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No.780 《聖書のことば》4題(「心の深みまで新しくされよ」ほか)

《聖書のことば》 
心の深みまで新しくされよ

「あなたがたが心の霊において新しくされ……」
(エペソ四・23)
 右の聖句は日本聖書刊行会の新改訳。日本聖書協会の口語訳によると「心の深みまで新たにされ」。傍点の「深みまで」は意訳であるがなかなかの名訳。しかし、やはり直訳の方が間違いがない。
 心は、いわゆる表面意識である。霊は心の源であって、人間の実存そのものである。そこは無意識界とも言える。意識が大きすぎて片々たる人の心に捉えにくいのだとも言えよう。その霊が罪を負っている、死んでいる、自由を失っている、と言うのが聖書。
 その心の源よりして救われ、新しくされ、清くされる事、それが福音だ。
 (1979.10.21週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
祈る人

「彼はいま祈っている」
(使徒行伝九・11)
 
 使徒パウロは、もともと行動的な人であった。また、よく物事を考える人であった。その後、神の光に照らされてより、よく祈る人に変った。「見よ、彼は今祈っている」とはパウロについてのキリストの証言である。
 動くだけで考えない人は、頭のカラッポな人間である。考えるだけで行動のない人は、ノイローゼになるだろう。よく考え、よく行動する人は、この世で成功する。しかし、愛のない、不遜な、狭い、暴力的な人間になりやすい。
 祈る、考える、行動する、この三拍子がそろった時、クリスチャンとしての人間像は完成する。
 (一九七九・一〇・二五原家集会にて)
 (1979.10.28週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
喜びのあまり

「一行は喜びのあまり、木の枝を振りかざし、神様の前で、竪琴、琴、タンバリン、カスタネット、シンバルなど、ありとあらゆる楽器を鳴らして、思いっきり踊りました。」
(サムエル下六・5リビングバイブルによる)
 
 これはダビデ王の一行が、神の箱をエルサレムに運ぼうとしたときの、彼らの喜びの様の描写です。ここには敬虔な宗教的雰囲気はありません。あるのは、日本のお祭りのおみこしかつぎのようなにぎやかさです。
 これも又、信仰生活の表われの一面です。神の子らが、幼児のように神の臨在を喜ぶ時、かくあるのも当然でしょう。
 隠者のような瞑想的静かさも、又必ずあるべきであるのも勿論です。
 (1979.11.4週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
キリストに接木せよ

「根がきよければ、その枝もきよい」
(ローマ人への手紙一一・16)
 
 良い木には良い実がなり、悪い木には悪い実がなる。なすに瓜はならず、オリーブにいちじくはできぬ。―――そこで、人間はうまい手を発見した。しぶ柿には甘柿の若木を接木し、西瓜はかぼちゃの根につなぐ。根からの養分を吸って、接木したおのおのは自分の果をそれぞれ産む。
 ところで、神様のなさる接木は植物栽培のそれとまったく反対、その結果がちがう。罪人をキリストという根に接木し、枝である罪人は自分の実をむすばず、根であるキリストの実をむすぶようになる。
 「聖霊の実」をむすべ。(ガラテヤ五・22参照)
 (1979.11.11週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-12-30 16:48 | 日岡だより

No.779 ただ、この儘で…… 2016.12.18

ただ、この儘で……

一、ただ、このままで、一言の申しわけもせず、
  あなたの血汐が、私のために流され、
  そして「我にきたれ」と私に命じ下さるゆえ、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
二、ただ、このままで、一つの黒い汚点すら、
  私の魂より取り去られるのを待たず、
  あなたの血が、すべての汚れを潔め得るゆえ
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
三、ただ、このままで、悩みあるまま、
  多くのもだえと、多くの疑いと、
  内には戦いと、外には恐れと。されど、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
四、ただ、このままで、貧しく弱く、目も又見えず、
  されど、視力も、富も、心のなぐさめも、
  そうです、私の必要なものすべてを、あなたに見出すべく、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
五、ただ、このままで、あなたは私を受け入れ、
  喜びむかえ、許し、きよめ、救い下さる、
  そのあなたの約束を私は信じるゆえ、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
六、ただ、このままで、あなたの無限の愛が、
  あらゆるとりでを打ちくだき、
  今や、私はあなたのもの、しかり、唯一あなたのものであるゆえ、
  ああ、神の小羊よ、私は行きます。
       私はあなたに行きます。
(シャーロット・エリオット女史の名歌。原田美実先生の訳詞を参照して口語訳した。讃美歌二七一番、聖歌二七一番の原歌である)
 
