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No.728 建国の理想/一つの奇跡/聖書研究会/地べたに書く 2015.12.27 

建国の理想

◇昨日が建国記念日でしたから、建国の理想について、学ぶことにしました。
◇建国の理想などというと、時代逆行じみるけれど、こういう事に反対派とみられるキリスト教界こそ、聖書に即した祖国愛の精神を鼓舞せねばならぬと思います。
(1978.2.12週報「キリストの福音」より)
 
 
一つの奇跡
 
 「十字架と飛び出しナイフ」という本を読んだことがありますか。D・ウィルカーソンという青年牧師がニューヨークに出かけていって、暴力と麻薬常習の少年たちを神様に導く感動的実話です。
 この実話をもとに映画が作られました。もうすぐ日本にもきます。主演は人気歌手パット・ブーン(すばらしい信仰の持主で、すでに「新しき歌」という本が出ている)です。この映画をつくる時、場面再現のため、わざわざスラム街に行って、ギャング対決にふさわしい地下のボイラー室を探し出しました。そこで撮影している時、著者のD・ウィルカーソンが訪ねてきました。彼はびっくりして叫びました。
 「だれが、この部屋をあなた方に教えたのですか」
 「何のことです」
 「こここそ、私がはじめてギャングに出会ったまさにその部屋なのですよ」
 (パット・ブーン著「日々の奇跡」より)
(1978.2.12週報「キリストの福音」より)


我と我が家は主に仕えん(一三)
聖書研究会

 伯父・徳太郎は五十余才のまだ惜しい年令で天に召された。ちょうど、二・二六事件の翌日でありまして、この人の死を聞いた東京の友人達はひとしく大分でも矢張り軍人たちの反乱があって、それで殺されたのであろうと思ったそうある。そう思わせる、一種国士型でもいうべき熱気多弁実行のクリスチャンでありました。
 この伯父の主催する聖書研究会があって、私はしばしば出席しました。大体、小学校五年から中学二年ぐらいまでの年頃です。七、八人しか集まらぬ小さい集会でして、蔵書でいっぱいかこまれている部屋に集まるのです。一種言うに言われぬふん囲気があって、ガタガタ体にふるいが来るのです。話はむつかしくてさっぱり分らぬのですが、そのふるいつくような聖なる感動にひかれて毎週遠い道を歩いて行ったものです。
 ルーツばやりに事よせて言うなら、私の霊的信仰の源泉はこのあたりにあったかもしれません。この集会をおわって、ホッとして近くの伯母(三好シゲ)の家に行くのですが、この伯母がまたしっかりした信仰の人、私の母の尊敬のまとでした。この家で従姉の作ってくれた煮豆でも食べながら楽しい日曜日の午後をすごしたものです。
(1978.2.12週報「キリストの福音」より)


地べたに書く
ルターが言ったことがある。「私の頭の上に、すずめのふんが落ちても仕方ない。しかし、私の頭に、すずめの巣を作らせちゃいけないよ」。ルターは、悪魔のことを言ったのである▲世の中は進歩したもので、すずめのふんはともかく、飛行機や人工衛星が落ちてくる。これも、われわれ庶民の手では、どうにもふせぎようがないという意味で仕方がないけれど、多少抗議の意は表さずばなるまい▲特にソ連衛星の落下事件に対する世界世論で不思議なのは、人の国の上を勝手に通ることへの疑問が少しもないことである。ソ連が十数年前ことわりもなく人工衛星を打ち上げて以来、人々は科学の発達を祝うばかりで、自国の上空侵害については一つも抗議しなかった。いつか、自分の国も打ち上げたいと思ったからなのであろうか▲主は人の悪が地にはびこっておるのを見られ、人類一掃を図ってノアの洪水をおこされたという。今は地にはびこるどころか、宇宙空間にはびこり出した。主は再び来る、雲に乗って天にあらわれる、というのも審きは天より始まるのだという感なくもない。
(1978.2.12週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-12-31 20:11 | 日岡だより

No.727 「生きながら 死人となりてなり果てて思いのままにする業ぞよき」/われらの祖国・日本/信念と包容の宗教 2015.12.20

「生きながら死人となりてなり果てて
  思いのままにする業ぞよき」

◇今日は至道無難禅師(一六〇二~一六七六)の歌と伝えられるものを、そのまま説教題として用います。無難の弟子は正受、その弟子が白隠です。無難はもと美濃関ヶ原の庄屋、五十二才で出家した人です。
(1978.2.5週報「キリストの福音」より)


