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No.767 《聖書のことば》ほほえむ/イエスは神である 2016.9.25

《聖書のことば》
ほほえむ
 
「あふれるばかり感謝しなさい」
(コロサイ人への手紙二・7)
「いつも感謝していなさい」
(コロサイ人への手紙三・15)
「すべての事について、感謝しなさい」
(テサロニケ人への第一の手紙五・18)
 
「ものが言えない私は
ありがとうのかわりに ほほえむ
朝から何回も ほほえむ
苦しい時も 悲しい時も
心から ほほえむ」(水野源三)
 強度の脳性麻痺で身動きできず手足も動かぬ水野源三さん。この三十年間まばたきすることと、ほほえむことだけの生活。信仰が輝いて溢れている。その彼の詩です。
 (1979.5.20週報「キリストの福音」より)



イエスは神である 

 新約聖書のマルコ一〇・17~31を見ると、そこにある青年がイエス様にたずねているところがあります。
「よき師よ、永遠の生命を受けるためには何をしたらよいですか」
 イエス様がユダヤ古来の十戒を教えますと、「イエス様、私はその殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗むなかれ……、そのようなことはみんな守っております」
 日本人で言うなら、「わしは教育勅語のとおりにまっすぐに生きとる。信仰なんか不要だ。信仰などは、意志の弱い人間のすることだ」という具合です。
 そこでイエス様は一喝される。
「お前には、もう一つすることが残っている。お前の全財産を売って貧しい人々にほどこせ。そして私について来い」
 これで青年はおったまげて帰っていくのです。ここが、この青年の足らない処で、せっかく人生の良師に会いながら、自分の至らなさを見せつけられると、ざんげして更に随身の道を問うべきなのに、一目散に逃げていくのです。
 
 ところで、この時このありさまを見ていた弟子たちの反応が面白いのです。口々に言う、
「それなら、だれが救われる事ができるでしょう。大変なこった」
 
 イエス様は彼らをじっと見て
「人には出来ないことも、神には出来る――」
 第一の弟子ペテロは、はっとして叫びました。
「そうだ。現にぼくらはこうしてイエス様についてきているではないか。親父も商売も捨ててついてきているではないか」
 みんなも、目がさめたように一切をすててイエス様に従ってきている自分達に気づきました。
 それなら、なぜあの青年はイエス様から逃げていったのでしょう。
 
 あの青年がはじめイエス様に「よき師よ」と問いかけた時、イエス様の返事は実にそっけないのです。
「なぜ私を、よき師よと呼ぶのか。神ひとりのほか善きものはないのだ」
 この返事は実に逆説的です。クリスチャンとはイエスを神と信じる者。そうすると、このイエスのお言葉は実に不思議で、禅僧が好んで使う謎のような「反対ことば」だと思っています。
 ペテロが最初の出会いでイエス様にふれた時、その神性にびっくりして
「主よ、私を離れ去ってください。私は罪ふかいものです」
 とひれ伏したものです。ペテロはイエスの神性にふれて一言のつべこべも言わずに従って行きました。「よき師よ」などと言っている、あの青年はイエスを当り前の人間、ただし一級の教師ぐらいに思っていましたから、けっして従って行き得ませんでした。
 イエスは神であります。その彼の神的わざが働かなければ、だれもすべてを捨てて彼に従うなど出来るわけがないのです。
 (一九七八・一二・一七礼拝説教「樹は熟した実を人に与える」より、吉田一行兄筆記、釘宮編)
 (1979.5.20週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-09-30 23:00 | 日岡だより

No.766 聖書のことば4題(「事実」ほか) 2016.9.18

《聖書のことば》
事実

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネによる福音書一一・25)
 
 キリストを信じた者も、信じない人と同じように、病床や交通事故や戦争や、はたまた老衰などで死んで、そして再び生き返りはしないように見える。この限りでは前述のイエスの言葉はウソのように見える。
 しかし使徒パウロは言う、「事実、キリストは……死人の中からよみがえったのである」と。パウロは当初のキリストの復活を肉眼で見たわけではなかったのに、キリストの復活は「事実」であると証言する。死んでも死なない永遠の生命が、自分の中にあることを、事実としてパウロは握っていたのである。
 (1979.4.15週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
実をむすべ

