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No.724 実行/伯父・徳太郎/地べたに書く 2015.11.29

実行

 いい事だと思ったら、実行しなさい。
 気がついたことは、すぐ実行しなさい。
 上の人に命じられたら、すなおに服従しなさい。
 神様に御旨を示されたら、喜んで服従しなさい。
 
 実行の四態―――
 (1)即座に実行する。
  (日時が別にきめられれば、その予定の日時に必ず実行する)
 (2)具体的に行動する。
 (3)信じて実行する。
 (4)喜んで実行する。
 
 やりかけてみて、悪い事だと気がついたら、すぐにやめなさい。上の人の命令が、神の御旨にそむくと分ったら、智恵と礼儀をもって他の方法を進言しなさい。
(1978.1.22週報「キリストの福音」より)


我と我が家は主に仕えん(十)
伯父・徳太郎 

 私の父・釘宮太重は祖父・正喜の三男で、上に二人の兄がいました(姉が四人、全部で七人)。一番上の兄は釘宮徳太郎といいます。この人は、父・正喜に寵愛されて、東京の大学まで行き、大分県特産の畳表を日本橋の西川甚五郎商店に送ってあるのをいい事に、金がなくなると、同店に行って金を引き出し、ぜいたくにくらしたらしくあります。卒業して、家にかえっても地味な商売に長つづきせず、朝鮮にわたって、「海賊」まがいの商売をしたらしい。そのあげく帰ってきて、留守の商売をしていた末弟・太重の経理に疑惑の目を光らせ、泥棒猫の如く言いたてて家を追い出し、彼を泣かせたのであります。
 前回まで、大分父をほめあげましたが、実は若い頃は不平不満の悲観屋でもあったらしく、それが兄弟不和の原因であったかもしれません。この長兄・徳太郎が、回心後の太重の変身ぶりにびっくりして、クリスチャンになり、他の弟・妹もクリスチャンにしてしまいました。こうしたクリスチャン一族の中に、私は生れたのでありました。
 今、大道町六丁目、旧水源地の前に、この徳太郎の墓があります。自然石の墓石に
 「仰ぎ見る十字架」と大きい字が人の目を射ます。
(1978.1.22週報「キリストの福音」より)


地べたに書く
伊豆の地震は大変であった。地震といい、台風といい、日本列島もなかなかな処。この上にすんでいる人民諸君、ご苦労さん、と言いたい▲静岡県では余震情報のデマでパニック。その後の市民の反応が至って良識的なのに感銘した。いわく「あの情報の手ぎわはよくなかった。でも、あれで勉強になった。あれにめげず、今後も正直な情報を流してほしい」と。地震がこわいと言っても他国に逃げられはせぬ。死の危険と生活の板ばさみの中での、庶民の良識が感ぜられる▲先日の新聞で、大分の港湾は全部不合格。万一石油事故がおこれば別府湾は火の海。大分市海岸沿いは一キロm以内は灼熱の地獄。と、某東京都公害高官の御託宣。これに対し、その後一語の評価も説明もせぬ県や新聞をおかしいと思う▲聖書は人類の時代の終りを告げている。キリストの再臨、さばき。それに先立つ戦争とききんと。人間の益々つのる不義と、死と。これらは聖書にはっきり予告されておる。それをあまり語りたがらぬ牧師やクリスチャンもいる。少々の行きすぎはあっても、矢張りタイコをたたいて言わねばならぬ。
 (1978.1.22週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-11-30 23:00 | 日岡だより

No.723 冬は根がはる時だ/手をにぎれ/地べたに書く 2015.11.22

冬は根がはる時だ

◇たいていの庭木の植替えは、冬にするようであります。冬は地表に出た姿では、成長のとまった、木によっては枯木のような格好ですらあります。
◇しかし、この時、地中では根が張っているのだそうであります。「神様、人生の患難の時、私共の心の根をはらせてください」(1978.1.22週報「キリストの福音」より)