  • 先週の説教「百%を求める神は、又百%許す神」では上掲のシャーロット・エリオットの詩を紹介しながら語りたかったのです。百%の許しの神を知っていないと、人間は失敗した時に立ち上がれません。
  • 聖書はクリスチャンに百%の完全さを要求します。その良い例が、山上の説教と呼ばれるマタイ五章~七章です。「情欲をいだいて女を見るのはすでに姦淫をしているのです」とか、「汝の敵を愛せよ」とか言うところです。ガンジーやトルストイを感激せしめた有名な聖書の箇所であります。
  • しかし、たとえクリスチャンがどれ程信仰を燃やし精進したとしても、彼らもやはり人の子、必ず失敗します。そして、善良で真剣な人であればある程、その失敗に苦しみます。
  • 宗教改革者マルチン・ルターは「クリスチャンの生涯は、日々悔い改めの生涯であるべきである」と言いました。これは、クリスチャンになる時の唯一回的回心あ(日本語聖書では悔改めと訳してある。多少とも誤訳である)のことではありません。クリスチャンになって以後の、毎日の悔い改めをさすのであります。―――ということは、裏返して言えば、「クリスチャンとは毎日罪を犯すものの事である」とも言えます。
  • そんなバカな、と思われるかもしれませんが、気高き聖者程そのように自覚しています。「私は決して罪を犯していません」と言い張る人は、刑務所や大臣や議員諸君の中に多いのですよね。人は聖まれば聖まる程自己の罪を自覚し、汚れた自分を悲しみます。
  • しかし、クリスチャンとはそれだけではないのです。そのような私を百%根こそぎ許して下さる神の愛を信じ、その愛の許しに生かされるのです。
  • それが口先だけの信心、幻想的許しではない証拠に、クリスチャンは日々許されて、逆転的に聖潔にして完全なる勝利的人生を送るのです。百%の完全を求めた神は、又百%の許しを与えて下さる神です。そのようにして百%許されたクリスチャンは百%完全なる人生を送るべき目標をあらためて与えられます。
  • この完全なる人生を、全く完遂したとは決して言えないのだが、それを大胆に求め肉迫する生涯の実例を私供は聖パウロに見ることができます(ピリピ三・12~14)。論理としては循環論法的で矛盾して聞こえるでしょうが、実際にキリストの血により日々許される信仰生活を体験すると、よく分ります。
  • 浄土真宗や、遠藤周作氏の「弱さに徹する」式の信心と違います。現実の生活で勝利し、生きたクリスチャン・ライフを送る男性的信仰であります。
  • 生れつきの気質をあきらめてはいけません。キリストの血により、気質も必ず転換されるものです。
 (1979.10.14週報「キリストの福音」より)
















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by hioka-wahaha | 2016-12-27 09:24 | 日岡だより

No.778 《聖書のことば》4題(「地下教会は今も」ほか) 2016.12.11

《聖書のことば》 
地下教会は今も

「この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした」
(ヨハネの黙示録一三・17)
 
 これは、終末時の地上の経済制度の一端を示す聖書の予言です。戦争中の統制経済を体験している人は、このこわさがよく分る。政府は今、国民の税金や預金にコンピューターをつけて国民総背番号を打とうとしている。時代は刻々二四時に近づいている。共産主義国などでは教会迫害がおこって一部の教会は地下にもぐっている。日本には信教自由の憲法があるので、伝道も信仰も法律的には自由である。しかし、月給と終身雇用制で管理されている多数の日本人国民には本当の信仰と伝道の自由はない。日本にも一種の地下教会が必要である。
 (1979.9.16週報「キリストの福音」より)
 
  
《聖書のことば》 
神を見た者

「神を見た者はまだひとりもいない」
(ヨハネによる福音書一・18)
 
 「神なんてあるものか。あるんなら。あるんなら見せてくれ。この目で見たら信じるよ」などという。こういう人に限って自動車の内や外に神社のお守りやお札をつけたり、下げたりしているものだが……
 地球の引力なるものを目で見た人はまだひとりもいない。地球の引力とか、物質のエネルギーとかは、目には見えぬし、手でもさわれぬ。しかし、その真理をニュートンやアインシュタインは明らかにしてくれた。
 「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいますひとり子の神(キリスト)だけが、神をあらわしたのである」。
 (1979.9.23週報「キリストの福音」より)
 
 
 
《聖書のことば》 
集まりましょう

「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」
(マタイによる福音書一八・20)
 
 たった二、三人でもよい、イエスを信じる者が、イエス様をあがめて集るとき、そこにイエス様の霊は居(い)るのである。そこにすでに教会があるのです。
 一人では、一本のろうそくのように消えやすいが、みんなの群の中にはいると、信仰の火も益々元気よく燃えるものだ。
 ですから、信仰を決心して、これから教会にも行きたいと思った方は、その決心をどうぞ実行されて、日曜礼拝に出席して下さい。教会はいわば、信者にとって母なる家庭であるのですから。
 (1979.10.7週報「キリストの福音」より)
  