〔来週の説教のために〕  
われらの祖国・日本 

 戦争中、自称「愛国者」どもにより、たくさんの人々が迫害されました。その中の一人、当時の東京帝大の教授の職を追われた矢内原忠雄は、その著「余の尊敬する人物」(岩波新書赤版)の中で、エレミヤか日蓮の小伝のあとで、こう書いています。
 「誰が真の愛国者であったか、後の歴史であきらかであります」
 これは、日本ファッシズムの荒しのまっ只中で書かれた、おどろくべき真の愛国の書であります(当時、私は目を泣きはらして読んだものです)
 真の日本人クリスチャンは祖国日本を愛します。
 来週は時流に流されず、キリストの真理と似て非なる欧米人の主義思想にもまどわされず、キリストの光に照らされて、日本人の源流と、日本国の建国の理想をさぐりたいのであります。
(1978.2.5週報「キリストの福音」より)


信念と包容の宗教 

 一つの家の中に、神棚と仏壇があって、壁には論語の言葉の額がかかっている。これが典型的な日本の家です。神仏儒、千年間も同居して矛盾を感ぜずにおれる日本人のあいまいな意識には、おどろきます。
 西洋人は、この点きっぱりしています。そういう、本来の性格もあるのでしょうが、そこへもって来てキリスト教が入って来た。一神教の排他精神でこりかたまったユダヤ式がんこさで右と左を峻別する。必要以上に迫害もおこり、自殺的殉教者も出る。そういう西洋的キリスト教の行くところでは、各民族の神話も伝統も抹殺され、風俗さえ西洋化されていくのであります。
 
 右の二つの型は、どちらも未成長の宗教意識であると思います。
「(1)おのれの信仰への忠実と遵守において、熱烈無比であること。
(2)他の信仰に対して寛容であること。」
 この二つの態度は論理的に矛盾する筈ですが、一個のるつぼの中で二つの相いれぬ金属が合金できるように、一個の人格の中で、この二つが融和されるならば、何とすばらしい事でしょう。
 この真理を教えてくれたのは、ガンジーでした。
 
「愛のみが神を私に紹介する。愛は私の礼拝所である。愛は工場にあり、田園にあり、街頭にあり、寝室にあり、事務室にあり、台所にあり、病室にある。私は宇宙の至るところに礼拝所を持つ。愛あるところに、神がある。愛に於いて神を拝するものは、永遠に行きづまらない。愛は絶えざる泉である。愛に宗派はない。仏教徒とか、イスラム教徒とか、キリスト教徒とかいうのは、愛の区分のしかたではない。愛は包容を知って、差別を知らない。愛はすべてを人間に還元し、すべてを救い上げる。愛は最後の宗教である。教条によって私を区別するな。私は愛のほか、何ものにも属しておらぬ。
 かくあるべく私に教えたのは、イエスである。イエスは、教条によって人をうとんぜよとは教えなかった。愛は最後の啓示であり、最後の神殿である。私は愛の前にのみぬかずく。愛は私のすべてを領有する。神は愛である。
 永遠の愛よ、わき上がれ! わが内なる神よ、光栄を着よ! 今や世界は愛の飢饉に出合せている。愛のほかに、それを救済することは出来ぬ。」
 これは、五十年前に書かれた賀川豊彦の言葉です。今、彼の言葉を書き写すとき、ただ旧かなづかいを新かなづかいに訂正しただけ。実に現代的なテンポの早い名文なので、びっくりしました。
 
 人をおそれ、世間をおそれ、妥協とへつらいで、何教でも宗教は一つさと、ハナのさきであしらい、自分の内面を少しもほり下げず、社会の矛盾と悲劇に目をとじているアイマイ居士では信仰は分りません。そういう人が何と多い事でしょう。
 あるいは又、一宗一派にこりかたまり、我が教派だけ真理の真髄として他教派をさげすみ、教典や教義を重箱のすみを針でつつくような執拗さで研究して、同宗身近の教派とすら神学を争い、信者争奪戦を演じる、といった教団、教会も多いのです。
 当教会は、どの教団、教派にも属していません。単立の教会であります。その故に、時には不便不利益の事もありますが、今後とも今のままの姿で、あくまでもイエスを信じて熱烈奮闘、他宗他教派に対して自在寛容の態度でありたいのであります。
    (1978.2.5週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-12-26 08:10 | 日岡だより