「ひでりの年にも憂えることなく、
絶えず実を結ぶ」
(エレミヤ書一七・8)
 
 作物(さくもつ)にとって、ひでりは大患難であります。地中にどれ程栄養分があっても水分がなければ少しもそれを吸うことができません。ところで、そばに川がある木は根をいっぱいにのばして水と栄養を吸い上げるのです。実は絶えずみのります。
 この世にはたくさんの「神がよしとされる」栄養分がたくさんあります。物も金も地位も学問もそうです。それらが真に朽ちることなき実をうんで、それを永遠の彼方まで持っていけるかどうか。それは神の生命の水があなたにあるか、無いかにかかっています。
 (1979.4.29週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
キリストの形ができるまで
 
「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする」
(ガラテヤ四・19)
 
 クリスチャンは、キリストの花嫁であります。しかしあまりに幼い時は、インドの幼い婚約者のように、ままごと遊びに打ち興じるだけで、受胎能力もなく、まして胎児の形もできません。
 クリスチャンが、一人前のキリストの花嫁として、彼の心の内にキリストの似姿をみごもるまで、魂の義父であるパウロは産みの苦しみをすると、ここで訴えているのです。ただ、悲しいことなのは、多くのクリスチャンがキリストの種をすでに受胎しているのに、そのことを自覚しない事であります。
 (1979.5.6週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
神は悪を良きに変えられた
 
「……神はそれを良きに変らせて……」
(創世記五〇・20)
 
 次のようなイメージを、あなたの頭の中に絵をかくように、えがいて下さい。
「地球がある。地球に大きなポンプがすえてある。ポンプの下は、どろどろした真っ黒な汚水。そのポンプを押すと、あにはからんや、きれいな水がジャブジャブ出てくる」
 これは現在やっている聖書研究会での宿題の一例。創世記第五〇章の主要テーマ「神は悪を良きに変えられた」を記憶する為の便利なイメージ法です。
 地球は創世記を示し、ポンプは第五〇章のことなのです。真っ黒のドロドロの汚れが、きれいな水にかわってほとばし出る、神は悪を良きに変えられるのです。
 (1979.5.13週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-09-24 15:32 | 日岡だより

No.765 困難にぶっつかった時 2016.9.11

困難にぶっつかった時

 一、人生は火事にあった家のようなものである、と仏教では教えます。火事の現場に行ってみると、出火して逃げまどう被災の人たち、物見高い愚かなやじ馬の連中、そして消火にあたる勇気ある人々、それらのすべての人の上に火の子は舞うのであります。
「人が生れて悩みを受けるのは、
火の子が上に飛ぶにひとしい」(ヨブ記五・7)
 たしかに、火は家財を焼き、家をもやし、人を無一文にします。しかし又、火は金属などをきたえ、純粋にするのであります。
「彼(神)がわたしを試みられるとき、
わたしは金のように出て来るであろう」(ヨブ記二三・10)
 ロシヤの格言に「ハンマーはガラスをくだくが、鋼鉄を強くする」というのがあるそうです。
 私は中年すぎて、事業をはじめて三年目の頃、最大難関の中で、この格言をカール・ヒルティの「幸福論」の中で学び死にかけた不死鳥が生き返ったかのように元気を取りもどしたことがあります。ですから、おそって来た困難を「何か思いがけないことが起ったかのように驚きあやしむことなく」(第一ペテロ四・12)、学校の子供が宿題をもらったかのような態度で受け取るべきなのであります。

