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No.754 キリストの御名に救あり 2016.6.26

キリストの御名に救あり

 (一九七八年九月二十四日(日)礼拝メッセージより)
 「主イエスの名に勝利あり」と、今歌いましたこの賛美は、勝利の歌、凱旋の歌であります。私等の人生は戦いの人生であり、そこに勝利があるのです。私等は小さいことで時に敗れることはあるかもしれませんが、最後の勝利は私等のものであります。時々失敗した時、罪責感におちいってはなりません。そんな弱々しい人生でなく、そのとがめを取り去って下さり、勝利の人生へと導いて下さるのが主の救いであります。
 よく、キリスト教の説教はむつかしいと言われますが、そのむつかしい原因は次の二つです。
 (1) 罪について語るからです。
 罪について語る時、これを聞く人は、恐ろしくて、聞きたくない心が働くのです。他の宗教では、人は生れながら善人であって、途中で色々と悪いくせがついたものである、だから、心を入れかえて良い事をすれば家庭が明るくなりますよ、と言いますと、みんな良くわかるわけですね。しかし、キリスト教ではこんな話はしませんから、非常にむつかしいと思うのです。
 (2) 次に、この罪を救うために、イエスが十字架にかかり、復活なさった、このイエスのみ名を信ずるだけで救われます、と言うと、「そんな簡単なことで」と言って今度は、やさしすぎてわからんと言うのです。
 もしこのことがわかって、私は罪人の頭であったと実感し、イエスの御名を信ずるのみで救われたと、わかってくれば、聖書の御言葉がみなわかってくるわけであります。
 信仰とは、イエスを主と呼ぶことです。このことは聖霊によらなければできません。それがわかれば、内に信仰を確立することができるのです。
 パウロもアナニヤによって、イエスの名をとなえて救われました。このことは、イエスの軍門に降ること、イエスの杯を受けてイエスの子分になることを意味します。このことによって、案外簡単に、この地上と縁を切ることができます。
 イエスは神のあらわれです。本尊です。仏教の言葉の本尊は、本になる尊いものの意味ですが、人は何かを作って拝みたいという本能があります。それがシャカであったり、マンダラであったりします。それを木に刻んで拝みます。マジメですが、愚かです。本物ではないからです。
 この地上の人類を救う為に、イエスは神の姿を表わして下さいました。このことは、本尊はイエスのみであることを示しています。内村鑑三は、仏教は月であり、キリスト教は太陽であると答えたそうですが、私等はこの太陽に目を向けることが大切であります。
 私は、戦時中に刑務所の中で極度の疲労の労役にあった時、イエスの名をとなえることのみで大変な御利益(?)にあずかった経験があります。イエスはそれ以上に今私等を救って下さることを信じます。
 「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(ローマ人への手紙一〇・13)
 
 今日のメッセージの中心は簡単なことです。
 (1)聞いて下さるイエス(エレミヤ三三・2~3参照)
 「呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」と主は言われます。神には耳があります。そして答えて下さるのです。そして健康と、いやしと、豊かな繁栄を与えると約束して下さいました。
 (2)近くに居たまうイエス(エレミヤ二三・23参照)
 救い主でも遠くにいては私等の助けにはなりません。主は近くの神であり、すぐに答えて下さるのであります。
 (3)愛であるイエス
 もし、私の呼び声が聞け、近くに居ても、その人が怒りの人、憎しみの人であれば、その人は私を救ってはくれません。しかし神は愛の神であり、良き父でありますから、私を救って下さるのです。前科は問わずです。
 (4)全能のイエス
 終戦後、満州から親子が引き揚げようとしましたが、ソ連軍が入って来て、子供に乱暴しようとしましたが、これを親は助けることができませんでした。子供の助けを呼ぶ声は聞こえますし、近くにも居ました、又愛もありましたが、力がなかったのです。
 イエスは全能の力をもっております。ですから私等を救うことができるのです。このお方を呼び求めるのです。
 神は今、御聖霊として天と地に満ちているお方であります。聖霊は空気と同じ、いつもここにあります。生命があればそれを吸うことができます。吸えば生きます。名を呼べば、イエスは来て下さるのです。
 主の御名を呼ぶ者は救われる、「イエス様、イエス様、イエス様」のみでよいのです。
 すばらしい楽な信仰であります。これが私の人生のすべてを解決する秘訣であります。
 (1978.10.1週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-06-30 23:00 | 日岡だより

No.753 今週の聖句4題(「互にあいさつを……」ほか) 2016.6.19

《今週の聖句》
互にあいさつを……

「きよい接吻をもって、互にあいさつをかわしなさい」(ローマ書一六・16)
 
