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No.772 《聖書のことば》4題(「人の罪過を見出したとき」ほか) 2016.10.30

《聖書のことば》
人の罪過を見出したとき

「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい」
(ガラテヤ六・1)
 
 姦淫の女を責めたてているユダヤ人らに、イエス様のなさった態度もこれでした。
「あなたがたの中の罪のない人がこれを打て」
 本気で自分を反省すれば、相手を責める気はなくなります。かえって「何か改善の方法はないか」と、相手を正しくしようとする優しい配慮すらわくでしょう。こういう態度なくては、人は変りません。
 (1979.7.8週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
聞こう

「耳のある者は聞くがよい」
(マタイによる福音書一三・9)
 
 だれも耳は持っている、その故に世の声を聞くことはやさしい。しかし、神の声をきくことはむつかしいのです。
 今、私の住んでいる処は低い土地で、二、三メートルも地面を掘ると水が出ます。しかし良い水ではありません。ところが三十数メートル掘ると醸造用にも使える良い水が出ると故老は言います。
 イサク(族長、アブラハムの子)はすべてのいさかいが終り平和に仇が去った日、新しい井戸をみつけました(創世記二六・32)。
 あなたの心の耳からも、すべての喧騒と紛争を去らせ、深い神の声を汲み上げましょう。
 (1979.7.15週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
縁(えん)

「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている」
(ヨハネによる福音書一五・3)
 
 キリストの言葉(あるいは聖書のことばと言ってよい)にふれるということは、人生にとって最大の機会です。これは神にむすびあわされる、神よりの撰別の時と言ってよいからです。
 日本人には、こういう時、「縁」という言葉が分りやすいかもしれません。ただし、無媒介的な偶然の縁ではなくて、神よりの御意志として撰別された縁なのです。
 この縁を「ありがたい」(有ることむつかしい)機会として、初めて聖書にふれた方も是非大事にしてほしいものです。
 (1979.7.29週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
言葉は生命である

「きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ……」
(申命記三二・46)
 
 人間の脳の中でも言語野は他の動物と全く異る。これが人間を人間たらしめる。
 言語こそ、ものごとを抽象化し、それを論理的に収納し展開する思想の道具である。
 人間の生命が、動物的生命をぬきんでるのは、この言語的生命をもつからです。
 そして、聖書は、まことの言葉が神から出て、これが肉体化して人間の中に宿ると言っています。
 キリストの言葉が、私の中に宿る時、私の生命はキリスト化し、私の肉体はキリストの枝となるのです。
 (1979.8.5週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-10-31 23:00 | 日岡だより

No.771 意志を強くする秘訣 2016.10.23

意志を強くする秘訣

 たいていの人は、「自分は意志が弱い」と思っています。しかし、それは誤解です。人間は、意志が強固な存在です。ただ残念なことに、多くの場合、人々の意志はマイナスの方向に強烈に働くのです。
 最も強いのは「生への意志」です。次に「快楽への意志」です。ただしこれが、食うこと、飲むこと、バクチや身を飾ることなどにのみかたむく。そしてだれがとめても、止まらない、ということが多いのです。マイナス的方向に意志が強固なのですね。
 
 かって、私(釘宮)の家であったこと。ふと気がつくと子供たちはみんな、夜寝る前に歯をみがくという良い習慣がついていました。私は決して夜歯をみがいたことなどありませんのに。夜おそく、私が甘いものをほおばりながら、子供たちにすすめると
「歯をみがいたあとだから、もういらないよ」
 と言います。私ひとり、カッコわるくお菓子をたべているという、家庭の風景が一時ありました。
 これは大変有益な教訓でした。甘い食べものは、生の欲望と快楽の欲望のむすびついた大変強固な欲望のはずです。しかし一度歯みがきしてすがすがしくなった口からは、「見るにうるわしく食べるにおいしそうな」お菓子の誘惑にも乗ぜられない更に強い意志が働くようでした。(聖化論のよい材料ですよ)
 
