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No.763 聖書のことば4題(「サタンよ、退け」ほか) 2016.8.28

《聖書のことば》
「サタンよ、退け」(マタイ四・10))
   
 イエスが、「サタンよ、退け」と悪魔を叱りつけると、二つのことがおこりました。
 (1)悪魔は離れ去った。
 (2)そして天使たちが来て仕えた。
 悪魔とは人殺しであり、偽(いつわ)り者であります。こいつの声には、かくす事のできない本音のひびきがあるので(ヨハネ八・44)、イエス様にはすぐ分るのです。そして、人の生くるはサタンの言葉ではない、神の言葉の一つ一つに従うことにあるというのであります。
 悪魔の声がきたらどうするか、「御言(みことば)」を用いることと、「サタンよ、退れ」と撃退の意志をはっきり示すこと。そうすると、悪魔は離れ去り、天使たちが来て下さるのです。
 (1979.3.11週報「キリストの福音」より)
 


《聖書のことば》
セルフ・コントロール

「自制心のない人は、城壁がないので破壊しつくされた都市に似ている」(箴言二五・28)
 
 古代の都市は、城壁を失うと敵が侵入してきて、市中はめちゃくちゃに破壊され、機能と秩序を失う。同じように、自ら(セルフ)をコントロールする心を失う時、人間は人間としての能力とバランスを失う。
 さて、自制とは禁欲でもなければ、制限でもない。流れる水をとめてしまうと、水は溢流して大水害をおこす。適宜に流れを誘導して利水をはかれば大変な役に立つ。
 自制は、聖霊のわざである。自動車はたしかに自動するが、運転者がなければ暴走する。人間という車には聖霊という運転者が必要なのである(ガラテヤ五・23)。
 (1979.3.18週報「キリストの福音」より)



《聖書のことば》
しかし、神の賜物は……

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ人への手紙六・23)
 
 レックス・ハンバードのテレビを見ていましたら、「罪の報酬」という説教。「播いたものを刈り取る、これは自然界の法則であり、道徳界の法則である。豆をまけば豆を収穫、罪をまけば死を刈り取る」と言うのです。
 「さて、私は何を刈り取るのであろう」
 私のこれまでの失敗や罪が山のように続々と脳裏に浮かんできました。これらの報酬は正しく「死」なのでしょうか。然り!
 しかし、この法則とは別に、行いによらず道徳によらぬ、神の恵みの賜物がある。キリストにある復活永遠の生命です。然り(アーメン)。
 (1979.3.25週報「キリストの福音」より)



《聖書のことば》
光として来て下さるキリスト

「わたし(キリスト)は光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。」(ヨハネによる福音書一二・46)
 
 長い間、空けていた家をもう一度使おうと思いました。入って、電気をつけてみると暗いのでした。よく見ると、管球にペンキをぬりつけたり、セロハンをはりつけたり、その上ほこりだらけで、光がよく通らないのです。
 そこで、その管球を外して、よく掃除してから、又つけてみると大変明るくなりました。
 しかし、電気が来なければ、どれほど掃除しても、管球は明るく輝きません。
 主よ、管球に電気が来て明るく光をともすように、私の内に来て下さい。
 (1979.4.1週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-08-31 23:00 | 日岡だより