手をにぎれ

 今思えば、その人にとって、私は息子のように思えたのでありましょう。私は当時二十二才。
 「ヨシト!」
 と私の名を聞いたので、私はおどろいて扉の方を見た。扉は鉄の扉で、それは一日に七回ひらかれる。朝の点検、朝食、便器の取り替え、昼食、夕食、夜の点検、それに作業の素材、製品の出し入れ。その扉を魔法のように脱け出し、背の四倍程ある塀をのりこえ、社会にもどっていくのを、よく白昼夢のように想像したものだ。その扉のむこうに、私を呼ぶ声がする。その男は、北九州炭坑地帯の労務手配師かなんぞのような男で、四、五十才。私が前、あやまっておろされていた第三工場の「雑役」だった男である。彼は今、かわってこの北一舎、独居房の雑役になったのであろう。
 小さな監視窓から私を見つめているその人の目に、私はその人が誰であるか、すぐ認めた。
 「あ、ムラカミさん!」
 「ヨシト、手を出せ、手を出せ」
 私はせまい通気孔に手を入れた。むこうよりムラカミさんの厚い手のひらが来て、ぐっと握ってくれた。
 「ここはのう、余りに担当(看守)台に近うて、何も持って来てやれん。今度、正月にはみかんばいっぱい持って来てやる。さァ、ヨシト、手をにぎれ。元気出せ。死ぬなよ。お前のような良か人間がここで死ぬ事はない。コーリャン飯、うまくはないが、よくかんで食え。さァ、手をにぎれ、元気出せ」
 私は泣いた。
 
 その後、ムラカミさんに会うすべもない。筑豊地帯の川筋ものの喧嘩かバクチで刑務所に入ったのであろうか、精悍な顔つきの、あの囚人ムラカミさんの顔が忘られぬ。
 そのムラカミさんが手を握ってくれた部屋、北一舎六二号室。煉瓦づくりの冷たい部屋の中で、そうだ、昭和十九年十一月二十三日である。私はイエス様の御言葉にふれた。私はそこで、古い私に死に、新しいキリストの生命に生きる体験をしたので、まるで生き返った者のように元気になった。
「うれい多き獄にしあれど主によりて生かさるる身の幸に我が酔う」
 かつてムラカミさんの慰めに泣いた私は再び主の御あわれみに泣いた。私は神様の手を握ったのだ。
「わたしたちの身に少しの休みもなく、さまざまの患難に会い、外には戦い、内には恐れがあった。しかるに、うちしおれている者を慰める神は………」
 とパウロはコリント第二書七・5,6に書いている。
 いかなる時にも、うちしおれている者をなぐさめる神の御手をにぎる者は幸いである。
 「神さま、私の手をにぎって下さい」
(1978.1.22週報「キリストの福音」より)


地べたに書く
現代は経済的自立が非常におそい。独身貴族というて、収入はかなりあるらしいけれども、昔のように間借り一間にコンロで飯をたいておれば世帯がもてるというわけにいかず、電化製品やら、何やら、かにやらを求めていると、いつまでも世帯をもてず、他にもいろいろあるのでしょう、現代は非常な晩婚時代であります▲「できれば私のように独身でおるがよいが、胸の燃える思いのするよりは、誰かよい人を求めて結婚するがよい」とパウロは少々はしたない、けれどつまり物わかりのよい言葉を残しています。好きな人の前では、プラトニック・ラブというやつで、フェミニズムの権化となって性感の一かけらもおこらず、軽蔑する商売女の前で突如として性欲が激してくる、極端な例だが、こういう例も二十才前後の男性にはおこりやすい▲まして性刺激の文書図版が巷にあふれ、性欲を制御・転換・昇華させる途を一つも教えない現代の日本の世情が、警察官の女子大生暴行殺人事件の原因の最たるものです。性教育の最も必要なのは成人者です。「愛のコリーダ」がいかに芸術作品であっても、矢張りそれ以上の倫理的ブレーキがなければ公表はさけるべきです。
 (1978.1.15週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-11-27 09:15 | 日岡だより

