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No.733 愛をもって人を戒(いまし)めよ 2016.1.31

愛をもって人を戒(いまし)めよ

一、前号に書きました「御霊の果」と対照的なのは、「肉の働き」です。(ガラテヤ五・19,21)

この肉の働きは心より出るのであります。一番底に、悪い思いがこもっていて、それがしだいに働き=行いとなってふき上げてくるようすを、イエスは目に見えるように語っておられます。(マルコ七・21,22)
その表を次に書きますが、一番底の悪い思いとは何でしょうか。
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 売淫 盗み 殺人
  ↑
 姦通 貪欲 邪悪 悪だくみ
  ↑
 淫奔 ねたみ 中傷
  ↑
 高慢 愚かさ

思いが、くせとなり、たくらみとなり、具体的悪行に発展していきます。

二、人の心に愚かな思いを見出し、人のわざに罪を見るとき、指導者はこれを正さねばなりません。
(1)おろかな思いをこらしめよ。(箴言二二・15)
(2)悪人をいましめるとき、その責任を気がついていて戒めぬ人に問う。(エゼキエル三・16~21)
(3)罪人を迷いの道より引きもどすのは、多くの罪をおおうことである。(ヤコブ五・19,20)

三、ただし「兄弟の目にあるチリを取りのぞくためには、自分の目にある梁を取りのけるべき」であります。(マタイ五・1~5)
そのためには、自分も同様な誘惑におちいりはせぬか反省しなさい。(ガラテヤ六・1)
人に対して高慢、おのれに対して愚かさの心を取り去ると、反省はやさしいのであります。

四、もう一つの、ただし書き。
死に至る罪、許されざる罪に対しては、二の(2)の項にしたがい、きびしくいましめなさい。
しかし、許される罪について、一々罪を問うて心を閉ざさせるよりも、時にはだまって、祈りそえている方がよいこともある。(第一ヨハネ五・16~17)

五、人をいましめるには
(1)人をいましめるとき、あなたは既に肉の人ではなく、霊の人でなくてはならない。(霊の人でなくては、自分の目にある梁を取りのけることはできない) (ガラテヤ六・1~5、(3)まで参照)
(2)柔和な心で……((4)も参照)
(3)互に重荷を負いなさい。
その人の個人的問題を自分のこととして当たれ
(4)ねんごろに……英訳でwith your neighbor 隣り人の心で(レビ一九・17 (5)も)
(5)いさめる……英訳でreason理をつくして説得する。
(6)できるだけ、人目をさけて。(マタイ一八・15)

六、人をいましめるには(再説)
「やさしい舌は命の木である。らんぼうな言葉は魂を傷つける。」(箴言一五・4)
「忍耐をもって説けば君も言葉を入れる」(同二五・15)
やさしい舌以上に、やさしい態度が必要です。レビ一九・17の「ねんごろに」の英訳は、なんとよい言葉でしょう。真正面から、むかいあってお説教するのではなく、そのとなりに並んですわって、兄弟のように、忍耐と理をつくして説得するのであります。
(1978.2.20「牧会通信」第九号より)


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by hioka-wahaha | 2016-01-31 23:00 | 日岡だより

No.732 御霊(みたま)の果(み) 20116.1.24

御霊(みたま)の果(み) 

○聖霊がクリスチャンに与える三つのものがあります。

1.クリスチャンの品性(御霊の果(み))
愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・忠実・柔和・自制(ガラテヤ五・22)
2.クリスチャンの力(御霊の賜物)
知性の面→知恵・知識・霊を見分ける
言葉の面→異言・異言を解く・預言
働きの面→いやし・奇跡の力・信仰
(コリント一書一二・8~10)
3.教会における役目(権威)
使徒・預言者・伝道者・牧師・教師・監督・執事・管理者・管理の補助者
(エペソ四・11、第一テモテ三・28等)
それぞれ九つずつに分かれています。もっとも、この数にこだわって機械的に分類して、信仰生活に応用したりする発想のしかたは良くない。

「賜物」は「権威」にまさり、「果」は「賜物」にまさります。
奇跡の力や預言の能力あるクリスチャンも、慈愛や善意の徳がなければ、天国には迎え入れられません。良き果が必要なのであります。(マタイ七・17~23)

○九つの御霊の果は、九個に分かれる、あるいは、九つの面に分かれるというより、九つの度合いの成熟度と考えた方がよい。

(クリスチャンの品性の成熟度)
愛 喜び 平和 寛容 慈愛 善意 忠実 柔和 自制(←)
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クリスチャンの品性は「自制」より始まって、しだいしだいに上位の方に成長する。(ただし、回心直後とか霊的刷新のとき、上位の愛・喜び・平和でみたされるときがあるが、そのとき気をつけて下位の自制→柔和→忠実の性格を身につけておかないと、思いもかけず後退することがおこる)