 日本人には一般の挨拶に接吻をする風習はない。それ故接吻はともかくとして、清い心、つまり下心のない、いつわりのない真実の心をもって、互に挨拶をかわしましょう。
 ある本屋さん、夫婦二人で一生懸命働いて月平均わずか百万円の商売でした。ある時、真理の言葉にふれた。買いに来たお客様も、立ち読みのお客様も、すべて神に造られた人の子。すべての人に、大人にも子供にも、心をこめて、商売気ぬきであいさつ。夫婦お互いもこれにつられてあいさつ。すると、店舗も改装せず、特別の商策もないのに、七ヶ月目には夫婦は仲よくなり、月高は四百万円になったとは、本当にあった話。
 きよい挨拶をかわしましょう。
 (1978.9.10週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
ハレルヤ

「エホバをほめたたえよ」(文語訳)
 
 詩篇第一四八篇をはじめ、詩篇の各所に出てくる、この「エホバをほめたたえよ」という言葉は、言語では「ハレルヤ」です。「ハレル(讃美する)」という言葉と「ヤハウェ(神名エホバ)」との合成語です。
 このたび、白牧師の通訳として同行して来られた金牧師は、どこに行っても「ハレルヤ」と大声で呼びかけるので有名な先生。ニックネームもハレルヤ牧師。
 交差点で信号待ちで停車している時も、隣の車に「ハレルヤ!」、別府の地獄めぐりに案内しても、修学旅行中の中学生たちに、「ハレルヤ! イエス様を信じましょう」。いやな事がおこっても矢張り「ハレルヤ」明るい顔。
 (1978.9.17週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
神の宮

「今わたしはわたしの名をながくここにとどめるために、この宮を選び、かつ聖別した。わたしの目とわたしの心は常にここにある」(歴代誌下七・16)
 
 これはソロモン王が神の宮を建設したときの、彼に対する神様の祝福の言葉です。のちに、この神殿は破壊され朽ち果てました。
 しかし、今、聖書は私達のからだを神の宮と呼びます(第一コリント三・16、六・19、第二コリント六・16参照)。私たちはクリスチャンと呼ばれることによって、主の名が私たちに留められている事実を認識しましょう。これは神様が、私たち一人一人を選び、世より聖別し、そして尊い御目と御心を私たちの内なる霊に内在せしめ給うことを語っています。
 友よ、あなたは神の宮であります。
 (1978.9.24週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
神の言葉の祝福

「神の箱は三か月の間、オベデ・エドムの家に、その家族とともにとどまった。主はオベデ・エドムの家族とそのすべての持ち物を祝福された」(歴代誌上一三・14)
 
 モーセが神より受けた十戒の石板を入れた神の箱を、ダビデ王は一時オベデ・エドムという人の一家に預けました。
 神の箱は、新約の思想で言えば、聖書ですし、また神の言葉のことでもあります。彼の家が、その家族とともに一家をあげて神の言葉を受け入れた時、神の祝福がその一家に溢れたのであります。
 かつて私の父や、又その兄が聖書を受け入れ、神様の言葉を信じた時、借金だらけの家業が、見る見る地場企業としては一流の、商社に生れ変っていったのでありました。
 (1978.10.1週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-06-25 09:12 | 日岡だより

No.752 今週の聖句4題(「宇宙的充満を味わえ」ほか) 2016.6.12

《今週の聖句》
宇宙的充満を味わえ

「この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」
 (エペソ人への手紙一・23)
 これはパウロがローマの牢獄の中にいて、エペソの教会のクリスチャンにあてて書いた手紙の一節。囚人のくせして、このパウロの自信満々たる発言は、どこから来るのでしょう。勿論、この「教会に満ち満つるキリストの臨在の信仰」でした。
 この聖句は、日本文では少々まわりくねっていて理解に手間取るところがありますが、要するに「万物充満者が、我らに充満する」という途方もなく大きいイメージであります。この聖句を何度も告白(コール)してごらんなさい。必ずや宇宙的充満感覚を味わえます。
 (1978.8.6週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
全力をつくせ

「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはない」(第一コリント一五・58)
 
 「ただ信仰のみ」を強調し、がんばりや努力を否定するあまり、無気力で消極的なクリスチャンになっている人を見かけることがある。極端な例では、老人になって生活費の一端を浴場掃除のアルバイトに行って得ているのを、これは不信仰な業ではないだろうかと、心配して相談されたことがある。
 「すべてあなたの手のなし得る事は、力をつくしてなせ」(伝道の書九・10)。パウロの手紙には「努力」という言葉が四回も出ている。パウロは実に無類の努力家でああったのである。信仰による努力はむだにならない。
 (1978.8.20週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
怒ることがあっても

「怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない」(エペソ人への手紙四・26)
 多くの人の怒りは、自己本位の防御本能か早合点の批判精神が、カンシャク玉を破裂させたという程度のものです。本当の怒りは、(イエス様も怒ったことがあります)正しい判断のもとに、不正不義に対して発せられる勇敢な抗議です。その時、右の頬を打たれれば左の頬をさし出すくらいの余裕が必要です。すぐカッとなるのは、あやまちの元です。又、夜寝る前には興奮をおさめてしまうことです。カラリと忘れることができない怒りは、多分恨みをもふくんでいるのでして、悪魔のつけ入る隙です。精神衛生上にも不健康です。
 (1978.8月臨時号週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
罪人を招く……

「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイによる福音書九・13)
 
 このイエス様の御ことばに接すると、日本人の多くは、親鸞の悪人正機論を思い出すであろう。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」というのである。蓮如も言う、「心の悪さや妄念妄執を止めよと言うのではない。何の業にせよ、あさましい罪業に日夜惑うヤクザな私を助け給う如来の本願を深く信じ一心にすがるのみであります」(御文章一帖目第三通二~四節意訳)と。
 人間は救われても罪人である。信仰に入ってクリスチャンになっても相変らず変りばえせんなァと落胆している人々は、この救いの徹底さが心根に徹していないのである。
 (1978.9.3週報「キリストの福音」より)




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by hioka-wahaha | 2016-06-18 10:31 | 日岡だより

No.751 信仰三つの焦点/今週の聖句3題 2016.6.5

信仰三つの焦点 

第一、イエス・キリストを信じなさい。イエス様の血のあがないによって子としての身分をさずけられていることを信じなさい。この尊い真理を理解して、イエス様をうけ入れなさい。この信仰を主張しなさい。
第二、天地の造り主、万事の計画者、全能の神を信じなさい。神は、あなたに豊かな愛の計画をもって、あなたの全人生をつかさどり給う。この父なる神に感謝し、さんびしなさい。
第三、あなたに内在の御聖霊様によって、あなた自身を信じなさい。「あなたの信じるごとくあなたに成るべし」という約束は、「あなた」への主の信任です。あなたの為すこと、思うことを神は「わが心にかなえり」と喜んで下さるのです。故に、へりくだりつつも、大胆に言い、行うのです。
         *
 まとめると、信仰は①キリスト、②神、③我(聖霊)に焦点をあてることができます。心の態度は①キリストをうけ入れる、②神に感謝する、③内なる我に自信をもつ。行動としては①の信仰を口で言い表わし、主張しつづける、②は神への「さんび」、③は、すぐに行動をおこすこと、これです。
 (1978.6.25週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
大胆に語れ

 「彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した」(使徒行伝第四章三一節)
 教会の指導者達が、時の権力者によって脅迫されたとき、初代教会の信徒達は「この脅迫を去らせて下さい」とか「忍耐する力を与え給え」とかいうふうには祈りませんでした。かえって「思いきって大胆に御言葉を語らせて下さい」と祈りました。彼らの祈りは積極的で具体的で戦闘的ですらありました。(聖書のこの箇所の前後をよくお読み下さい)
 いやしや、しるしや、奇跡はすぐには表われませんでしたが、彼らはまず第一に、大胆に神の言を語り始めました。そして、これこそ初代教会の偉大なわざの秘訣です。
 (1978.7.16週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
熱砂より救うもの

「神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た」(創世記21・19)
 中近東の砂漠では、外があついので自動車は窓をしめるそうです。熱い風が入って来ないためです。そのような熱砂の中で、ハガルは幼児イシマエルを連れて、水もパンも無くなってしまったのであります。ハガルはもうこれまでと思い、子供の死ぬのを見るに忍びないと、子供を一人砂の上におき去りにしました。その時、神は子供の泣く声を聞かれ、ハガルをあわれんで、その目を開くと、彼女の眼前に水のあるのが分ったのです。
 火のような苦しみで、人生の砂漠で飢えかわいて苦しむ人々に、目を開かせて永遠の泉を発見させてくれるのは、神の御言です。
 (1978.7.23週報「キリストの福音」より)


《今週の聖句》
神に寄り頼め

 「主は……、我が神、わが寄り頼む岩」(詩篇一八・二)
 この頃、早天祈祷会でビル・ブライト氏の信仰テキスト(略してT・Cという)を学習しています。ある日、「信仰というのは、言いかえれば信頼ということです」とあるのを見ました。オヤと思いました。現代人は複雑怪奇です。「信じても信頼せず、信頼しても従わず」という信者が多いのです。子供のように単純な信仰なら、信じることも、信頼することも、従うことも一つの筈ですがね。
 この悲しむべき信仰の表裏不一致は現代の信仰界に深く食い込んでいます。神により頼む信頼の筋肉を、十字架信仰の骨格の上に、かたく鍛錬して根づかせる事が必要なのです。(T・C第二巻25.26頁参照)
 (1978.7.30週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-06-10 15:10 | 日岡だより