 
《聖書のことば》 
三つの愛

「……神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、……はるかに大事なことです」
(マルコによる福音書一二・33)
 
 ひとりの律法学者は、この返事をしたゆえに、イエス様から大変ほめられている。適切な答であったのです。ここには三つの愛がある。(1)神を愛する、(2)自分を愛する、(3)人を愛する。
 ここで言う「自分を愛する」とは、いわゆる利己愛、エゴイズムのことではありません。自分自身の本当の我、神の生命につらなる実存を真理に沿って愛することです。自分を愛することを知らねば、人を愛することができません。そして、神を愛せねぱ、自分をほんとうの意味で愛し得ません。
 (1979.10.14週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-12-20 08:54 | 日岡だより

No.777 牢獄の賛美 2016.12.4

牢獄の賛美

「常(つね)に喜べ、絶えず祈れ、凡(すべ)てのことに感謝せよ」
 これは新約聖書テサロニケ人への第一の手紙五・16~18にあるお言葉です。
 ある時、使徒パウロが、ピリピという町で悪人にいつわりの訴えをされて、無実の罪で牢屋に入ったことがあります。シラスという弟子も一緒でした。ムチで打たれ、足かせをはめられ、石の牢にくさりでつながれ、その牢は一番奥の(多分地下牢)最もひどい所でありました。
 パウロとシラスは、その牢の中で泣いたりわめいたり、ため息をついたりなどしませんでした。ムチ打ちの刑は痛いものです。当時のローマのムチには肉をえぐり取るような金具さえついていましたから。傷も相当ひどかった筈です。その傷から来る発熱で体中がほてっていたでしょう。
 そういう二人でしたが、イエス様のために受ける迫害のゆえに、二人にとってそれは喜びであり、感謝でありました。自然、彼ら二人の唇には、賛美の歌が溢れ出ました。それは決して、やせがまんの、これ見てくれ、というような引きつった声ではありません。本当に喜びと感謝にみちた、しかも神秘な霊的な声でしたから、獄中の囚人たちがみんな静まりかえって聞いていたのです。
 その時、突然地震がおこりました。その監獄の土台はゆれうごき、戸は全部ひらき、みんなのくさりは解けてしまいました。牢番の獄吏はびっくりしてやってくると、このありさま、もうてっきり囚人達は逃げ出したものと思いこみ、責任を感じて剣をぬいて自殺しかけました。パウロは内から叫びました。
「早まってはいけない。みんな逃げずにここにいるよ」
 獄吏はかけ込んでみました。なんと囚人達はみんなおとなしい羊のようにパウロとシラスのそばに逃げもせずにすわっているではありませんか。
「これは神の人だ」
 思わず二人の前にひれ伏しました。早速二人を外に連れ出し、傷を洗い、今度はその水で獄吏は家族一同と共にバプテスマをうけたのでありました。
 
 昭和十九年の秋、私は福岡刑務所(この前までTVでやっていたマー姉ちゃん一家の住んでいた百道海岸のすぐそばにありました)の北一舎六二房にいました。私の囚人番号は九〇二番、厳正独居という奴で、絶対他の囚人と話を許されません。一日二回、看守に返事をするだけ、あとは口をきくこともありません。そのような日々の一日、十一月二十三日でしたが、その日の夕刻、神様の言葉が私の心に下り、私は一瞬にして私の国籍が神の国にある事が分りました。
「愁い多き獄にしあれど主によりて生かさるる身の幸に我が酔う」
 この時、思わず口ずさんだ短歌です。その時から、私の心にこみ上げてきて、とまる事のない感謝と賛美がありました。看守も同囚の雑役も「あんたのような人は見た事がない」とおどろいた程、独りを慎しみ、且つ歓喜に溢れている囚人生活であったわけです。
 私は、その時このパウロやシラスの信仰が少し分ったような気がしました。私は戦争中に刑期を終えて白眼視の世間の中に出てきたのですけれども、その中でも一向悪びれもせず、感謝の歌声はたえなかったように思います。
 今でも不思議に思いますが、青年という青年が戦地にひっぱられている時代に、二十三才の「非国民」の青年が召集も受けずに終戦まで市民生活をしたなど夢のようではありませんか。運動不足、栄養不足の刑務所上がりの身で、当時の軍隊にまわされて、私の刑歴を見られたら、いっぺんに叩(たた)きのめされて死んでしまった事でしょう。
 信仰は感謝をうみ、賛美をわかせます。賛美の歌のある処、運命の転回があり、悪運よりの解放がおこります。そして、ますます人生の自信をわかせるものです。
 (一九七九・一〇・四、佐藤家聖書集会にて)
 (1979.10.7週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-12-10 16:10 | 日岡だより