 二、徹すれば通じる。(世間では「窮すれば通ず」と言うが、それでは少々捨てばちで消極的です)。信仰をぬきにした処世論としても、これは推賞できる真理です。こういったたぐいの本で抜群なのは、デール・カーネギーの「道は開ける」です。この中に、問題を解決する為の三法則がのっています。すなわち、
1. ぶっつかっている問題を冷静に観察し分析し、その結果を考える。
2. その起こってくるであろう結果の最悪の状況を覚悟する。
3. そこで、考えられる解決策のすべてを列記し、その良策と考えられる点と時間の制限をにらみあわせて順位№をつけ、早速№1より手をつける。
 右の三法則の中の第二を「不可避なことは受容する法則」と言います。交通事故で足を失った人は、もう二度とその事をくやまず、足の無い事実を受け入れて心のエネルギーを他のことにまわせ、と言うのです。
 私は若い時どもりでした。今でもどもると言えばどもるようです。何度か矯正所にいきましたが、矯正用語が上手になるだけで、社会にもどれば元のまま、困りました。今のようにスラスラしゃべり出したのは内在のイエス様が本当に分ってからです。ところで最近、大分県教育センターの言語治療室に佐世先生を訪ねて聞いてみたら、最近の方法はどもりを治すのではなく、どもりを受け入れて、大胆にどもるように指導するのだそうです。これこそ、この第二法則ですね。
 神経質の療法で森田正馬博士の「あるがままに受け入れる」という方法は、今ではもう世界的に有名であります。たとえば、不眠症の人に「無理に眠ろうとせず、不眠症の自分をそのまま受け入れて、眠らずにいなさい」とすすめるのです。
 ヨブは言います、「われわれは神から幸をうけるのだから、災をも、うけるべきではないか」(ヨブ記二・10)。災がきたら、これから逃げようとしないで、真正面に受取るのです(体ごと真正面に球をとるのが野球の守備の原則であるように)。
 イエス様はゲッセマネの最後の夜で、来たるべき十字架の死を「御心のままになさせ給え」と受けとめました。苦悩を満ち足りるまでに受け、にがい杯をのみほし、おのれを打つものにほおをむけることは、かえって苦難や八方ふさがりの状況より脱出する道の第一歩なのであります(哀歌三・1~33を参照して下さい)。

 三、「十字架のメドを通って」。これはかって聖燈社から出た腎臓結核の女性の信仰闘病記で、よく読まれた本の題です。メドとは針の穴のことです。十字架にも針の穴のようにメドがあるのでしょうか。
 ①針の穴でも、そこからすかして見ると前方の景色が、一風変った感じで見えます。
 さて、十字架のメドを通して世の中を見、艱難や問題を見ると、どのように見えるでしょう。あなたの問題となっている、不眠症や、おしゅうとさんの事や、事業不振や、子供の不従順、それらをキリストの血汐流れる十字架を通して見るのです。
 ②針はあらゆる布地をくぐりぬけて行くように、十字架も又、あらゆる問題をくぐりぬけて行く力があります。あなたの罪も、罪意識も、病気も、家庭も、事業も、あなたの人生のすべてと宇宙のすべてをも。
 ③あなたがもしその十字架のメドにあなたのすべてを委ねるなら、糸が針について行って二枚の布地を一枚に縫いあわせるように、あなたの人生や社会観の矛盾する処をすべて縫合する事ができます。十字架は一切を止揚して一つに帰せしめる神の秘儀です。
 「この十字架によって世は私に対して十字架につけられ、私の世に対するも又しかり」(ガラテヤ六・14)とパウロは言います。あなたは信仰の第一の入り口でキリストの十字架のあがないにより罪を許され神の子とせられました。その原点に帰って、あなたも、あなたの困難・試練・障碍ももろともに血汐にとかされてしまうとよいのです。(四月一八日夜祈祷会の「苦難や障碍に処する道」というメッセージの要約)  
 (1979.4.22週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-09-17 12:26 | 日岡だより

No.764 クリスチャンの成功法則 2016.9.4

クリスチャンの成功法則

 一、成功の法則

 この地上で、人が成功するための心の法則のようなものがあります。それはイエス様の十字架と復活を信じる福音の中心意義とは少々はなれた処にあります。しかし、イエス様の教えにも、またイエス様を信じるすぐれた信徒達の生活にも、この成功法則にぴったりするものがたくさんあります。V・ノーマン・ピールの本や趙ヨンギ先生の説教にも、それがしばしば顔を出すのであります。いわゆる「成功の法則哲学」はキリスト信仰の最重要の面を欠いているが、しかし逆にそのすべては聖書の中に見出されるのであります。
 三浦綾子さんは初め、「あなたはキリスト教信仰を表面に出しては作家として成功しませんよ」との忠告を受けましたが、彼女は作家として成功することよりもキリストを信じる信仰表明することを第一の目的と考えました。―――この目的をはっきり抱くこと、これが世に言う成功の第一法則であります。
 この三浦綾子さんの最近の本に「天の梯子」というのがあります。この本の中に長尾巻さんという賀川豊彦先生の恩人になる方の話がのっています。この長尾巻先生は、賀川先生が青年時代肺病のとき何も言わず家に入れて助けてくれた人であります。この長尾巻先生が金沢で開拓伝道の時、信者が一人も来ず五年間奥さん一人を前にしてうまずたゆまず説教したそうです。この忍耐の力の秘密は多分先生の祈りの生活にあったのであろう、と三浦さんは書いていますが、その祈りを日夜ささえるものこそ、目的意識であります。
 後に長尾巻先生が金沢を出る時、駅には市内の名士より乞食までプラットホームにくりだして見送りしてくれたと言います。さて前述の成功の法則に、第二を書き加えましょう。それは継続であります。