No.726 キリストの体/父の子守歌/地べたに書く 2015.12.13

キリストの体

 今から二十年程前、空飛ぶ円盤がしきりに騒がれ始めた頃、イギリスの有名な科学者たちで作っている某研究団体が、何千光年、何万光年の宇宙のかなたに飛んで行く航行機はいかなる性能を持つべきかということを研究して、その結果を発表しました。それは二十年後の今日のテレビ劇画でさえ、まだ描いていないような空想物語りであります。
 まず宇宙塵などで機体の一部が破壊され、あるいは部品に老廃がおこっても、地球に機材を取りに帰れないという分りきった前提のもとに考えられています。
 (1)その機体には、一部の破損に対し、ただちに自動的に修理する能力がある。
 (2)多くの部品につき互換性がある。
 (3)一つの機能が停止した場合、他の部分に代償機能が働く。
 (4)疲労し破壊しはじめる前に、各部分は同型のものを自ら造りはじめて、交替する。
 誰でも気づくでしょうが、これは高度に発達した生物の肉体をモデルにしています。
 
 教会は一つの体であります。キリストをかしらとする体です。つまり、教会は一つの生きものなのです。(エペソ一・23、同四・11~16参照)
 ですから、教会は無機物を積み重ね組み立てた機械のようなものではなく、一つの生命体として、生れ、育ち、成長していくのです。
 信徒は体の中の一つ一つの肢であります。各信徒は、役目はそれぞれ異なりますが、一つ生命を共にしています。そして、共に喜び、共に痛み、共に傷をいやし、代償機能を働かせ、あるいは交替して互に働いたり休養と回復につとめたりします。
 このたび、全員役員制を呼びかけていますが、機械的な無生命体的な組織ではなく、一つの生きもののような弾力性ある“からだ”であってほしいのであります。
 「主よ、私たちをキリストの体の、それぞれの器官として用いて下さい」(一月二十五日祈祷会)
 
 木の根っこは、地表の幹をささえる。人の目からはかくれる。姿見せぬ“仕え人”である。根は上をささえ、上の為に養分を吸う。“下に根を張り、上に実をむすぶ”(イザヤ三七・31)のであります。教会の役員もしかり。役員とはおエライさんではない。仕え人である。“人の子の来たのは仕えられるためではなく仕えるために来た”と主イエスも言われた。(一月二十二日説教の一部)
(1978.1.29週報「キリストの福音」より)


我と我が家は主に仕えん(一二)
父の子守歌 

 讃美歌三五九番の曲を口ずさむと、私は今でも胸がジーンとするのです。この譜にのせて、父・太重が私のために子守歌を作ってくれた。それをよく母がうたってくれたのを覚えているからです。
 「可愛い義人よ、おいしいお乳を
 泣かずに眠らで、しずかにお飲み
 夜も日も神さま、共にいまして
 あなたを愛して、守りたもうぞ」
 生れたばかりの赤ん坊を「あなた」と呼ぶ父の、人格に対する尊敬の心は、いつまでも私のよい意味での自尊心を守ってくれたと思います。
 
 父は、死期をさとってから、「主にある肉の兄弟会」を開くことを要求、同信の兄や姉を病床のまわりに招いて、最後の家庭集会をもちました。そして、死後の相談、葬儀の打ち合わせ等、まるでフスマをあけて隣の部屋に行くように話すので、かえってまわりのものが泣かされたと、長兄徳太郎が言っています。
 昭和五年三月十三日の朝、私が目をさますと(当時八才)、親族のものがたくさん来ていて、その中で父が横たわっているのを見ました。母が目を泣きはらしていました。私は父の死をさとりました。
(1978.2.5週報「キリストの福音」より)

