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No.719 「この年に目標を与えよ」/全面的に住み給え/主よ、来たりませ/地べたに書く 2015.10.25

「この年に目標を与えよ」

◇一年の計は元旦にありと申します。目標のない人に生き甲斐がないように、目標のない一年は、働こうにも、努力しようにも、何の喜びもわかない一年になってしまいます。
◇手には手の、目には目の目標があり、それは体全体の目標につらなります。あなたに期待される今年一年の目標は何でしょうか。
 (1978.1.1週報「キリストの福音」より)

 
全面的に住み給え

 既に、クリスチャンである人々に申し上げます。
 あなたの心の中に、イエス様はいらっしゃいますか。いる筈だけれど、どうもその自覚が希薄であるという方はいませんか。さすれば、クリスマスを毎年祝わねばならぬように、あなたも又もう一度、あなたの心にイエス様が住み給うことを瞑想しましょう。瞑想するから、幻想のように主がそこにおられる気がするというのではない。主が、ここに現実におられるから瞑想するとテレビの走査線をあわせるように、主がはっきりしてくるのです。
 あなたの心の地図をひろげなさい。あなたの心の中の、さまざまな記憶、さまざまな考えと計画、さまざまな感情。つまり、勉強、ギター、恋人、お金、旅行、仕事、昨日よんだ小説、マンガ、冒険、生と死、にくしみ、シット心、逃避、あこがれ、等々いろいろな心の区画があり集落がある。この一つ一つにイエス様に来てもらいなさい。
 ガリラヤの村々を巡り歩いたイエス様に、今あなたの心の村々を巡り歩いてもらいなさい。
 イエス様について歩いたペテロやヨハネのように、あなたもイエス様に従ってあなたの心の巡礼をなさい。
 (1977.12.25週報「キリストの福音」より)

 
主よ、来たりませ

 イエス様は、私たちの(そしてあなたの)心の全領土と巡り歩かれ、これをすべて占領したいと願っておられます。
 あなたは、この言葉を聞くと、あなたの努力で、あなたの熱心で、あなたの心を駆りたてて、イエス様に「大政奉還」せねばならぬのだと考えはしないでしょうか。
 そうではないのです。ただ、イエス様を迎え入れなさい。彼ご自身が改革の光であって、私の心を闇より光にかえてくれます。私が、私の努力で光になるのではない。ろうそくは、人に光をつけられて、光をともすのである。自分で発火することはできません。人間も、自然発火はしません。
 イエス様は私たちの火であります。かつて、クリスマスの夜がありました。一人一人の歴史にも最初のクリスマスがあり、又くりかえし、クリスマスがあるべきであります。そして、あなたの全心全霊が主のものとなる日がくるでしょう。
 間もなく、主は再び来たり給います。そのさきがけとして、私たちの内に、日々クリスマスをむかえましょう。主よ、来たりたまえ、ハレルヤ。
 (1977.12.25週報「キリストの福音」より)

地べたに書く
今朝の新聞では今年の倒産自殺六十一名とか書いてあった。私の周囲にも不渡り手形を出して大阪方面に逃げ出して保証人たちに大迷惑をかけている御仁がいる。その中で、ある建築会社の青年社長は倒産して一介の大工になり、かつての部下と協力して裸一貫でやりなおしている人あり。言うはやすく、なかなか出来ないことである▲人間、その場にならぬと分らぬことがある。とび箱の前で脚から力がぬけて腰がなえてしまうように、ひとたび倒産となると日頃の処世訓もどこへやら、精神の脚がすくみ、腰の力がぬけるのである。そうならぬ為には、運動で言えば何度も練習が必要だが、人生に用立てる為には、祈る習慣、内在するイエスを確認する習慣をつけておかねばならぬ▲困難、患難、トッサの危険、不幸に見舞われた人の記事やドラマを見るとき、万一それが自分だったらどうするのかと、瞑目して祈り、主に委ね主に解決を求め、そして主より力を得て再起する想像の自分の姿、内にイエスを抱いて不死鳥の如く堪え、且つ飛びかける姿を心に描かねばならぬ。「汝ら世にありては悩みあり、されど雄々しかれ、われすでに世に勝てり。」
 (1978.1.1週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-10-28 23:34 | 日岡だより

