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No.741 復活の生命/喜び、喜べ/捨て身になって 2016.3.27

復活の生命

枯れ果てたような木に
芽がふき、花が咲く。
特に日本列島には、
四季の移り変わりも鮮やか、
輪廻の思想の根づくのも無理はない。

春がくる、ひばりが上る、
生命の象徴である。
死人でも生きる、本当の生命は、
復活の生命である。

今、打ちしおれている者、
なげき悲しんでいる者、不安な者に、
復活の生命よ、あれ。
(1978.3.26週報「キリストの福音」より)
   

喜び、喜べ

 イエス様は私たちに、迫害を受ける時は喜びおどれとさえ言われた。ヤコブの手紙では、試練にあったとき、それを非常に喜ばしいことと思え、とある。「いつも喜んでいなさい――、これが聖書の教えです。
        ×
 しかし、苦痛のある時、誰がそうカンタンに喜べましょうか。
1.この苦痛には、神も認めて下さる大切な意義があるのだ、と知っていること。
2.この苦痛に打ち勝つ時、更に良きことが備えられているのだ、と希望を抱いていること。
3.この苦痛に堪える力を神が与えて下さる、と信じていること。
 少なくともこの三つの条件がそろわぬと、苦痛は喜べない。赤ちゃんを産もうとする母親は、この三条件をたいてい持っているようであります。その故に不安と苦痛の中にも、大いに喜んでおれるのであります。
         ×
 格別にこれという苦労もなく、家の内外ともに平和であるのに、喜びのない人がある。感激のない人、退くつしている人である。食って寝て〝生存〟はしているが、心が躍動して張りきって地球せましと〝活き〟ている実感がない人である。
 こういう人は、生きる目的の分らない人である。人の為に血や汗を流した事のない人である。人の苦悩を分ろうとしない人である。人生に感動しない人である。こういう人に喜びはない。
         ×
 又、もっと多数の人に、喜びのないのは、罪の故である。忘れ、あるいは考えない事にしているが、人の心の内にひそむ〝罪〟がある。聖書にいう罪は、物を盗んだとか、人をだましたとかいう箇々の罪ではなく、神と真理にそむく心の傾向である。道におとしたアメ玉のよごれは水で洗えば落ちるが、製造の途中で混入した毒物はいくら洗っても削っても落ちない。要するに、このアメ玉は捨ててしまって新しく作るより他に方法はない。この罪の性質のある限りアメはにがいのです。
         ×
 次にイエス様を信じて、罪を許されて、一時あれ程喜んだのに、いつの間にか喜びがうすれて淋しい味気ない顔をしている人がある。御霊の果を得ていないからです。聖霊に満たされて、いかなる時でも喜べる、〝喜びの果〟を与えられなさい。更にもう一つ、御霊の果である伝道の成果を得なさい。新しく神の子を友として得るくらい、喜びの源泉はないのです。
(1978.4.2週報「キリストの福音」より)
 

捨て身になって

エベレストをスキーでおりた
生命がけの男、三浦雄一郎の本をよんだ。
要約して言えば
「捨て身になって、自己の限界ギリギリ
をこえよ」と。

禅語にも言う「百尺竿頭、一歩を進めよ」
イエスは言う「おのれを捨て、我に従え」

青春とは何か、何ものかに自分を捨て得る時代である。
あなたは何に捨てる?
恋か、冒険か、芸術か、事業か、名声か。

否、最大の自分の捨て場はキリストである。
(1978.4.2週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-03-31 10:30 | 日岡だより

No.740 イエスはなぜ死んだか 2016.3.20 

イエスはなぜ死んだか 

「金も命も名もいらぬ。そういう人でなければ大事はできぬ」
 と大西郷は言ったそうです。
 イエス様こそ、本当に「命もいらぬ、名もいらぬ」という人ではなかったでしょうか。弟子にそむかれ、国民にすてられ、素っ裸にされて、極悪人のように十字架上に殺されました。名誉も何もあったものではありません。
 ユダヤ人は、古代ローマ人や昔の日本人のように、恥辱を死にまさる苦しみと考えていました。その死にまさる恥辱に耐えて、イエス様はピラトの法廷より、十字架へ、十字架より墓へと「苦難の僕」の道を行かれました。なぜ、日蓮大聖人のように死刑場の只中で神様の力によって救われなかったのでしょうか。
 
 神様の側のお考えによれば、キリストは一度死んで地獄の底まで下り、死に打ち勝って復活し、その上で神のそばまで昇天しなければならなかったのです。そうでなければ、人間の罪も、その苦悩も病気も救う事ができなかったのです。悪人の死で悪人の罪をあがなう事はできません。
 
 今、大分市文化会館のあるところは、昔の城のあとです。あのあたりは、以前は沼地でして、そこに城を築こうとしても、どうしても基礎がくずれてしまいます。そこで万策つきて、人柱をうめる事になりました。
「人柱? そりゃちょうどいい、牢屋に今ひとり、死刑になる男がいる。あれを埋めよう」
 というわけにはいきません。近在より孝行のほまれ高い美しい乙女をさがし出してきました。というより人柱になった者の遺族には一生何不自由なく衣食を与えるという領主のおふれに目をとめて、貧しい一家の老母の行末を案じてその娘が自ら願い出たのでありました。その娘の身をすてた孝心に泣かぬものはなかったと言います。そのおかげか、その後、城は無事に出来上がりました。この娘は、お宮といい、供養塔が今も城あと北西の石垣の下にあります。
 