No.762 天国はあなたの中にある 2016.8.21

天国はあなたの中にある

 「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない」(第一テサロニケ四・13)と聖書にありますが、今晩は故中野ヨシ老姉(中野無限兄母堂)の昇天五周年記念集会でありますから、まず第一に、このように主にあって召された人々のことについて考えてみたいのであります。
 この中野の叔母(私の妻の叔母にあたる)とか、私の母などは、実にぐちの多い、愚かなところのある、これでもクリスチャンですかい、というような人達でありました。こういう人達でも、今、確実に神様のみもとに行っているのだと断言できますか?みなさん!(アーメンという声がいっせいに返ってくる)。
 日本では、悪人でも罪人でも死んでしまったら、仏さまであるからして、手をあわせて拝んで、もう悪口は言わない。そこで葬式等の仏事の時には、「ここのおばあちゃんは良い人やった」などと心にもないキレイごとを言って場を飾る――、そういう方式で、今日の場合、あの中野のおばあちゃんや私の母などが、今必ず天国におられるのだと、おついしょうを言っているのではダメなのです。
 信仰に関して次のような二大原則があります。
一、イエス・キリストによる許しと救のわざは百%完全である。
二、新生せる神の子に対する神の期待は百%の完全性、ゆえにクリスチャンに対する訓練の目標は百%の完成にある。
 この第一原則の故に、いかなる弱い不完全なクリスチャンも、完全に救われます。弱さや愚かさも許されます。ですから、どのようなヘナヘナしていたクリスチャンのおばあちゃん方も、イエス様の十字架のあがないを信じている以上、その許しと救いと天国への到達は確実です。
 人間は、霊と心と体によって構成されています。イエス様を信じる時、霊は救われます。心で信じ体(口)で言い表わす時(心と体の割礼が行われて聖霊は霊に侵入し)霊は活きます、これが新生です。この時、右の第一原則が果たされるのです。
 そこで、次に必要なことは霊によって新生せるものにふさわしく、心が成長することです。心に必要なことは訓練です。これが第二の原則です。
 
 プロテスタント(新教)のキリスト教会の陥りやすい失敗は、信仰のみによって救われると言って、訓練を忘れる事です。信仰のみによって救われるというのは霊の救のことであって、これは先に挙げた第一原則のことです。ところで、霊を包みこんでいる肉と心は、現象的世界に生きています。この世の法則の中に生きていますので、それと戦いつつ生きていく肉や心には「信仰のみ」では解決できない処があります。
 第一テモテ四・7、8に出てくる「信心のための訓練」とは、心の訓練であります。心の訓練の為には、肉体の訓練も多少必要でして、それも又有益です。例えば、祈祷の為には祈る精神的決心が必要です。そして、その結果として、肉体の姿勢や場所や時間設定が必要ですね。
 パウロは信仰生活を、兵卒の従軍生活や、運動選手の節制や、肉体の鍛錬に比して語っているのはその為です。そのようにして、肉体を打ちたたいて服従せしめ(第一コリント九・27)、肉体の働きを殺す(ローマ八・13)時、霊において獲得された生命の法則(ローマ八・2)は、心をも肉体をも支配するようになるのです。
 そんな事は、人間に可能でしょうか。「勿論、聖人級の人には出来ることかもしれないけど、この私にはだめです」などと謙遜ぶることはないのです。第二原則の項目をどうぞ思い出して下さい。「父の完全であるごとく完全であれ」とか「あなたは私の前に歩みて完全であれ」とか言い給う神様の言葉は、クリスチャンにとり、百%可能つまり祝福の言葉として聞かなくてはなりません。この事を、それこそ、「信仰のみ」によって信じるのですよ。
 
 天国は、私たちの只中にあります。今、中野の叔母や私の母が行っている神の御側にある天界の様相を、早々と私共の只中に獲得しなくてはなりません。人間は死ぬと、肉はこの地上にのこり霊は神の国に帰ります(伝道の書一二・7)。心は肉に従わず霊にくっついて天に昇るものなのです。故に地上において実現する天国は、その霊と心の只中にあるべきなのです。
 さて、先に「心に信じて義とせられ……」といってローマ一〇・10を引照しましたが、信仰は心の精神力にて理解され意志力によって始まるのでした。天国も、心の理解・意志・情念の中で具体化され、獲得されていくのです。(霊を土壌として例えれば、心はその表土であります。信仰はその根を霊におろしますが、具体的に花を咲かせ、実をみのらせるのは心においてです。つまり具体的天国的建築は心においてなされます)。
 心を支配するものは言葉、全身をひきまわすものは舌(ヤコブ三・3)であります。舌で神の言葉を告白し心に御言葉をみたす時、神の思想はあなたの体と心をたがやし、神の領土にふさわしい品性をつくっていきます。確信して頂けますか。あなたは御国の保持者なのです。(一九七九・一・二六 中野家家庭集会にて)
 (1979.2.11週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-08-27 12:57 | 日岡だより