地べたに書く
節分が過ぎた。もうすぐ立春である。春が近い。寒さの最もきびしい今、地の底からうごめき、雲のかなたから身がまえているような、春の動きを感じる。「岩ばしるたるみの上のさわらびの萌えいずる春になりにけるかも」(志貴皇子)この歌、私は万葉集の中で最も好きだ。春になって萌えいずる力、あの力を地球表面上のすべてを集計したら、どれ程のエネルギーになるのであろう。ほうはいたる全エネルギーが、春になって解放される。生命の春よ、今われらに来たれ▲春だ。たしかに春が来ている。見るところ、まだ外は寒く、雪の下に梅や椿がさむざむと咲いている風景であっても、そこに春がきている。今、この教会、大分市の東の住宅街にひっそりかまえて、人数も少し、さして宣伝もせず、人の目に小さい。しかし、聖霊の胎動がある。約束の御言がある。時は満ちている。祈りにもえている。奇跡が足音を秘めて、そこまで来ている▲小さな原子が崩壊し、更に小さな電子が飛び出して連鎖反応をおこすのが原子爆発。小さな一人が爆発し、そして連鎖反応をおこす時、教会も爆発。爆発する教会たれ!(1978.2.5週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-12-18 17:06 | 日岡だより

No.725 神人合一をめざして/上に立つ権威に従え/“神人合一”/地べたに書く 2015.12.6

神人合一をめざして

◇滝をあび、火を渡り、神人合一の境地を得たりと称して、人格あやしげなる御祈祷師がよくあらわれる。そこで教会は神経質になって、こういう言葉を嫌う。しかし、
◇「もはや我生くるにあらず、キリスト我が内にありて生くるなり」とは、正しくキリスト教的神人合一の世界である。
(1978.1.29週報「キリストの福音」より)


上に立つ権威に従え

「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。」(ローマ人への手紙一三・1)
 この手紙を書いたパウロをはじめ、初代教会のクリスチャン達は、ローマ政府のキリスト教徒迫害によって、その多くが殺された。彼らは何一つ反抗するでなく、まして暴動も革命もおこさなかった。そして三百年たったとき、ローマはキリスト教を国教としたのである。弱いものの方が、剣も槍も用いず、信仰と従順によって、権力に勝ったのである。
 たとえ誤った権威であっても、彼らはその権威に従った。信仰の表明も、ギリギリの時と場でしたのであって、これ見よがしに、反抗的に礼拝したわけではない。(ダニエルは異教の二王朝に智恵と礼儀をもって仕え成功した。信仰なき上長者に仕える模範である)
(1978.1.29週報「キリストの福音」より)


我と我が家は主に仕えん(一一)
“神人合一” 

 父・太重のすぐ上の兄を春三(はるぞう)といいます。長兄・徳太郎が手紙をよこすたびに「聖書を読め、聖書を読め」と書いてあったそうだが、遂にこの伯父もクリスチャンになる。もっとも、この兄弟は、そろいもそろってヘソ曲りの所があったのか、最初の末弟・太重が日本基督教会、長兄・徳太郎が無教会、次兄の春三が救世軍、と、それぞれ顔をよそにむけている。そこで、次代をついだ私は、日本基督教会のカルヴィニズム、無教会の聖書研究と対社会発言型、救世軍のきよめと軍楽隊を混ぜこぜにして受けつぐことになったのかもしれません。
 戦後だったが、この春三伯父が、私にふともらした。
 「わしの最後の目標は“神人合一”だ」
 私はあっけにとられて伯父を見た。私には“神人合一”なる言葉があまりに異教的神秘主義のお題目に聞こえたのです。私は当時、ジョン・ウェスレー式の回心をしたばかりで、信仰的には義認論のコチコチです。“神人合一”などとは全くもって不敬けんの極に思えました。
 “我もなく世もなく、ただ主のみいませり”という讃美歌もあるくらいだから、キリスト教的神人合一論も無くはあるまいと、この頃やっと思っているのです。
(1978.1.29週報「キリストの福音」より)



地べたに書く
ヨハネの黙示録に言う「第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ▲ソ連の人工衛星がカナダ上空で落ちたという。早速、放射能による大気汚染が取り沙汰されている。クリスチャンなら、誰でも右の黙示録の聖句を思い出すであろう。まことに終末的時代になったものである▲娘にすすめられて「アルプスの少女ハイジ」をよむ。実に健康で信仰の奨励に満ちている。角川文庫に忠実な訳がある。幼児むけの抄訳ではダメである、テレビは尚更のこと。おわりの方で、作中のハイジは言う「いくらお祈りしても、神さまが他に良いことをご計画中なら願いごとがかなえられないこともあるのよ。それはすばらしいことなのよ。もっとすばらしい事がおこるのだから」(少し大人むきに書きかえた)。良書として推薦したい。
 (1978.1.29週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-12-11 14:56 | 日岡だより