No.722 限りなき喜び 2015.11.15

限りなき喜び

 信仰生活より喜びが消えてしまったとき、それはあきらかに危険信号であります。もし、その人がはっきりと自分から信仰を捨てたのでなければ(ひとたび神様からとらえられた魂は、そうたやすくは信仰を捨てられるものではありませんが)、まず最初に点検すべきは、信仰生活の基本原則を守っているかどうか、ということであります。
 
 信仰生活の基本原則は
  (1)祈祷を常に
  (2)聖書をよむ
  (3)集会に出席
 の三カ条です。
 これは生れたばかりの、みどり子が、これから何を基礎に成長していくかという問に対して、
  (1)呼吸
  (2)食餌
  (3)保護
 と答えるのに似ています、祈祷は呼吸に似て理くつの上では最も大切なものであります。食餌は聖書に似て、これさえ与えておけば、大体生きていけるものであります。集会は、家庭的保育(保護)に匹敵するものでありまして、これさえあれば(1)呼吸(祈祷)も、(2)食餌(聖書)もおのずから手厚い保護の下に与えられ、その他、保温、おむつ、愛撫等身心共に必要な環境をあたえられます。集会出席こそ、事実上には最も大切な信仰成長の基礎であります。
 
 ところが、赤ん坊に対するような愛と保護がいつまでもつづきますと、ややに成長してくる幼い魂は、母親の過保護な愛をいとい、かえって欲求不満をおこします。信仰の幼児にもこれがおこります。
 これが、信仰成長の途中にしばしばおこる喜びの消失であります。
 単純な甘い甘い砂糖菓子がつづくと、自然に舌は、辛さ、にがさ、しぶさを求め、そこに一段上の次元のうまさを発見します、単調な甘さにはたえられなくなります。
 又、人間の欲望は拡大しますから、母親から与えられるだけの、菓子やおもちゃの喜びでは、次々に満足できなくなる。全世界をもらっても、欲の皮はたるまないので、現実もらえるものは、その欲深さに比して僅少ですから、不満はつのり、喜びは消えます。信仰の喜びも、もしその信仰が神様から何かをもらえるかしらと、期待ばかりの信仰ですと、いつか必ず欲求不満の時がきます。
 それは、神の供給に限界があるからではなく、人間の側の信仰が自立すべき成長期にきているからであります。
 子供は成長して外に出、甘い砂糖菓子よりも、森の中で小さな冒険をして、野蜜をなめたい時が訪れているのです。
 
 成人した人間は、与えられ保護されるのでなく、仕事を求めて、社会に奉仕し、家をささえるのであります。子供をうんで、これを育てるのであります。ここには、幼児期や青年期には想像もつかない苦労もありますが、又喜びもあります。この為に、まず人間は幼時より家事の手助けをし、家計を守る苦労の一端をなめるのがよいのであります。それと共に、友人をふやし、社会生活の訓練をつんで行きます。
 同様に、信仰の成人者は(あるいは成人への候補者は)、
 (1)教会や兄弟姉妹の為への、財力・労力の犠牲と奉仕をおしまぬ事
 (2)まだイエス様を知らぬ人々に、主の福音を伝えること、が必要であります。
 (1)は献金に象徴され、(2)は伝道であります。
 
 信仰の喜びは、しばしば突然与えられ、そして急に取り去られる、冬雲の下のつかの間の日ざしのような処があります。少なくとも、多くの人はそのように実感していはせぬかと思います。
 その人の信仰はすでに少年期を脱し、与えられ着せられるだけの喜びでなく、神さまの森に目的の岩穴を見出し、服も脱ぎ捨てて、そこに駆けより、危険な蜂の巣に近づいて喜びに胸をはずませる………そういう発見の喜びの時代に来ているのであります。
 日だまりを求める幼児や老人には、太陽のかげた雲の下は残酷でありますが、雪を求めて戸外にあそぶ少年には晴れも曇りも変りはない。恵みをただ与えられるものとして乞食のように待つものには、しばしば喜びの消える日もあるが、自ら犠牲を求め、十字架をおい、愛のわざを為し、御言を伝えるものには、喜びは日夜限りなく連続してわいてくるのであります。
 (1978.1.15週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-11-19 21:51 | 日岡だより

