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No.776 恐れるな 2016.11.27

恐れるな
   ――マルコ福音書第五章三六節――
 
 戦後、日本の山間僻地、津々浦々に、公民館なるものが出来ました。方々にある、あの小さな公民館は日本の社会史にある程度の評価を残すことでありましょう。ところで、二千年前のユダヤにあった会堂というのも、この部落公民館のように町々村々にあったらしくあります。この会堂によって、聖書をよみ説教を聞く、現在の教会礼拝の原型が出来上がっていたのであります。ただし、会堂には専属の聖職者はなく、その代りに会堂の管理人がいました。それはその地方に住む相当の名望家であったらしくあります。
 さてここにヤイロという会堂管理人がいました。彼の幼い娘が重病にかかって死にかけていました。そこでイエス様のところに来て、その足もとにひれ伏して切に願いました。「どうぞ、この子がなおって助かりますように、おいでになって、手をおいてやってください」。当時の上流階級の人々は大体において新進宗教家イエスに対して反感を示していましたので、このヤイロの態度は特筆してよいのであります。
 
 イエス様はこころよく承諾してヤイロの家に来てくれることになりました。ところが途中で、「十二年長血を病んだ女」の飛び入りがあって(マルコ五・25?34)、時間はどんどん経過し、ヤイロはいらいらした事でしょう。やっと長血の女の一件が落着して気を取り直して歩き始めた時、ヤイロの家より使いの者がきました。
 「ご主人様、お嬢さんはなくなりました。もう、先生に来て下さらなくてもよいのではないでしょうか。」
 その使いの者の言葉を聞き流して、イエス様は力強く言うのでした。
 「ヤイロよ、恐れるな。ただ信じるのみだ」
 
 このお言葉は、よく考えてみると、不思議なお言葉です。イエス様を信じ、イエス様にお願いし、イエス様にお供してここまで来た彼に、娘の死の知らせです。そのガクンときているに違いないヤイロに向って、
 「がっかりするな、絶望するな。信じ続けよ」
 と言うのなら分ります。ところが、なぜ「恐れるな」と言うのでしょうか。この時、イエス様はヤイロの深層心理に深く喰い込んで洞察しているのであります。ヤイロは、たしかに娘の死のしらせを聞いて、がっかりし、絶望もしました。しかし、その根にはもっと深い恐怖心があったのです。
 「おれの運命はいつもこうなのだ。
  おれの一生はいつも手おくれであった。
  又、例の悪運がめぐってきたのだ。
  おれの一家は悪霊にとりつかれているのだろうか。
  娘もついに死んだ。
  こんどは何がくるというのだ。
  ああ、たまらない、たまらない」
 
 悪い知らせを聞いたとたんに、心が凍りついてしまって、その事態の好転を予測したり、評価を転換したりすることがへたな人が多いのです。そして、いたずらに前途を悲観して、恐怖心で一杯になるのです。
 私が印刷会社を営んでいる時、ある営業員が大切な原稿を失ってしまいました。彼は顔をまっさおにして今にも鉄道自殺しかねない様子です。人様が一夜かかって書き上げたような書き原稿は他人ではどうにも償ないようのないもので、気の小さい営業員だったら本当に死にたくなるような事件なのです。しかし、私はこういう時こそ、お得意さんと腹を打ちわって話しあえる絶好の機会と知っているから、勇気百倍して出かけるわけです。こういう時に、しばしば心の友、生涯の友が出来るものです。絶望もくそもないのです。神を信じているものなら、恐れず大胆に、信仰一つをもって相手にぶつかっていくのです。そこに、解決のメドがつくものです。
 ヤイロは、イエス様について行きました。すでに娘は死んでいました。しかし、間もなくイエス様の一言によって娘は生きて起きあがり、奥さんは早速、娘のために食事の用意をせねばなりませんでした。
 「死」を聞いても「生」を信じ、「生」を期待しましょう。病気になっても、得意の原稿を失っても、商売が破産しかけても、「恐れるな!」。恐怖をすてると、良い智恵や、良い方法が見つかるものです。
 (一九七九・九・二二説教「最善を神に期待せよ」の一部を筆記)
 (1979.9.30週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-11-30 23:00 | 日岡だより

No.775 悪をなす者のゆえに、心を悩ますな 2016.11.20

悪をなす者のゆえに、心を悩ますな

 ユダヤ人の祖先の一人に、ヨセフという人がいます。ヨセフは少年の時、あまりに父に愛されて他の年長の兄弟十人ににくまれます。そしてとうとうエジプトに奴隷として売りとばされ、その上売られたさきで又も無実の罪を負わされて牢屋に入れられてしまいます。しかしヨセフは兄弟をうらまず神様につぶやかず、行く先々で人に愛され、神の栄光をあらわし、遂にエジプトの宰相となるのであります。
 時に、ユダヤの地ではききんとなり、あの十人の兄弟たちはエジプトに穀物を買いに来て、ヨセフに対面しますが、あまりに出世したヨセフの姿を見て、だれ一人それと気づきません。ヨセフは彼らの良心を呼びさますべく一計を案じます。彼らはその計略にはまってヨセフの前にひれ伏し、「青草のようにしおれ」(詩篇三七・2)ました。この物語は教会学校の生徒に大変喜ばれるお話しであります。
「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。……彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。」(詩篇三七・1?2)
 
