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No.737 みことばは力である/どちらを選びますか/落ちたからし種 2016.2.28

みことばは力である

みことばは
聖霊の剣である。

みことばには
力がある

思い切って、大胆に
神のことばを語れ(使徒四・29)

聖書の言葉(神のことば)を暗誦しなさい。
神のことばを、あなたの心にゆたかにたくわえなさい。

みことばはあなたの力である。
(1978.3.5週報「キリストの福音」より)
 

どちらを選びますか 

 きょう、あなたの前に「いのち」の道と、「死」の道と、この二つがおかれたら、あなたはどちらを選びますか。
 きょう、あなたの前に「祝福」の道と、「のろい」の道と、この二つがおかれたら、あなたはどちらを選びますか。
 きっと、「いのち」と「祝福」の道を取られることと思います。
 
 聖書は言います。(申命記三〇・19)
「私は、きょう、天と地とを呼んであなたがたに対する証人とする。
わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた
あなたは命を選ばなければならない」
 選ぶのは、あなたの決断であります。
(1978.3.5週報「キリストの福音」より)
 

落ちたからし種

 「これが聖書に書いてある、イエス様のお話に出るからし種ですよ」
 「見たい、見たい」
 みんなが集まりました。一人が手のひらにのせて顔を近づけました。その人は、その小さな種を見て感にたえぬように、フウとため息をしました。すると、その息で、からし種は手のひらからひらりと舞い落ちました。
 「たいへん、たいへん」
 床には上等なカーペットがはってありました。みんなで探しましたけれど、カーペットの毛の間に落ちたからし種はもう見つかりませんでした。
 「残念だなあ」
 みんながっかりしました。
 
 「探しなさい。そうしたら、見いだすでしょう」
 と聖書にはあります(マタイ七・7)が、いくら探しても見つかりません。こういう時には、神様は別の真理を教えて下さるものです。
 ある人が叫びました。
 「みなさん、もう一度、あのからし種の教えを開いてみましょう」
 みんなは、同意して聖書を開いてみました。
 「神の国を何に比べようか。また、どんな例で言いあらわそうか。 それは一粒のからし種のようなものである。地にまかれる時には、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、成長してどんな野菜よりも大きくなり……」(マルコ四・30~32)
 ちょっと言葉をきって、その人は言いました。
 「みなさん、カーペットに落ちた種は、もう見つからないのかもしれません。しかし、もし土にまかれればどうでしょう。しばらくは、その種は土にうもれて見つかりませんが、時期がくると」
 みんなは答えました。
 「目を出し、成長して、大きくなります。ですから勿論、その種を再び発見できるわけです」
 種はカーペットの上にまかれても芽を出しません。水分がないからです。うるおいある、良い畑にまかれると種は芽を出し、成長して三十倍六十倍の実をむすびます。(マタイ一三・1~23)
 種には、いのちがあるからです。
 
 もう一つ、イエス様の有名な例え話に「タラントの教え」があります。旅に出る主人から一タラント(約五十万円)の資本を預かってその運用をまかされた僕(しもべ)の話です。彼は主人の追求をおそれて、その一タラントを土の中にかくしておきました。そのタラントは倍に増えるどころか利子も生みませんでした。主人は大変叱って、その持っているものまでも取り上げてしまいました。(マタイ二五・14~30)
 タラントを、いくら長く土の中にうめておいても何も生まれません。ちょうど、からし種がカーペットの中では芽を出しませんように。
 タラントは商売や銀行の中でふえて行き、からし種は土の中で芽を出します。
 同様に信仰をもって、神の国(神のいのち、神のことば)を受け入れると、それは私達の心や、私達の生活、私達の教会の中で、おどろくべき拡大・増殖・成長を見せるでありましょう。
(1978.3.12週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-02-29 23:00 | 日岡だより

No.736 山を海に移す信仰/いのちと祝福の道 2016.2.21

山を海に移す信仰 

◇「山が海に移るぞ」。ユダヤではそう言ったのでしょうか。日本で言えば、「そんな事が出来れば、お日様も西から昇るさ」という具合にです。
◇アル中が酒をやめる。家出の非行少女が家に帰る。離婚した夫婦が仲良くなる。借金の山が春の雪だるまのように消えていく。そして、あのぐうたらオッチャンが神の子になる。山が海に移るように。
(1978.3.5週報「キリストの福音」より)
 