No.761 聖書のことば3題(「神第一」ほか)/たいせつな生命

《聖書のことば》
神第一

「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(ルカ一〇・27)
 
 あなたがクリスチャンであるなら、この事をおすすめする。朝目がさめて顔を洗う時、鏡に向って次のように言え。
「○○○○(あなたの名前)よ! あなたは神のしもべである。なんじの心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるなんじの神を愛せよ」と。
 新年にあたって、我らの心すべきことは、第一のことを第一にせよ、ということである。神を愛して、神第一の生活を心がけよ。そのために、この正月より、このように朝毎におのが心に言いきかせようではないか。ハレルヤ!
 (1979.1.7週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
いついかなる場合にも、平和

「どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。主があなたがた一同と共におられるように。」(第二テサロニケ三・16)
 
 右の聖句と同じ章の前の方では、パウロというこの手紙を書いた使徒が、こうも言っています――「(私たちは)昼も夜も労苦しながら働き続けました」
 宗教家と言えば、多忙なこの世間をはなれて、静かな僧院で祈祷三昧の日を送り、そこで宗教的平和を得るのであろうと、思われがちです。しかし少なくとも、このパウロという人は違っていました。この世の泥と汗にまみれて働いた人でした。そして昼夜分かたぬきびしい労働の中でも、神より来る平和を失わなかったのであります。
 (1979.1.14週報「キリストの福音」より)

   
たいせつな生命(いのち) 

「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。」(マタイ一六・26)
 いのちは神さまからお預かりしたものです。
 お母さんが、おせんたくするので、大切にしている指輪をあなたにあずけました。ところが、あなたが面白はんぶんにその指輪をマンホールにすててしまいました。お母さんは指輪がなくなったことと、あなたの不従順を悲しむことでしょう。
 この頃、小学生や中学生でも自殺する人があって新聞に出ています。子供でも大人でも、自殺することは神さまからあずかった大切な命をそまつにする不従順の罪です。
 お父さんやお母さんが悲しむのはもちろん、神さまもイエスさまもたいへん悲しみます。また「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル九・27)のですから、死んだあとは何も無いなどという言葉にだまされないで、命を大切にして正しい愛を行う生活を守りましょう。(一九七九・一・二一教会学校児童説教要約)
(1979.1.28週報「キリストの福音」より)


《聖書のことば》
信仰の第一義

「わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」(ガラテヤ三・2)
 
 ガラテヤ地方の(今のトルコの一部)の教会の人々の信仰が、本筋からはずれたナ、だいぶおかしいぞと気付いたとき、パウロの聞きたいことは、ただこの一事でした。他の何事も聞きませんでした。
 「信仰を行いで見せてほしい」(ヤコブ二・14~26)という問いただしは、この際には引っ込めておくべきで、「行いなど何一ついらぬ」という信仰の土性骨が必要です。この際、「行いなくして義とせられる」という大宣言をあなたは大胆に出来ますか。
 (1979.3.4週報「キリストの福音」より)
 


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by hioka-wahaha | 2016-08-19 15:29 | 日岡だより

No.760 聖書のことば「われらは倒れず」/マジメとカシコサ 2016.8.7

《聖書のことば》
われらは倒れず

「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」(ピリピ一・6)
 