No.718 クリスマスの瞑想/小さき者、貧しき心に/主よ、お住みください/地べたに書く 2015.10.18

クリスマスの瞑想
 
 クリスマスは、もちろんイエス・キリスト様の誕生をお祝いする日です。イエス様は、約二千年前ユダヤのベツレヘムという小さな町に生れました。どなたもご承知のように、両親のヨセフとマリヤは泊まるところがなくて、イエス様はついに馬小屋の中で生れ、そして飼葉おけの中にねかされたのでした。
 二千年も前の、ある人の誕生を祝うということは、そのメルヘン的な物語を単になつかしんでいるというような事よりは、もっと身近に現代の私たち(あなたをも含めて)に訴え、かつ干渉してくるものがあるからだと思います。
 かつて、ベツレヘムがユダヤという国の小さな町でありましたように、今私達も(そして失礼ですがあなたも)、多くの人々の中にあって小さい者であるかもしれませんが、この小さい者に、イエス様は今日も生れてくださるという事を私は信じるのであります。
 (1977.12.25週報「キリストの福音」より)
 
 
小さき者、貧しき心に

 「恐るな小さき群よ、お前たちに天国を賜うのは天の父の御心である」
 とイエスは言われました。まことに、イエスは小さき者の内に宿ることをいとわれませんでした。そして、人が自ら小さき者であることを自覚することをお望みでした。神の国は、たかぶる者の国にあらず、へりくだりたる者の国であるのですから。
 故に、イエス様が飼葉おけの中に臥されたことは、意味のあることでした。他にもっとよい、乳児用のベッドか子守かごはなかったのでしょうか。しかし、不思議な摂理は、馬の餌を入れる(日本風に言えばフスマの匂いのしみついたような)、馬の歯のかみついたあとのある古びたおけをイエス様の人生第一日のベビーベッドとされたのでした。
 今日もなお、イエス様は私たちの(そしてあなたの)心の中の、最も卑しく貧しい場所に生れて下さると教えられるのであります。イエスは、偉大な人物の清い心に生れるのが当然だと思われます。しかし実際は小さき人物の、その汚れはてた卑しく貧しき心をこそ求めて、そこに下り住み給うのであります。
 (1977.12.25週報「キリストの福音」より)
 
 
主よ、お住みください

 クリスマスは物語りでなく、今日の、私と、又あなたの現実の事件であります。
 今、まだ信者でない方も、耳をすまして下さい。あなたの心に、あのすばらしいイエス様がもし住んで下されば・・・と思いませんか。その思いこそ、すばらしい願いでありまして、美しいもの、聖いもの、正しいものを憧れる人間の尊い本能であります。
 どうか今、目に見えぬイエス様ですが、心の中にイエス様を描いて、「イエス様、私の心に移り住んで下さい」と言って下さい。あなたの心の、人にも神にも見せたくない最もきたない秘密の場所に「主よ、来て下さい」と、そこのドアをあけて下さい。
 この事こそ、信仰であります。信念という燃ゆるような確信がなくても、信じているという気分がなくても、この主を迎え入れるという心の態度こそ信仰であります。
 あなたの心の地図をひろげてください。その中の、飼葉おけともいうべき、きたならしい心の秘室に、イエス様を迎え入れなさい。口に出して「主よ、おはいり下さい」と言ってごらんなさい。
 主はあなたの心に移り住んで下さいます。
 (1977.12.25週報「キリストの福音」より)