 築城の基礎に人柱を埋めるなど、まことに迷信と残酷な行為のようですが、しかしそこに、多少の霊的真理があります。大いなる事業には人柱がいる。しかも悪人の人柱ではだめで、とびきり清浄な人間がよい、という真理です。
 イエス様は、人間の罪を救い、天国を築く為の人柱です。故に、イエス様は是非とも死なねばならなかったのです。日蓮聖人のように助かるわけにも行かず、おシャカ様のように長生きするわけにもいかなかったのです。このイエス様の死のおかげで、私どもは、自覚する罪、自覚せぬ生来の罪、一切をゆるされるのであります。
 
 イエス様の死が、いわゆる人柱と違うのは、死んでしまわないで、よみがえったということです。私どもの古い我は、イエス様と共に死に、新しい我が、イエス様と共に復活する。これがキリスト教の信仰です。
 復活は、当初弟子たちにすら、あり得ぬことに思えました。使徒たちには、この話はたわごとと思われた、と聖書(ルカ二四・11)にあります。
 また、アテネの文化人たちは「死人のよみがえりのことを、聞くとあざ笑い」、「いずれ聞くことにする」といって帰っていったそうです(使徒一七・32)。
 パウロが法廷で、彼の信仰の証しを長々と語っている間、静かに聞いていたフェスト総督も、ことイエスの復活に及ぶとたまりかねて
「パウロよ。お前は気が狂っている。博学がお前を狂わせている」
 と叫んだそうです。(使徒二六・24)
 
 遠藤周作という小説家がいます。「沈黙」とか「死海のほとり」とか、信仰小説を書いています。なかなか評判はいいのです。あの人の信仰は、弱さや不信仰の中に開きなおって「しかし信じています」という信仰です。人間の弱さに絶望し、信じようとして信じ得ぬ合理主義の申し子みたいな現代人が、なおも人生の不安におびえて神を求める時、ああいう信仰に落ちつきやすいのです。
 その遠藤氏ですら、ペンテコステの聖霊経験以後のペテロたちのみごとな変身ぶりにはかぶとを脱いで、そこに何かがあると言っています。信仰とは泣きべそかきかき弱さの中で居ずわってアーメンと言っている事ではないのです。
 
 あのおっちょこちょいで、臆病もののペテロが、聖霊経験以後、大胆不敵、すばらしい弁論(説教)、一群をひきいる組織力と権威を兼ねあわせてもちました。パリサイ人達は、いくら目をこすって見ても、彼が無学な只人である事を認めざるを得ませんでした(使徒四・13)。
 なぜでしょう、復活のイエスが約束通り、その聖霊を天より彼らにお送り下さったからです。十字架の死は復活の為、復活は昇天の為、昇天は聖霊をお下しになる為です。この聖霊の働きを知らないと、イエス様の理解が遠藤周作流におわり、信仰は生活をかえず、只々、おのが才能にたよるのみになります。(一九七七・一〇・九週報の「イエスはなぜ死んだか」を手直しして採録)
(1978.3.26週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-03-25 10:38 | 日岡だより

No.739 聖霊をうけよ/疑似信仰をさけよ/だれにも「天の役目」がある 2016.3.13

聖霊をうけよ

人間の特徴の一つは
向上心である

健康で、家内仲よく、金もできた
それだけで幸福になりきれない
向上心がある

聖くなりたい、愛の人でありたい
つよくなりたい
そういう求めにこたえる
神の国のエネルギーが
聖霊である

聖霊をうけよ
(1978.3.19週報「キリストの福音」より)

 
疑似信仰をさけよ 

 かつて、私の家に夏みかんの木がありました。それは見るからに立派な木で、いかにもおいしい夏みかんがなりそうな木でした。
 しかし実際には、まるでおいしくない、誰にもあげられそうにない夏みかんが出来るのでした。
 そこで、一生懸命肥料をやりました。摘果しました。そして、見るからに立派な実が出来ました。喜んで食べてみたら、やはりおいしくないのでした。とうとうあきらめて、その木を切ってしまいました。
 イエスは言われます。
 「良い木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」(マタイ七・17)
 
 一時のごまかしに、おいしい夏みかんの実を買って来て、その枝にくっつけることは出来ます。しかし、来年また良い実が出来るわけではありません。来年になると、やはり元のままの悪い実がなります。木が悪い木であるからです。
 いくら、大きい、見かけの立派な実が、たくさん出来たとしても、食べてみておいしくなかったら、その果実は不合格であります。果実検定所で一ぺんにはねられてしまいます。
 さて、人間の品質検定があったらどうでしょう。
 