 昭和二十年代だったと思います。大分市竹町の商店街で、売り出しの抽選券を持って景品場に行きました。私の四、五人前の人が特等を当てて大さわぎになりました。その時、すぐ次の人がわめき始めました。
「ああ、イヤだ、イヤだ。こんな気持のわるい日はない。なんとイヤな日だ。こんちくしょう。」
 とぷりぷりおこっているのです。なる程、前の人が特等を当てれば、もう今日のくじ箱にいいくじが残っている筈もなく、よく考えれば夢も望みも前の人に先取りされたことになりますから、その気持は分からぬではないが、余りに子供じみた直情さに呆れたことがあります。
 ねたむ心は、同じものを欲しがる心から生じます。その欲望がおさえつけられると、怒りにまで発展するのです。政治家や財界人の不義をいかって共産主義運動の先頭に走っていた男が、一転して大分に来て文芸活動の旗をふって同好者の資金をごっそり持ち逃げした事件がこの前おこりました。
「不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。……怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ」(詩篇三七・1、8)。
 
 人が悪をなし、不義を行うて成功しているように見えても、それは一時的の事です。
 「主に信頼して善を行え」(詩篇三七・3)、迷わず疑わず、あなたの善き道を歩み続けなさい。
 人に打たれ、迫害される時も、
 「主によって喜びをなせ」(詩篇三七・4)、万事を見通し給う神様を信じる時、喜ぶ事も出来ます。
 いかに困難を感じても、マラソンの選手が一着を求めて苦しいコースを走るように忍耐して走るのです。
「あなたの道を主にゆだねよ。……耐え忍びて主を待ち望め」(詩篇三七・5、7)。
 これは、聖書では預言者的忍耐といって、積極的忍耐心をさします。ウジウジした消極的忍耐とは違います。
 
 冒頭に紹介したヨセフという人は、最後に十人の兄弟を前にしてこう言いました。
「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました」(創世記五〇・20)
 悪を良きに変らせる、宇宙の主宰者、ただ一人の神様を信じましょう。
 (一九七九・九・一三、中野家家庭集会にて語る)
 (1979.9.23週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-11-29 14:31 | 日岡だより

No.774 《聖書のことば》4題(「小事に忠実なれ」ほか) 2016.11.13

《聖書のことば》 
小事に忠実なれ

「小事に忠実な人は、大事にも忠実である」
(ルカによる福音書一六・10)
「わずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」
(マタイによる福音書二五・21)
 
 人びとはよく大きな金塊をさがします。しかし、めったにそんなに大きな金塊は見つからぬものです。慣れた人は砂の中から、小さな小粒の金を砂といっしょにすくって、鍋でより分けます。そしてそれらの小粒の金をとかして大きな金塊にするのです。
 突然、映画会社にスカウトされて一躍スターになったり、遠戚のおばあさんの莫大な遺産がころがりこんだり、一夜にして聖者に生れかわったり、そういう大金塊の夢はすてて目前の小さな仕事をやりとげなさい。
 (1979.8.19週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
いっしょに喜びたい

「女の人が銀貨を十枚持っていました。ところが、どうしたことか一枚なくなってしまったのです。この女はランプをつけ、家の中をすみからすみまで掃除して、その一枚を見つけるまで、必死で捜し回るでしょう。そして見つけ出したら、一人ではもの足りず、友達や近所の人を呼び、いっしょに喜んでもらうでしょう。」
(リビング聖書より、医者ルカの記録
一五・8~9)
 
 こういう女の人は、甚だひとりよがりで、はた迷惑な感じもします。
 しかしもし、その銀貨一枚を捜した熱心さで、私の失せものをも一緒に捜してくれたらどうでしょう。彼女は多分、喜びのあまり、又捜しものの自信も手伝って、それをやってくれるでしょう。
 伝道とはあたかもそういうことではないでしょうか。
 (1979.8.26週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
イエスの賞賛

「この女はできる限りの事をしたのだ」
(マルコによる福音書一四・8)
 
 ベタニヤ村のマリヤという女性が、イエス様に高価な香油をそそいだのです。
 そばで見ていた弟子がおこりました。「何という浪費だ。これを貧乏な人達にほどこせばよいのに。」こういった弟子達の非難を制して、イエス様はこのマリヤの行為を喜んで受けられました。
 「これは私の十字架の死のよき準備(象徴的予表)である」と受けとめて、「あなたは、できる限りの事をしてくれたのだ」とマリヤをほめなさったのです。
 人のした事に難クセをつけるのは悪魔ですね。イエス様は逆に、本人も気づかぬ意味をその行為に汲み取ってほめて下さるのです。
 (1979.9.2週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》 
神の前に正しいかどうか