 私はこの時、この良い習慣が気に入ったものですから、早速子供たちの真似をして歯みがきを始めました。時々、忘れる夜もありましたが、ともかく続けました。そして今ではすっかり私の習慣になっています。さて、この時大切なことは、一回でも歯みがきを忘れた時です。この時、
 「ああ、おれは意志の弱い男だ。とうとう歯みがきを忘れてしまった。恐れていたんだ、こうなるのを。いつも俺はこうなんだ。決心して、やり始めるが、失敗する。ああ、もうだめだ。やめた、やめた」
 と言う人はいないでしょうか。歯みがきくらいのことならそんな人はまさかいないでしょう。しかし、タバコをやめる、というような事になると、もうぼつぼつ頭をかく人がいはしませんか。まして、セールスに行って玄関で断られた。見合して破談になった。また職をしくじった。こうなるともう完全にさき程のせりふを心の中でつぶやいているような人が多いのではないでしょうか。
 ここで問題を要約します。
 第一、意志を転換(もしくは選択)すること。
 第二、その意志を持続しつづけること。たとい途中失敗があっても気落ちせずに維持することです。
 これが、意志を強くする秘訣です。
 
 〔附言〕
 人間の魂の根底にある罪の意志に気づき、これを転換させて神に対して従順な道を選択するとき、それを回心と言います。
 (神様の側から言えば、いろいろ手だてを講じ、衝撃的な神秘体験を与えて回心を迫ることもありますが、要するに必要な事は本人の意志の転換です)。
 この根底的な意志転換がないと、人間の罪に深く根ざした悪習や罪の生活からの脱却は不可能です。まして神に対する罪は許されません。
 この回心をもたらすもの、また極度に困難な意志の転換を要する時、私たちを助けてくれるもの、それはキリストです。
 キリスト自身、御自分の意志を父なる神の意志に従わせようとして、血の汗を流して祈ったことがあります。その祈りの最後は、「私の意志ではなく、あなたの御意志をなさってください」と言うのでした。死と恥辱と身代りの罰を受けなさることは、キリスト自身、血を流して祈るほどつらいことでした。
 このキリストの血を今、私たちの心にいただき、このキリストに頼るならば、どのような意志転換も可能です。(一九七八・一二・一〇礼拝メッセージより)
 (1979.7.1週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-10-29 14:43 | 日岡だより

No.770 《聖書のことば》2題/あなたも燃えて生きないか 2016.10.16

《聖書のことば》
御言(みことば)の力

「御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」(ヤコブの手紙一・21)
 
 人生の夕ぐれ、年老いて病み、痴呆症状態となってやってくる人々を迎える、ある老人医療施設で。言葉のかなわぬ人や、失語症の人に言語治療士が指導にあたる。
 その言語治療士がクリスチャンだった。時を見計らって聖書の言葉を読んで聞かせる。その時、老人達の心に大変化がおこった。
 何でも忘れてしまう彼らだのに、聖書だけは忘れない。集会の時間を今やおそし、と待ちかまえている。素朴な愛の行為をつくして、しかし、それはやはり、けろりと忘れ果ててしまう。
 今年の「あかし文学」入選作の一つにある実話――、おどろくべき御言の力!
 (1979.6.24週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
家族のための箱船

「信仰によって、ノアは……家族を救うために箱船を造り、……」(ヘブル一一・7)
 
 ノアは家をよく治め、家族を愛していましたから、神様もノアとその家族を愛して下さいました。ノアは神の言葉を信じ、山の上に巨大な帆もなくかじもない舟を造りました。
 なぜなら、それは航行する為のものではなく、山をもおおいつくす大洪水の上に浮ぶためのものだったからです。このばかげた大工事に家族もノアを信じてよく従いました。この大浪費に妻も一言の文句もありませんでした。
 「あなたもあなたの家族も救われる」ためには(使徒行伝一六・31参照)、単にセンチメンタルな信仰ではなく、箱船を造るほどの信仰と、家族の信頼が必要なのであります。
 (1979.7.1週報「キリストの福音」より)