○「自制」の徳は、最低の度に位置するが、品性保持のため、最も大切である。
袋の一番底にあって、底がぬけぬようがんばっているカタマリのようなもので、ここがぬけると、上の方がみなぬけてしまう。
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○「自制」とは、禁欲のことではない。ダムをつくって、ただ水をせきとめるだけは、いつか大決壊がおこる。ためた水を他の利用法にみちびくのです。
「自制」を英訳ではセルフ・コントロールとしてある。心の内面におけるセルフ・コントロールが、品性成熟のために最も必要である。
○これは、努力やわざでは不可能です。
「聖なる生活へと召して下さるのは、わたしたちのわざによるのではなく、キリストの恵みによる」(第二テモテ一・9)のであります。

○ただし、わたしたちの側で、キリストの恵みの働き(霊のわざ)に協力することはできます。
 ↓それは
みことばの告白(コールCall)です。
みことばには力があります。
みことばはキリストの霊です。
 ↓どのように、するか
「みたまの果は、自制!」
とハッキリ口に出して信仰告白するのです。
心に信じ、口に言い表して。しだいにそのことが、あなたに実現します。
 ↓つづけて
一、二回にとどまらず、何べんも何べんも叫びなさい。主にむかって叫びなさい。
継続が大事です。朝おきてすぐ、又鏡の前で。昼も思い出すたびに(人の前では声を出さずともよい)、夜ねる前に。この就寝前のコールが最もよい。

(1978.2.13「牧会通信」第八号より)


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by hioka-wahaha | 2016-01-30 23:00 | 日岡だより

No.731 正義と愛と信念をもて/考え方をかえよ/地べたに書く 2016.1.17

正義と愛と信念をもて 

◇正しいと思うことをしようとすると、愛をふみにじる結果になることがある。
◇愛に溺れると正義を貫けないことがある。
◇正義も愛も、空想する段階では勇ましく且つすばらしいが、実際には常に障害が多い。
◇信念がなくては正義も愛も実行できない。
(1978.2.19週報「キリストの福音」より)


考え方をかえよ 

 「自分でもわからん。昨年までのワシを知っている連中に言っても信じてくれないやろな。今まで弱い、弱いと自分の暗示にかかっていたんやなあ―――。全く人間とは分からんもんやで―――」
 これは今日の毎日新聞夕刊に出ていた、ロッテの野村選手のキャンプでのランニングの話。
 先天的に弱いと思い込んでいたランニング。川崎での自主トレでは、常に半周以上遅れていたという。それが今や、先頭をさっそうと走っているのだそうだ。
 「信じられない」
 と報道陣は口をあけておどろいている。
 秘密は早大の阿部教授の一か月間つきっきりの特訓だ。それは「考え方」の変更である。生れつき走れないと思っていた、あのプロ魂をもっていた筈の野村に「おれは走れる、あとは努力しだい」と考え方をかえさせたのである。そして一カ月走ったのだ。
(1978.2.19週報「キリストの福音」より)

地べたに書く
少年の殺人事件が世間をびっくりさせています。そして、こういう事件のたびに、この責任はだれか、と問われています。子供の成長にあたっては、その責任はすべて親が負うべきであります。「社会」が悪いにしろ、「学校」が悪いにしろ、そのような社会や学校から子供を守らなかったのは親でありますから▲多くの親は、最初、子供の養育のため、子供の教育のため、と言って仕事に精を出し、そのうち、仕事が忙しくて子供を放り出して忘れ、責められると「生活が忙しい」と言うのであります。これを本末転倒というのです▲ある親たちは、子供とまじめな話を、おだやかにした事がないのであります。まじめな話は興奮して話し、おだやかに話す時は、冗談や茶化した話であります。子供は親を相談相手と見ていません▲ある親たちは、子供を叱るのがこわいのであります。「むちを加えない者はその子を憎むのと同じである」(箴言一三・24)と聖書にあります。信仰をもって大胆に叱るべきであります。そして、その心の悔いくだけたのを見たならば、オーバーな程に愛してやるのであります。
(1978.2.19週報「キリストの福音」より)




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by hioka-wahaha | 2016-01-21 11:15 | 日岡だより