「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか……」
(使徒行伝四・19)
 
 元中核派闘士Kという男、横領罪で大分に逃げてきて、同人誌「文芸大分」なるものの中核にすわり、又も金と人妻を持ち逃げ(?)して行方不明との事。大した共産くずれ。
 共産主義というもの、最大の人間信頼派であるのだが、事実は最も人間不信の人間をつくりあげている。
 ヒューマニズム、ヒューマニズムというが、神なきヒューマニズムほどこわいものはない。神なき文化、神なき科学、神なき芸術、神なき哲学、神なき人間尊重、すべては、その主張する処に反して人間に逆き、人間を破壊する結果を招くのです。
 (1979.9.9週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-11-19 10:57 | 日岡だより

No.773 今、立ち上れ 2016.11.6

今、立ち上れ

一、自己憐憫(自己をあわれむ)は自殺行為の一つである。
 「兄弟にむかって愚か者と言う者は裁判にわたされ馬鹿ものと言う者は地獄に投げこまれるであろう」とイエス様は言われました。それなら、自分に対して、「おれは馬鹿だ、、私はダメだ」と言う人は、自分に対して殺人罪(つまり自殺)を犯しているのに等しいのではないでしょうか。
 聖書は「友のために生命をもすてる」大いなる愛を説いてはいますが、これは肉体的生命のことであって、決して自身の霊性を滅し、又損傷することをすすめているのではありません。かえって「自分自身を憎んだものは一人もいない」(エペソ五・29)と言い、「自分を愛するように人を愛しなさい」と言って、自分以上に人を愛せよとは言っていないのです。人はまず神を愛した次には自分自身の霊性を尊重し愛さねばなりません。
 自分を憐れみ、時には自分をのろいさえする人もありますが、これは自己自身に対する反逆であり、ひいては人間を造り、これに霊の息を吹き込みたもうた神様への反逆であります。
 
二、自己憐憫の人は他人に迷惑である。
 新約聖書のヨハネ五・1~9を読みましょう。ここに出てくる人物は自己憐憫の標本のような男であります。彼は三十八年間病気をわずらい、遂にこのベテスダの池に来ました。この池に天使が来て水をかきまぜる時、一番早く水に入るものは病気がなおると言うのです(今で言うなら間歇泉で新しく湧き出る水にはラジウム線が強いので病気によく効くとでも言うことでしょうか。ともあれ、聖書を学ぶ時、こういう合理的解釈にあまり時間をかけないほうが良いのです)。
 しかし、この池に来たものの誰も彼をかかえて水に入れてくれる者がいない。そこで彼の心には三十八年来のにがにがしい気持、不平、不満が一杯になって言うこと為すこと一切が周囲をいらいらさせ、人を遠ざけてしまう。自己憐憫の人は、人を傷つけようとする悪意は一つもないのだけれども、事実は周りの人に迷惑な存在になってしまうものなのです。
 
三、自己憐憫の人は行き止まりの人である。
 この三十八年病気の人に、イエス様は「なおりたいか」とお聞きになる。これはエリコのバルテマイに、「どうしてほしいのか」と聞いたお言葉にくらべるとずいぶん水準を下げた問いかけです。この問には、答えは「はい、なおりたいです」と答えるだけでよいと思うのに、この男は
 「誰も私を水に入れてくれません」
 と問われもせぬ事を言い、責任を他に負わせ、不平不満たらたらです。
 こうして、自己憐憫の人は一歩も動こうとせず、不平不満の中にすわりこむ悪いくせがあるのです。
 
四、イエスのあわれみ
 聖書の他の場所をさがすと、イエス様はたいてい、いやしの前に信仰を求めています。特にこの男は過去に犯した罪の故に病気になっていたらしいのですが、イエス様はこの男に悔い改めも信仰も求めず、ただ彼の長い病気の悩みに目をとめられました。これは実に特別な恩寵であります。悔い改めて信じて救われるのが正常な入信の道でしょうが、イエス様の直接の救の道は時折ケタはずれでありまして、常道をとびこえて救われるのであります。
 
五、起き上れ
 イエス様は、その男に悔い改めも信仰も要求しなかったかわり、三つのことを命じました。第一に起き上ること、第二に床のマットを取り上げてかつぐこと、第三に歩くこと。
 こういう時、イエス様は手を取ってやることがよくありますが、この時はなさいません。この男がまず自力で起き上るのを待っています。じっと見つめています。男は御言によって一人で起きました。起きればマットを持つことも割合かんたんです。そしてドンドン歩いて行ってしまいました。イエス様のお名前さえ聞かずに。
 自己憐憫の人に最も必要なことは、この起き上ることです。坐りこまないで、動きはじめることです。為すべき小さなことにでも、早速手をつけることです。心の耳をすましてごらんなさい。ほら!「今、たち上りなさい」と主があなたにも言われているでしょう。(一九七九・七・一二 中野家集会にて)
 (1979.7.15週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-11-17 09:19 | 日岡だより