 二、いわゆる成功哲学の挫折

 この前、俳優の田宮二郎が自殺しました。彼は大事業家を夢みて、積極的に目的をかかげ努力を傾注する成功哲学からぬけ出たような男でありました。しかし、最後は悲惨なあの始末です。豊臣秀吉の晩年の孤独、ナポレオンの流刑死、ヒトラーの自殺、これらにはすべて何か別の法則が働いているように思えます。
 旧約聖書に出てくるダビデ王のことを学んでみましょう。ダビデは預言者をとおしてイスラエル二代目の王として任命をうけましたが、それは内密のことで、現実には却って初代の王サウロに追われる身となりました。目の前はまっくらです。時にはサウロ王を殺す事もできる場面がありましたが、反逆罪をおかすことは神にも正義にももとると考えて手を出しませんでした。こうして、ひたすら時をじっと待ったのです。
 この時、ダビデは「目的を忘れず、努力を継続する」のは勿論ですが、それ以上に「①自分の目的が神から出ている事を自覚し、②神と正義を畏れ、③神が事を成し給うと信じてじっと待った」のであります。この①②③を忘れて、むやみやたらと人間欲に目もくらみ、神にさからう成功を望んでも、一時は栄えても所詮最後は滅亡なのであります。
 先日の新聞に、金大中氏の手記が出ていました。精神的に参るのを防ぐには「あわてるな、あせるな」ということだとあります。あせるのは不信仰であります。あせると、―――最後は自殺です。

 三、神による「成功哲学」

 目的をはっきり持つには、その目的を「①文章に書くことが出来る、②具体的に幻を描くことが出来る」ことが必要です。その目的を、キリストの十字架という尊いふるいにかけてカスを取りのぞき、キリストの血汐のフィルターをかけて、無より有を呼び出す神の力を信じて見つめるのです。それをあなたの心にある神の網膜に焼きつけて、万物の原因の源を動かすのですよ。(私の中にあるキリストの霊こそ神の網膜なのです)。
 趙ヨンギ先生の証しに、ある婦人が売春婦である娘の更正を祈ろうとして、どうしてもその汚らわしい娘の更正した清らかな姿を考えることができない。その時、先生は「キリストの血を通して娘さんを見なさい」と忠告しています。しかり、私どもの罪をあがない給うキリストの血をとおして見る時、私等も又、罪人や悪人を神の子として見つめ得るのであります。かって私が救われた時と同じように……。ですから、許しと救いの確信がなければ真の成功哲学は成り立ちません。世間にあるビジネスマンの積極思考的成功哲学はシンキロウのようなものです。時がたつと、あとかたもなく消え果ててしまいます。

 四、クリスチャンよ、元気を出せ

 使徒パウロは難破しかけている船の中で、人々をはげましました。
 「皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている」(使徒行伝二七・25)
 パウロこそ、成功哲学の模範であります。これに比して現代のクリスチャンの多くは、この成功の法則を知りません、無視しています。そして苦難に忍従し、屈辱に甘んじ、貧乏し病気している事を神の御旨と思っています。いわゆる「現代のヨブ」の方々を私は尊敬し決して辱める気はありません。しかし、ほとんどのクリスチャンにはぜひ「回復のヨブ」になってほしいと思うのであります。(一九七八・一二・三一メッセージ)  (1979.4.15週報「キリストの福音」より)









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by hioka-wahaha | 2016-09-10 12:23 | 日岡だより