あなたも燃えて生きないか

 最近、出版された本に、「なぜ燃えて生きないのか」というのがありました。まさに、最近は、燃えない、シラケた、冷えた人々の時代なのですね。
 さて、聖書の神は、燃える火のような神です。アブラハムとの契約に火、モーセを導くのも火、預言者エリヤを天に迎えるのも火。
 キリストは言われました。「わたしは地上に火を投じるために来たのだ」(ルカ一二・49、50)と。キリストご自身、火のような方です。
 そして遂に、キリストの十字架と復活ののち、五十日程たって、彼の霊(聖霊)は百二十人の弟子達に一人一人に分れて下りました。あたかも火の舌のように。これが、教会のはじまりです。
 以後、各時代の聖者や、偉大な宣教者たち、すべてはキリストの火に燃える人々でした。火は燃え移ります。元火はたとえ小さくても、燃える材料があれば、いくらでも燃えひろがっていきます。
 火はすべてを焼いて、過去を消し去ります。火はあたたまりをもって人を集めます。火はあかりとなって周りを照らします。火は金属をとかしてこれを精錬します。火は燃えて野獣を恐れさせます。
 さて、この時代は燃える人を期待しています。利得や肉欲のためではなく、神と人のために燃える人です。今は火のない、暗黒と乾燥の時代です。だからこそ、自ら燃えて、人を燃やす人が必要なのです。
 あなたが、キリストの霊にふれるなら、あなたは本当に燃える人になるのです。(一九七九・六・三主日説教「聖霊があなたに下る時」の要約)
 (1979.6.17週報「キリストの福音」より)
 


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by hioka-wahaha | 2016-10-22 12:51 | 日岡だより

No.769 私はすでに死んでいるのです 2016.10.9

私はすでに死んでいるのです

 本間俊平、彼は明治、大正、昭和にかけて非行少年の父、秋吉台の聖者とうたわれ、その元気のよい著書は当時のベストセラーとなりました。
 ナマの日本人が熱血をむき出しにして、学歴なき労働者のあらくれ魂でキリストを信じたらどんな人間になるか、そのよい見本が彼でありました。
 本間俊平が、そういうすぐれた人物に成長した原因の一つは、彼の両親の死にあるようです。
 青年俊平は誤解をうけて失職し北海道小樽で両親と別れ東京に出ます。当時明治二十七年日清戦争のさなか、大倉組に拾われて軍需労務にたずさわり朝鮮にわたります。それは軍事行動の一環ですから当然極秘とされ、両親には音信不通。その間老いた両親は小樽より函館までトボトボと無銭旅行の末、十一月十二日寒風吹きすさぶアイヌ漁村の小屋の軒下で手を取り合って凍死するのです。
 戦争が終って日本に帰った俊平はこれを聞いて号泣しました。この悲惨な両親の死をその後夢の間も忘れることができなかったでしょう。この事が本間俊平の人生に発奮をうながした事は疑いもありません。
 
 太平洋戦争直後、フィリピンで戦犯となって逃げていた男、ある処で親友と二人でかくれていました。そこへMPと現地民にふみこまれ、思わず彼Aは親友Bをすてて逃げ去りました。
 その後Aはどさくさにまぎれて日本に帰りましたが、占領下の日本では戦犯として安じて眠る処もなく、故郷にも帰れず、Bのことで良心もとがめて気分も重い、ついに放浪と淪落の人生。山谷のドヤ街でアル中で倒れている時、浮浪者伝道のK牧師に会いました。
 K牧師はAの口から彼の名を聞いておどろいて言いました。
「Aさん。私はあなたをずっと探していましたよ。もうあきらめていましたがね。あなたはB君を知っているでしょう。」
「B君! どうして彼の事をあなたは?」
「彼はフィリピンの刑務所で死にました。私はその時、死刑執行の立会人だったのです。死刑の寸前、彼は言いました。私の本名はBです。私の事を日本に帰ったら、私の親と、そしてAに知らせて下さい。私はAの名で捕えられ、Aの名で死んでいきます。これは自分で承知でした事です。彼は親友でしたからね。彼に安心するように伝えて下さい、と。」
 Aは茫然として声も出ません。牧師は言う、
「だからAさん、あなたはもうBさんの死刑と同時に死んでいるのですよ」
「ホントです。―――すると、今ここに生きているのは?」
「あなたではなく、Bなのですよ」
 実は、このフィリピンの身代り戦犯の話は架空の物語です。しかし、終戦当時としては、よくありがちな事でした。
 