 しばしば、世の新興宗教は奇跡や幸福を売り物にしています。
 宗教に奇跡はあるべきですが、奇跡を第一の看板にし始めると、その宗教はあやしいのです。
 そのような宗教の、端的に約束することは幸福ですが、その幸福は「健康、平和、富」の三つ。これだけで、これを超えません。
 「健康、平和、富」―――これさえあれば、幸福であるような錯覚にとらわれやすいのですが、これは前述の夏みかんの例で言えば、味を問わずして、大きさや量だけを問題にしているのだと言えるのです。
 
 大きさや、量や、格好も大切でありますが、更に大切なのは中身の味です。
 自分の心を清めず、罪も悟らず、罪の許しも与えられず、ただおそなえし、おはらいを上げて、一時しのぎの病気なおし、幸福が来たからと言って、偽物の信仰をしていると、心は益々貪欲になり、サタンのとりこになってしまいます。
 恐るべきは、人間の利己的欲心、世俗的貪欲に妥協して御利益で人を釣る疑似信仰です。
(1978.3.19週報「キリストの福音」より)
 

だれにも「天の役目」がある 

◇職業を神よりの召命と信じた宗教革命の天職観は、よい意味での資本主義の隆々たる勤労意識をうんだ。
◇職業をすべて横すべりに天職と見なし、私利私欲に職業意識をかきたてて資本主義は堕落した。
◇新しい天職観は、それは実は聖書の古い古いスチュワード・シップ(家令意識)である。
(1978.3.19週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-03-16 21:42 | 日岡だより

No.738 どうしたら確信を持てるか/ふるさと/豊かな人生/「四つの法則」について 2016.3.6

どうしたら確信を持てるか 

◇確信に満ちて堂々と生きている人を見ると、それがたとえ悪人であっても、うらやましく思えるものです。三木さんや、福田さんよりも、田中さんの方がどことなく頼もしく見えるのがそれです。
◇しかし所詮、悪人の確信は崩壊します。かつてのヒトラーのように。本当の確信は、神への信頼と、きよめられた良心からのみ来ます。
(1978.3.12週報「キリストの福音」より)
 

ふるさと

人はふるさとを恋うる
天国とは、魂のふるさとです

人間はどこから来たのか
「人は神につくられたので
神に帰るまでは
その心に平安を得ない」
とアウグスチヌスは言いました

あなたの帰る場所はどこですか
金も事業も、ゴルフもマージャンも
友人も家庭も、あなたの最終の
ふるさとではない

神に帰れ、そこにあなたのふるさとがある
遠くはない、あなたの中にある
(1978.3.12週報「キリストの福音」より)
 

豊かな人生 

「愛せられる者よ。あなたのたましいが恵まれているように、すべての事において恵まれ、また健康であるようにと祈る」(第三ヨハネ・2私訳)
 
 鳩が両翼をはって空を飛ぶ時、体が健康でなければ両翼も元気ではありません。
 鳩にたとえると、体が「たましい」で、両方の翼が「すべての事」と「健康」です。
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 たましいの奥に霊が生きています。霊が信仰に目ざめ新生すると、たましいも生き生きとして恵まれ、たましい(「心」に近い)が恵まれると、肉体も人生百般も恵まれてくるのです。
 「豊かな人生」への聖書的 ”How to” でああります。
(1978.3.12週報「キリストの福音」より)

 
「四つの法則」について 

 昨日の日曜(三月十二日)の説教は「四つの法則」の押しつけに終わった感あり。みなさんの感じはいかがでしたか。特に初めて出席されたSさんにはお気の毒の感じもしました。けれど、その反面キリスト教信仰の教理的な面を一通りサッとやってしまったわけで、このパンフにしたがい最後の祈りの処で、素直に説教者について祈れたということは、既に信仰に入っているということで、いつの間にか信仰の入学式をすませてしまっていたことになります。おめでとう。今後も素直に聖書と礼拝になじんで、よい信仰生活をお築き上げください。
 
 その他の方々も、求道者の方々や初心の人々を、どのように信仰に導いたらよいかという手だてを学んだわけです。もう一度あの「四つの法則」を手に取ってみられて、初めての方に、信仰をおすすめする事をお勉強ください。声を出して、練習もしてみてください。いつも数冊持っていて、人様にお見せして
「人生を豊かにする、四つの法則をご存じですか」
 と伝道できるよう自己べんたつしましょう。
 
 「四つの法則」をよく学ぶとさきに信仰を持っている方にも、よい学習になります。又、人におすすめしますと、尚更自分自身の中に、信仰が築き上げられます。
 さあ、出て行って、イエス様のお救いを伝えましょう。
 
 「四つの法則」にたやすく応じてくれない拒絶的な人は次の二つのタイプのいずれかであります。
1、救いについての簡単な知識を持っていなかった。
 その知識とは
 (a)主イエスはどんな方か
 (b)彼は何の為に世に来られたか
 (c)信じる者には何が与えられるか
2、サタンにあざむかれ、とりこになっている(故意に罪をおかし真理に反抗している)。
(1978.3.13「牧会通信」第一一号より)



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by hioka-wahaha | 2016-03-11 12:24 | 日岡だより