No.721 ガンを知らせるべきか 2015.11.8

ガンを知らせるべきか

 あなたの家族の誰かがガンになったら、あなたはその人にガンである事を知らせますか。
 たいていの人は知らせません。それが日本での常識であります。
 牧師が、ガン患者への訪問をたのまれ応諾すると、「しかし先生、本人はガンであることを知りません。決してガンだとは悟られぬようにして下さい」とたのまれて閉口することがよくあります。(敵を直視することを忘れて敵を滅ぼすことはできませんから、これではせいぜい病床見舞になってしまいます。)
 
 欧米ではガンは本人に告げるのが一般的です。私もできるだけ(特に当教会の信者さんに万一のことがあれば)はっきりガンであることをお知らせするつもりです。現に木南姉はご夫君の肺ガンを早くよりご主人に告げ、ご本人は従容として万端整理し後顧の憂いなく世を去りました。又、石橋姉は早くより、御自身のガンを自覚され、大手術を二回、その後玄米食・自然食療法も兼ね取り入れて、雄々しい信仰的闘病をやっておられる。
 正直に言って、ガンは死亡率の高い悪質の病気です。それだけに当人にとり、人生最大の山場が来ているわけです。これを知らされもせず、ウカウカ通りすぎ、だまされとおして死ぬなど、最大の悲劇であります。
 
 国立ガンセンターの熊岡医師は臨床の体験からして、一般的にいって、(1)戦争体験のある人、(2)死について常に考えている人、(3)熱心なクリスチャンは、あまり死をおそれないと言っている。こういう人にとってはガンの宣告は一時的にはショックであっても、それを乗りこえ、死に耐えることができるし、又実際に病気をいやしている事例が多数あるのであります。
 
 この前、アメリカ民主党内でカーター現大統領と地位を争ったハンフリー上院議員は、その直後ガンで倒れた。そして今再び立ち上がって政界で大活躍している。これは生々しいニュースであります。彼は言う。「一粒のからし種の信仰が山を動かすことができる」というキリストの言葉にはげまされ、困難な戦いを乗りこえた。信仰にみちた心が、今日から明日へと私を生きつづけさせている、と。
 
 さて、最近アメリカでカール・サイモントンという腫瘍学・放射線科の医師、医学博士である彼の開発した精神力によるガン征圧療法が評判になっているらしいのであります。その紹介書が日本で出版されましたので、御一読をすすめます(「もう一つのガン療法」近藤裕著・日新報道出版)
 内容は自律訓練法や、私のよく言う映像祈祷法に似ているので、さまで新しい事とも言えませんが、ガン症状に密着した指導テクニックがさすがであります。これはガン療法のみでなく、他の病気や、悪癖、劣等意識、無能力感のいやし等に応用できます。
 (昨年来日したマクナット神父の洗足の儀式や先月ポルノ雑誌王の回心で取り上げたステンプルトン女史の記憶のいやし等、最近の伝道者たちが映像法を積極的に重んじている事は注意していいことである。)
 
 さて、話題を冒頭にもどします。
 国立ガンセンターの池田節子さんという看護婦の方の記。
 「だいじょうぶですよ、まだまだ元気でいられますよ」と言われて甘やかされている人にくらべ、自分で死に立ち向かおうとしている人の最期の迎え方はりっぱです。それは、教養のあるなしでなく、その人の死への自覚にあると思います。一生の最後の大事な時間を、けっして人任せにしてむなしく過ごしてはいけないとしみじみ思います」と。
 
 ところで、「元旦や、めいどの旅の一里塚」と一休さんは言ったそうだが、正しく然り。人間はすべて死ぬ、死の原因は罪である。
 「あなたはガンですよ」
 と愛するものに言わねばならぬように、聖書はあなたに告げる。
 「あなたは罪人ですよ。世界一の罪人ですよ」
 「なにを、バカな」
 あなたは腹立たしいでしょうが、聖書はあなたの死と、その原因(ガンとも言うべき人間生来の罪)と、それより発生するもろもろの症状(不幸、不満、痛み、不安、劣等感、とが、にくしみ、悲しみ等々)を直言します。
 