 さて、キリストの死はこのB以上の事です。彼は親友のために死にましたが、キリストは不信不義のもののために死んでくれました。
 キリストの十字架において、私も同時に死んでいます。これは「死んでいる」という実感以上に、一種の「法的事実」なのです。
 「現に私は生きているけれど、生きているのは私ではなくて、私の中にキリストが生きているのだ」
 これを肉体的生命感覚として捉えようとすると分らなくなります。しかし、私のために死んで下さったキリストを慕い、痛悔し、感動し、感謝し、従い、仕える熱情のおこる時、私の中に新しい人格が形成されます。それが内なるキリストです。あたかも、本間俊平が両親の死を生涯胸に抱いて生きたであろうように。
 テレビの機械に電気がいり、その回路がウォーミングアップされる時、遠くのTV局の映像がブラウン管に写ります。私どもの胸にキリストを思う心の熱くなる時、キリストの生命は私どもの心にはっきり写ります。
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ人への手紙二・19下~20中)
 (一九七九・六・七夜 中野家家庭集会にて)
 (1979.6.10週報「キリストの福音」より)
 


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by hioka-wahaha | 2016-10-15 14:56 | 日岡だより

No.768 《聖書のことば》4題(「きかない薬」ほか) 2016.10.2

《聖書のことば》
きかない薬

「彼ら(記者註・偽預言者、偽宗教家どものこと)は、手軽にわたしの民の傷をいやし、平安がないのに『平安、平安』と言っている」(エレミヤ書六・14)
 
 戦後すぐ、私の母が突然高熱を出し、頭が痛いといって床につきました。医者につれていくと、「これは丹毒だ」と言って、黒い液体のイヒチョールという薬をぬってくれました。
 「間もなくなおる、そのうちよくなる」と医者が言うので安心していました。ところが、それでは駄目でした。その後よい薬が手に入りまして、すぐ快復しましたが、あのままでしたら、母は死んでいたかもしれません。
 この世の宗教家や道徳家は処世のための心がまえ身がまえを教えてくれます。良い事ではありますが、重病にはきかないのです。
 (1979.5.27週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
聖霊の力

「万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである」
(ゼカリヤ書四・6)
 
 キリスト教の全体を像を一言で言えば「神の栄光」です。しかし、私どもに最も身近く接する教理として言えば「十字架によるあがない」です。
 ところが、私たちの中に信仰を実現させる力としてのキリスト教の重要な武器は「聖霊」です。キリスト教は聖霊の宗教だと言っても、あながち過言ではないでしょう。
 聖書を読むとき、聖書の教えを聞く時、祈るとき、賛美を歌うとき、瞑想する時、そして日常生活のすべての時に、神は聖霊をもってあなたの心と霊に働きかけるのです。
 (1979.6.3週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
燃える人生

「お互の心が内に燃えたではないか」
(ルカによる福音書二四・32)
 
 最近ある仏教の人が「なぜ燃えて生きないのか」という本を出しました。現代は燃えない時代なのでしょうか。
 百年ほど前、電気の法則で有名なファラデーが(その時すでに七十才の老人でした)、少年少女を相手に「ローソクの科学」というお話をしました。
 日本のローソクはシンに穴があって燃えやすいのだというようなお話から始まって、人間の生命の燃焼にまで及ぶわけです。
 少年少女の未来よ、炎のように燃えて輝けと、この老人は熱望したのでした。
 人間を本当に燃やすものは、聖書です。
 (一九七九・六・二毎日新聞「変化球」を参考に)
 (1979.6.10週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
めざとく ほめる

「あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れた」
(ルカによる福音書二一・3)
 
 イエス様は宮のさいせん箱のそばで、金持たちがたくさん投げ入れるのを見、また貧しいやもめが銅貨を二枚入れるのを見て、右のように言ったのです。
 心からする謙遜な献金は少額でも、高慢な心で見せびらかしてする多額な献金にまさります(日本の教会は、むかしから献金の個人額を公示しませんが、これはよい習慣だと思います)。
 この時、イエス様は、小さいことに目をとめて、これをほめて下さいました。かくれた良いことを目ざとく見つけて、それを賞賛しましょう。人を育てる秘訣です。
 (1979.6.17週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-10-08 14:17 | 日岡だより