 俳優田宮二郎が自殺しました。佐藤文生代議士言うところの「国際的スケールを持った」男、ある新聞は「自ら提言して」大成功をねらうタイプであったと言います。しかし、彼は自らの人生プログラムに破れたわけです。
 私どもも、今年は大きい夢を抱きました。信じて祈りました。しかし、まだまだ多くの未完成の夢が多いのです。しかし、失望しません。倒れません。主が、「この日だ」と定めてくださっている日、その日に万事はかならず成っていくと、信じているからであります。
 (1978.12.31週報「キリストの福音」より)


マジメとカシコサ

 三浦綾子さんの出世作「氷点」は、朝日新聞の一千万円懸賞小説の入選作でした。入選の感想に、「これはキリスト教でいう原罪をテーマにした小説です」とはっきり言って世の人の目を見はらせたことは、今も記憶に新しいところです。
 その時、この入選を知った御主人の三浦氏はさっそく夫人をともなって二階に上り、ともに座って神様の前に祈ったそうです。それは神様への深い感謝でした。そして、夫人が有頂天になることを戒め、応募して落選した他の七百三十人の落胆を思いやり、そして与えられる賞金を自分のためにではなく、他の人の為に使い得るようにとも祈ったそうです。
 なんともエライ人じゃなあ、と感嘆しますね。この話は「うれしい時の神頼み」という不思議な題で書かれています。くわしくは新刊の「天の梯子」(三浦綾子著・主婦の友社)をお読み下さい。
 
 さて、私はこの時の三浦氏に感心するのは、こういう時に、こういうマジメな祈りをしようと、心の中で思う人は案外多いでしょうが、これを実行することがむつかしいのに、これを実行してしまうカシコサについて三浦氏に敬服したいのです。
 今年の九月十日、韓国より白先生、金先生がお見えになってすばらしい聖会をもって下さいました。あの時より、信仰の成長した人が多くいますね。私の家庭もすごく変ったと思います。あの時、両先生は四日間程滞在され、K姉の献身的韓国料理に舌つづみを打って、天国的だんらんの日々をすごしたのでした。たえず「ハレルヤ、ハレルヤ」と連呼される金先生におどろかされましたが、いつしかその習慣が私達にもついてしまい、そして常に信仰のコトバを語る人に変えられていました。
 
 正直なことを言って、私はざっくばらんに物を言うほうだと思っていますが、それが度をこして世間ずれした冗談や下品な言葉、くり言を言うことになりやすいのです。かたぐるしくない、牧師らしくない牧師としてのポーズを見せたい下心も少しはあったのですね。そこで、私生活において、あまり信仰ぶかそうな言動をすることに照れを感じる―――、そんな風になってしまいます。
 いわゆるタテマエは教会堂の中で言うだけ、家庭ではホンネが出る。このホンネというのがこわいのでして、よく考えるとホンネは肉の感受性を通して入ってくる世の声、サタンの声であることが多いのです。霊からひびいてくる神の子としてのホンネではないことが多いのです。
 
 マジメとは、間をしめることである、とある人は言いましたが、こういう語呂あわせはともかく、サタンのつけ込むすきをしめる為には、内なる心で、「さあ今妻と共に祈ろう」と示されたら、さっさと妻をさそって共に祈るようにすることです。照れて、ぐずぐずしていてサタンに侵入されるすき間を作らぬことです。それが、へびのごときカシコサです。先程かいた三浦氏のマジメさ、カシコサはそれであります。
 
 白先生、金先生との四日間の交わりの中で、とくに教えられたのは、この事でした。肉のホンネは、完全にしめ出すこと。そして霊のホンネ(つまり世の人から見ればつめたい堅苦しいタテマエ的表現になりやすいのですが)によって生きるのです。これが、偽善や律法主義にならないのは、罪の許しの確信と、内在の信仰によるのであります。
 
 さて、この三浦綾子さんの「天の梯子」は、祈りについての本であります。まだ他にも大変良い文があります。祈りについては、日本の教会はもっと実技的指導が必要です。この本の紹介も兼ねて、次号にも書き続けたいと思います。
 (1978.12.31週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-08-12 13:05 | 日岡だより