦痛の第二の問題点は、それが当人にとって不公平に見えるということであります。なぜ、世の人が私よりも幸福であるのか、なぜ私のみ患難にあうのか、私よりも悪人と見える人が、ぬくぬくと安穏な人生に喜んでおり、神様に忠実に従おうとしている自分が、こんなひどい目にあっている、神様の私へのなさりかたは不当である、神様の手は不公平である、この不平、不満、うらみの心が魂にいっぱいになるのであります。
 にもかかわらず、聖書は詩篇第一一九篇七一節で「苦しみにあったことは、私に良い事です」と告げます。なぜか。神を信じる者にとって苦痛は次のような良さ(意義)を生み出してくれるからです。
 第一。その人を成長させます。単なる知識や技術であるならば、苦労なしに(遊びと興味による教育という幼稚園方式です)身につけさせることも出来るでしょう。しかし、「愛、寛容、平和……」などという人格的成熟は試練なしには与えられません。患難は忍耐を生み、忍耐は生きる能力を上達させます(ローマ五・3~4)。然り、苦痛に対処する最大の態度は忍耐であります。忍耐さえしていれば、何ごとかが生れてくるものであります。
 第二。他の苦しむ人をなぐさめる力を得ます。コリント第二書一・4~6をご覧下さい。そこで、パウロは、「自分が患難をうけて神様よりなぐさめられる、その力で他をなぐさめることが出来る。私が大きな苦しみにあうのは、あなたがたのなぐさめと救いの為である」とさえ言っています。
 第三。故に、苦痛はキリストからのこされた「遺産」の一部であり(コロサイ一・249、苦痛をとおしてクリスチャンは、神の民であるのみならず、祭司と呼ばれ得る(黙示録一・6)ものになるのであります。
 第四。尚、苦痛は、その故に神をのろい、つぶやく罪をさえ自戒すれば、罪を犯すことを止める、良き防錆剤であります(ペテロ第一書四・1)。(一九八〇・三・三〇主日礼拝説教「キリストの苦難はあなたのため」より抜粋)
(1980.4.6週報「キリストの福音」より)












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by hioka-wahaha | 2017-03-25 23:55 | 日岡だより

No.790 「信念」のむなしさ―私の信仰三段とびの記(2)― 2017.3.5

「信念」のむなしさ
――私の信仰三段とびの記(2)――
釘宮義人 
 
 よく山の頂上や、中腹にお寺やお宮があって、その前に長い石段があることがありますね。八十段とか、百段とかあって、たいそうにきつい坂が多いものです。私どもの信仰の道も、本来はそんなもので、百段も二百段もふみ越えて行かねばならぬのか、と思います。パウロは言います。「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである」(ピリピ三・12)と。信仰は、そういう意味では、「永遠の求道」であります。私はその道程の中で、やっと今、三段くらいとびこえてきた(というより、やっと這い上って来させて頂いた)という実感がいたします。その貧しい体験を少々お証ししたいと思って、この連載記事を始めたのであります。この前の記事の最後に、「これで私の助走期は終った」と書きましたが、その助走期とも言うべき信仰以前の思い出を、もう少し書きたいと思います。
 
 実は獄中で、私の心の中に大きな変化がおこりました。それはこうです。私のそれまで持っていた非戦主義の考えが突然、くずれたことです。「戦争は悪ではあるがこの人間のつくる世界では止むを得ない。どんなことがあっても正義の戦争などと呼べるものはあり得ない。にもかかわらず、それを見逃さざるを得ないこともある。どの程度の軍備、どのような戦争なら止むを得ない、というのか。そんな基準は客観的にきめにくいことだ。神の恩寵によって、許しを乞い求める祈りの中で与えられる微妙なバランス感覚によってきめるしかない」。実に、人には言い表しにくい、一種の弁証法的止揚とも言える考え方でして、そのようにして非戦主義は私の中で自壊していきました。
 何とかして刑務所を早く出たい一心で、こういう事を考えつくのかも知れませんが、表面意識のことではないから、自分では本気です。偽装した転向ではないのですから、転向という表面の卑しさにかえって苦しむのです。ガリレオが宗教裁判にあって法廷では自説を撤回しながら、その法定を出る時、「それでも地球は動いている」とつぶやいたそうです。そのガリレオがうらやましくてなりませんでした。私は、当時の島木健作などという一連の転向作家の、まじめに本気で転向して、なおその上うしろめたい気持でいる辛さが、よく分るように思いました。
 私は、自分の信仰を折ったという屈辱感と、信念というものが一夜で自壊するというはかなさに、まったく自信を失いました。自己に忠実であろうとすれば、転向者。意地を張って古い自説を固守すれば、二重人格。その頃、倉田百三の「治らずに治った話」を読みました。倉田氏が恐怖症になって、理性による自我抑制が不可能になり、有名な「出家とその弟子」に見られるような信仰の修辞学はいっぺんに消しとんでしまうのですね。そのあと、森田正馬博士の「ありのままを受け入れる」身心療法で解決して行くのですが、この時、私は初めて、人間の理性主義にもとづく信念のはかなさを、理論的にも教えられるのです。
 いわゆる「信念」ではない、キリストに絶対委托の「信仰」に入るのは、それからしばらくして前に書いたとおり、一九四四年一一月二三日のことであります。
 
 〔附言〕戦争に関する私個人の現在の考えは、右の文中の表現とあまり変りません。少年時代、ある立派な金持が、「人に悪心をおこさせてはいかぬから」と言って窓に丈夫な鉄柵を作っているのを見て不愉快だったことがありますが、やはりそれは致し方のない正論で、特に隣りの大国エゴイズムをそそるような、無防備丸腰はダメだと思います。とは言え、いくら軍備をせりあった処で、ソ連などには敵わぬことなのですから、程々にすべきです。
 (1980.3.30週報「キリストの福音」より)

【参考】後年の義人牧師は「日本よ世界のカントリーとなれ」との理想を、「大風呂敷」と頭をかきながらも以下のように書いていました。
 「私は願っている。この日本国の国民のすべての人がクリスチャンになるのを。
 (中略)
 そうなれば、もちろん私の「日本絶対非武装、非戦平和国家論」も実現する。そうなると、日本は世界のカントリーになる。
 日本は、神様のため、福音のため、世界の幸福、平和のための祈りをもって立国する。世界中の人たちをこの日本に招きたい。そして、キリストの福音を語り合いたいし、その現実化を見たい。
 製鉄工場も自動車工場もコンピューター工場も何もない日本。ただあるのは緑の森と、田園と畑、牧場。そこに温かな信仰の交わりがある。人々を招き入れ、団欒の時をもてなす。どこの家でも見知らぬ外国の人を喜んで迎え、温かく食事の交わりに招き入れる。
 どの家庭でも、そこには隠れた招待主イエス様が居られる。多くの外国からの客人たちは喜んで、又、友人を連れてこの国に来たいと言う。こんな国には戦争など起こりようもない。」日岡だより2007.5.27号より http://hiokadayor.exblog.jp/5507877/


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by hioka-wahaha | 2017-03-18 11:27 | 日岡だより