 「健康なものは医者を要しない。病気の者のみ医者を要する。私は正しきものを招こうとしてこの世に来たのではない。私は罪人を招こうとしてこの世に来たのである」と言い給うたイエス・キリストの処に行きましょう。
 「イエス様、罪人である私をお救い下さい」  
(1978.1.8週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-11-14 15:07 | 日岡だより

No.720 すべての人よ成人せよ/善き実を結べ/仰ぎます/仕事/地べたに書く 2015.11.1

すべての人よ成人せよ 

◇「はえば立て、立てばあゆめの親心」と言います。すべての人が成長し、成人し、完成することこそ、天の父なる神さまの尊い願いであります。
◇みごとに成人し、父をよろこばせ、みずからも最高の幸福者となり得る、イエス様の教えを聞きましょう。
 (1978.1.15週報「キリストの福音」より)


善き実を結べ

クリスチャンよ。
あなた方はすでに善き木なのであります。
善き木は、善き実をむすぶべきであります。

ルカ福音書一三・6~9を見ると、
神様はこの農園の主人であります。
もう三年も実を求めているのでありますが、
この木は何の実もむすばない。

園丁は言います、「切り倒さないでください。
もう一年待って下さい。
そのまわりを掘って肥料をやりますから」

肥料とは、御言葉と聖霊です。
園丁はイエス様です。
 (1978.1.1週報「キリストの福音」より)
  


仰ぎます

世のすべての人と、霊界の全天使たちが、
私を責めるときも、
「我にそむける汝を愛す」と言って下さる、
イエス様を仰ぎます。

私にただ一人の味方あり。
かばいがたき、罪人なる私をかばい、
他のすべてをさしおいて、
条理を排して許して愛して下さるイエス様!

あなたの傷、あなたの血汐に、
私のおもてをつっこんで祈ります。
あなたの傷の痛みに、
あなたの血汐のいのちに。

そこに私の罪の痛み、罪の死。
 (1978.1.8週報「キリストの福音」より)
  

仕事

 神様がなまこやくらげを造ったとき、彼らが為すこともなく海中にただようことを許された。
 しかし人間を造った時はそうではない。よく動く手足をつけ、肺臓・心臓・血液をあたえ、聡明な頭脳を与え、それぞれの器官に特色ある能力をあたえた。そして人間にむかって命じられる。
 「行って、働け!」
 
 何をしていいか分らないなら、単純な肉体労働の一つに手をつけなさい。人間五十万年の遺伝で、こういう仕事は、人間の純粋な喜びを回復させる。
 
 もし、退屈なら、仕事が面白い「ふり」をすることだ。それだけで、仕事は本当に面白くなり、疲れも感じなくなる。患難の時も。
 (カーネギー名言集をタネ本にして)
 (1978.1.15週報「キリストの福音」より)

地べたに書く
正月五日間、I兄、Y兄の二人を相手に特訓会をした。といっても正月のこと、何かと来客も多く、時間を縫ってやってみた。一回だけ創造者なる神と人間の罪とキリストの贖罪について長口舌二時間。あとはもっぱら自己暗示法、映像法、発声法、呼吸法、自由運動法等実技的な事ばかり、福音信仰には無縁な事ばかりのようで、エライ先生方から叱られそう▲しかし、「お祈りしなさい、お祈りしなさい」と言うばかりで、祈祷の具体的指導もしない。「聖書をよみなさい」といっても、聖書の読み方を教えないようではいけないので、私は日頃より実技的指導を重んじ、その一端をやってみたのであります。▲前記の二名と、帰郷中の長男夫妻と同行し、一月五日スギノイパレスに遊び半日をすごしました。終って前の広場に立つ時、この大きなお遊び施設の豪勢さに今更のようにおどろき、それにひきくらべ教会の貧弱さ、出入する人間の数のあまりな格差を歎じた。何としても、三千人の教会を欲する。一般市民数千人を呑吐する精神教育の施設はできないだろうか。人の目に不可能に見える事も神は為し給う。
 (1978.1.8週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-11-06 09:29 | 日岡だより