いのちと祝福の道 

 人はだれでも、暗いところよりは明るいところが好きです。
 あなたは、天国と地獄とどちらが好きですか。
 
 「このふぐ料理は私がつくりました。」
 とある友人が言いました。
 「昨日もある人にすすめましたら、たいへんおいしい、おいしいと言ってくれました。それは危険なところと言われていますキモを残しておいたからです。キモはおいしいですよ。昨日の友人は大よろこびでした。今晩は、あなたもどうぞ」
 こうすすめられたので、見た目もおいしそうだし、食べてみたくなりました。念の為に聞きました。
 「ところで、昨日あなたのふぐ料理を食べた人は、その後どうでした」
 「いや、それがどうも。毒にあたって死んでしまいました」
 この時、あなたは、そのふぐ料理がいかにおいしそうでも、食べようとしないでしょう。
 あなたは「いのち」を選んだのです。
 
 「私の会社に来ませんか。たいへんもうかる商品を扱っています。他の会社の半分の値段で売っても、あなたにはまだまだ大きな利益がのこります。あなたはこれを売って、大きい財産をつくる事ができます」
 「どうして、そんなに安いのですか。見ると、よその商品と少しも違わぬ立派な品物ですが」
 「大きな声じゃ言えませんがね、これは盗んで来たものです。これを扱って、私の仲間は大もうけをして毎晩のめや歌えやで大喜びでしたよ」
 「その仲間は、今どうしています」
 「実は、今は刑務所にいます」
 この時、あなたはこの泥棒会社のすすめを受け入れますか。「いいえ」でしょう。
 あなたは「のろい」の道を拒否したのです。
 
 「もしもし、あなたは今幸福ですか」
 「はい、満足しています」
 「そうですね、今あなたの歩いている道は大きくてゆったりしている。しかし、大分まがっていますねえ。どうして、こちらの真っすぐな道を行かないのですか」
 「ああ、あの道ですか。少年時代にはあの道にあこがれていましたがね。しかし、あの道はせまいのです」
 「でも、今あなたの歩いている道は暗黒の地獄に行き、あの真っすぐな道は明るい天国に行くことは知っているのでしょう」
 「うーん、そう聞いていたし、また少々そんな感じがしますね」
 「では、どうしてあっちの道に行かないのですか」
 「―――あの道はせまいんでね」
 この人は死とのろいの道を選んでいるのです。
 
 「もしもし、あなたは今幸福ですか」
 「はい。大幸福です」
 「でも、ずいぶんせまい道を歩いていますね」
 「それはね、あなたが間違っためがねをかけているからです。それはこの世の子らに悪魔がだまして与えた逆さめがねです。この私のめがねをかけてごらんなさい」
 「おや、このめがねをかけると、こちらの道こそ巾ひろくゆるやかで、そして天に昇っているのですね。やあ、天国の門さえ少し見えるじゃありませんか」
 「それで、私がこの道を歩いているわけと、私の幸福なわけが分ったでしょう。あなたも一緒に行きませんか」
 「はい、ごいっしょに歩きます」
 この人は、命と祝福の道を選んだのです。
(1978.3.5週報「キリストの福音」より)




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by hioka-wahaha | 2016-02-26 20:46 | 日岡だより

No.735 知恵を求めよ 2016.2.14 

知恵を求めよ 
(週報1978.2.26記事の「知ることの大切さ」に付随して)
 
 今は頭でっかちの知的信者の多い時代であります。そこで、つい信仰の知的学習がおろそかにされて、意志が、もしくは感情を主にする教会が、いわゆる〝良い教会〟に多いようであります。
 
 しかし、信仰は知ることはなくして、おこり得ないのであります。
 知る→信じる行う、これが信仰の道筋であります。
 
「知恵に向かって、『あなたはわが姉妹だ』と言い、悟りに向かっては、あなたの友と呼べ」(箴言七・四)
 
 祝福の信仰(週報九号・昨日の説教)をもって、右の言葉を受け入れましょう。
 つまり、知恵を、姉妹・友というように親しく身近なものとして信じて、自分のものとすることです。
 
 ある人にとって(自分は愚かである、才能がないと思っている人にとって)、知恵は思いもつかぬ高嶺の花であります。
 信仰によって、やさしさや、平安が来ることは想像がついても、信仰によって知恵が与えられるとは、どうしても考えられぬのです。
 
 しかし、知恵もまた、神の賜物であります。これを神に求めなさい。
 
「わが子よ、知恵を得て、わたしの心を喜ばせよ」(箴言二七・11)
 
 あなたは、あなたのまことの父、神様を喜ばせようとは思いませんか。もし、そう思うなら、知恵を神に求めなさい。
 
「あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう」(ヤコブ一・5)

 この知恵はギリシャ人の求める知恵ではありません。この世の知恵ではありません。(第一コリント一・18~25)
 キリストこそ、われらの知恵であります(第一コリント一・30)が、この真理が同節の「キリストは……、義と聖とあがないとになられた」という言葉に比して、ないがしろにされています。
 キリストを、われらの義と聖とあがないとして、信仰をもって受け入れるなら、同様に知恵も受け入れてほしいものであります。
 
 イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか」
 私自身、長い伝道生活の中で、無知のため、ずい分無用のトラブルや、信徒の方に辛いまわり道をさせたなァと、申しわけなく思うことがよくあります。
 独立を重んじ、伝承をきらった私には、勿論良い点もありましたが、あのハナっ柱のつよいパウロでさえ、大事なことは人より伝えられ受けたというも、(ガラテヤ一・12にかかわらず)事実でありましたからね。
 
 私自身、古いことで、あやまっていた、あるいは足らなかったと思う点を、ドンドンなおしています。以前の私の言行を覚えていて、不思議に思うこともありましょうが、不審な点はおたずねください。そして益々学び、信仰の向上をはかろうではありませんか。
(1978.2.27「牧会通信」第一〇号より)







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by hioka-wahaha | 2016-02-18 08:22 | 日岡だより

No.734 悩みの日に主をたずね求めよ/知ることの大切さ/天よりの祝福を受けよ 2016.2.7

悩みの日に主をたずね求めよ

◇悩みは誰にでもあります。問題は、その自覚度であります。誰が見ても大変な苦労であるのにぐち一つ言わず堪えている人があります。逆に会う人ごとに自分の不仕合せを訴えて泣いている人もあります。人に訴えず、神様に訴えなさい。
◇「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11・28)とキリストは言われます。


知ることの大切さ 

 先週のこの欄に書きましたロッテの野村選手の場合、成功に至る第一の条件は彼自身が「おれの体はもっと走れる筈だ。生れつきランニングはだめだと思っていたのは間違いだ」と知ることにありました。
 かくして、知ることは、練習をやる決意をうみ、かたい決意は練習の持続をうみました。
 
 問題に対して適切な答をした律法学者は、「あなたは神の国から遠くない」とイエスにほめられました(マルコ12・34)。適切な知識→決意(信仰)→持続、これが、この世に於いても成功の法則です。
 
 さて、人生最大の宝である永遠の生命は、唯一のまことの神と、神のつかわし給いしイエス・キリストを知ることにあります(ヨハネ17・3)。イエスを知る知識こそ絶大の価値であります(ピリピ3・8)
(1978.2.26週報「キリストの福音」より)


天よりの祝福を受けよ 

 イエス様は、弟子たちを伝道に派遣する時、「金も袋も下着もくつも杖も持つな」と言われました。これは、私達に「無一物・無所有」の貧窮生活をせよとのお言葉なのでしょうか。いいえ、これは「神様第一、神様一切」の伝道生活が、実はいかに「ゆすり入れ、溢れ出す」ばかりの祝福に満たされたものであるかの、神のお約束の前書きでありました。
 
 イエス様は、後日「私は富に処する道も、貧しさに処する道も知っている」と宣言した、その特選の使徒の主であります。イエス様の一行は、王家ゆかりの女性さえ混えた奉仕団の献げもので、なんの不自由もありませんでした。一行には共有の財布がありましたし、ユダはそれをかすめさえしました。時には、その財布の中に、五千人の食事をまかなう程の余裕はあったらしくあります。イエス様の着ていた着物は縫い目なしの、当時で言えば高級品でありました。寝る所がなくても平気でありましたが、かと言って必要の時は悠然と格好の部屋を要求なさり、食事の時はよく飲み、よく食べ、よく歌ったのであります。
 イエス様は決してぜいたくはなさらず、野卑な陽気さはお持ち合わせではなかったでしょうが、かと言ってある人々の想像するように、貧乏たらしい生活でもなく、また悲しげなる人物でもなかったのであります。彼には「すべてのものが、あり余るほど」であったのであります。「おどり上がって喜ぶ」ことの出来る人でありました。
 
 私たちは、このイエス様より、十分にご祝福を受けるのでありますから、貧しげな、物の不足する、面倒な人生を予測してはなりません。
 「あなたがたの神、主が、あなたがたについての約束されたもろもろの良いことで、一つも欠けたものはなかった。みなあなたがたに臨んで、一つも欠けたものはなかった」(ヨシュア23・14)
 この約束は、イエス・キリストの血によってあがなわれた私どもすべてのものの上に成就されるのであります。このせっかくの御祝福を信ずることをせず、かたくなにこれを拒否するのは、傲慢無礼なる不信仰の態度であります。心へりくだり、全心全霊、神様とイエス様を信じて、最初の新生当時の信仰同様に、祝福を「受け入れ」ましょう。
 イエス様は、私たちに生命を与え、しかも豊かに与えるために、この世に来られたのであります。魂において、肉体において、またすべての事において恵まれるよう祝福を受け入れましょう。
(1978.2.26週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2016-02-13 14:14 | 日岡だより