No.730 全員で教会を建て上げる 2016.1.10

全員で教会を建て上げる 

 全員役員、という目標をかかげて、年をあけたのですが、その準備がゆっくりすすんでいます。一つの主日礼拝をはさんで、二つの祈祷会、その三つの集会あとの相談会の中で徐々に役目、そのしごと、人員等が見当つけられ、只今礼拝室後方に組織図が表示されるまでになりました。これはあくまでも試案でありまして、更に更に御旨のあるところを教えられ、智恵の霊をたまわって、神の教会にふさわしい活動の役目とその人を得たいものであります。
 それぞれ、一人何役でもよろしいですから、(仕事を実情に応じて、こまかく分けて担当していただくので)たくさんの仕事を受けもって奉仕して下さい。
 今、表示してある役目や、その人名は、まだ全くの試案ですが、出来そうなところから、関係同志の兄弟姉妹の間で、よく相談して、やり始めて下さい。その報告もして下さい。
         ×
 二人で組む、信仰の仲間(三人でもよい)を作るよう心がけてみましょう。
 「この地上で、二人のものが心をあわせて祈るなら、何でもかなえられる」
 「わが名によりて、二、三人集るところには我もまたあるなり」
 と主も仰せられました。
 自由勝手に組むと、いわゆる気分的なかよしグループになって、一種の派閥的なものになりやすいので、必ず教会の中の組織として正式にきめられるようにしたいのです。第一、新しく教会に来始めた方を、お世話したり、助言したりする(教会の中でも、外でも)先輩←→後輩の組。
 もう一つは、互に同輩、はげましあう二人組。
 ほおっておいても、自然にしたしくなり、行き来しだすようなグループは、それなりに主が祝して下さいます。
 しかし今ここで問題にしているのは、そうなりにくい、性格や住む処や、家の事情の人もあるのですから、そういう人を“落ちこぼさない”ようにしようということです。
         ×
 集会のあと、一人、二人と去っていく時、それぞれお相手をさがして、祈って去るようにしようと、二、三週前提案しましたら、その後ずっと習慣づいているようであります。この教会の貴重な伝統となるでしょうから、今後も励行しましょう。
(1978.2.6「牧会だより」第七号より)


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by hioka-wahaha | 2016-01-16 07:50 | 日岡だより

No.729 神の国建設の夢(福音の種) 2016.1.3

神の国建設の夢(福音の種)

 最近、ルーツばやりです。日本人のルーツはどこでしょう。しろうと考えですが、多分、原日本人と、南方からの渡航者たちと、大陸よりの移住者たちとの混合民族でしょう。原日本人(いたとしたらの話です)は僅少で、体や気質は黒潮に乗ってきた南方系の人々に負うところ大きく、文化的な面ではあとから玄界灘をわたってやってきた大陸系の人々に負うところが大きかったでしょう。
 いずれにしろ、日本人の主流は渡りもの(或は被追放者?)が東海の孤島に流れついて住みつき、そこへ大陸のあぶれものが押しかけてきてドッキングしたという格好ではないでしょうか。天孫降臨や神武天皇東征の神話は、そういう他国(他界)よりの移住となぐり込みの物語りであります。
 旧約聖書に見るイスラエル民族の移動も、それに似たものがあります。カルデヤのウルを出発、ハラン、カナンをへて、一度エジプトまで下ったイスラエル一族は、再びきびすを返してカナンに舞いもどる。
 エジプトにおいて、ヘブル人(イスラエル民族の別名)とは、民族名ではなくて被圧迫賤民の蔑称であったという学者の一説もあります。あるいは、奴隷階級化したイスラエル民族を中核にして、そういう賤民集団が出来たのかもしれません。これはイスラエルが十二部族に別れていたもともとの理由かもしれません。
 日本人もユダヤ人も(イスラエル民族、ヘブル人)も、神の選民であるという自覚のつよい民族でしたがそれは案外、漂泊民族特有の心細さから来る裏返しの意識造りであったかもしれません。
 
 戦後、日本人は日本の神話を忘れたらしくあります。私は戦時中、日本神話の妄信者たちに迫害されたけれども、しかし今でも日本神話を愛します。精神分析学の泰斗カール・ユングも言うように、神話は民族の夢であります。その民族が開花期(目のさめる時)の寸前、まどろみの中に見た夢であります。夢には、統一もまとまりもなく、前後矛盾し、横に連絡なく、唐突なトピックスでいろどられますが、そこに真実があります。
 民主主義になったからといってクリスチャンになったからといって、日本の神話を忘れてしまう事は、日本人のルーツをすてることです。流れものであろうと、本国のきらわれ者であったろうと、追われ追われてたどりついた日本列島でやっと住みついて見た夢であるなら、それは一つの啓示であるし、たしかにわれわれ日本人の霊的ルーツであると思います。
 今、私どもは「神の国の夢」をもっています。私どもはしがない者の集りで、ただイエスの福音によってのみ救われ神の子と呼ばれています。
 将来、神の国が建設された時、この国の民はどこから来たのか、そのルーツをさぐられたら、赤面する連中ばかりです。しかし、真のルーツは、私たち自身ではなく、私たちの中にある「神の国の夢」です。それはイエスの福音によって、私たちの心の中におろされた種です。この種がはびこれば、必ず神の国をもたらします。
 われわれの先祖が、太平洋や玄界灘を渡ってきたように、われわれは既にこの時代を脱出したものであります。さあ、神の国の夢をいだいて、その神の国建国の理想を打ちたてよう。
(1978.2.12週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2016-01-09 13:12 | 日岡だより