地べたに書く
「クリスマスは聖書と何の関係もない」と、今日の新聞(十二月二十三日)に投書が出ていました。この投書を書いているのは、文面から見てエホバの証人(ものみの塔)の人らしく見えました。この教派の人々はクリスマス行事を非難します。たしかに、前号のこの欄にも書きましたとおり、十二月二十五日がイエス誕生の日というのはあやまりであり、又かくべつイエス誕生の日を祝えという聖書の御言葉もないのであります。どうも、クリスマス行事は聖書の確実な教えよりも、「人の言い伝えに基づく」人間の習俗のようでありまして、そこに商業化・享楽化の胚胎する原因があるのかもしれません▲けれども、私はクリスマスは良き習慣であると思います。十二月二十五日を祝うのではなく、その日に主の降誕をいわうのであります。この日が格別に他の日より尊いのではありません。しかし、日を定めて人類が共に主の降誕を祝うのはすばらしき事であります。イギリスや北欧のクリスマスは特に厳粛で清楚だといいます。日本のクリスマス行事はアメリカ風の悪い面が出ているのでしょう。心したい事。
 (1977.12.25週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-10-21 22:30 | 日岡だより

No.717 イエス・キリストのほかに救い主は無いのか?/地べたに書く 2015.10.11

 〔信仰問答〕(2)
イエス・キリストのほかに救い主は無いのか?

 問――「分け登る、ふもとの道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」という歌もあるように、どんな宗派でも、たどりつく所は同じだと思います。それを、イエス・キリストの救いだけが絶対だ、他の道では救われぬ、と言うのはあまりに偏狭・独善的ではないでしょうか?
 答――我が仏尊とし、と他の宗教の悪口ばかり言うのは、見て気持ちのいいものではありませんね。宗教と言ってもいろいろですから、どれもこれもと言うわけにはいきませんが、深遠な思想と誠実な実践、あるいは単純無比な信仰を持った優れた宗教が多くあることは事実です。私は特にキリストに回心当時、手もとに聖書がありませんでした。そこで信仰上の栄養は、真宗や禅宗や神道の本より吸い取ったのです。信仰の対象としてはともかく、私は信仰上の心の姿勢や瞑想法等において多くを他宗より学びました。そして、私は今も変わらず、それら真摯な宗教に親愛と尊敬の念を持っているものです。
 しかし、私は矢張り、心の根底には「イエスのほかに救い無し」と信じています。何と頑迷な!とあなたは思うかもしれませんが、逆に私よりあなたに問うてみたい、「あなたは、自分の事として本気で信仰を求めていますか」と。するとあなたは多分「いいえ、私は大して信仰など必要としないのです。しかし、宗教はあっていいものだと思います。ですから、人様が信仰するのに何も反対したりしはしないのです」と答えるでしょう。こんな考えの人が、「何教でも同じですよ、同じ高嶺の月ですよ」と言うのは当然の事です。
 右のような態度を、「宗教愚民必要論」というのです。福沢諭吉がその「―――必要論」を年中三田で唱えていると言って内村鑑三がある仏教大学で攻撃したことがあります。宗教は愚民弱者の必要とするところ、とにかく安心立命すればよいのだから何宗でもよい、我らは自力熱誠でやっていく、「祈らずとても神や守らん」(乃木希典)式です。こういう人は、山の比喩で言えば、自分は雲の上か、ヘリコプターの上に居て、山の全貌を見下ろして、あらゆる宗教の道の上にいるつもりです。ですから、「ふもとの道は多けれど同じ高嶺の月を見るかな」と人ごとのようなノンキな歌になるのです。
 しかし、自身信仰を求めている人にとっては、あたかも山に譬えれば、ガスに囲まれて谷間に落ち、どこに向かって脱出すれば救われるのか分からない、そういう危機状況にあるのですね。月見とは違うのです。道元や白隠や日蓮や親鸞や、アウグスチヌスやルターの生涯を見ると、そういう人生究極の価値についての疑惑と罪と死の危機が烈火のように全身全霊をこがしていて、とてもじゃないが、月見のような風流なヤワな事ではない。
 いかに脱出口を求めていても、脱出口が見つからねば、そのまま谷底に居すわって、ここも亦よし、と悟るか。あくまで自力脱出をはかって死んでもともとと覚悟するか。人から案内書を借りて、×月×日には必ずガスは上ると信じるか。案内人の名を呼び求めればいいとして唱名にせい出すか。とにかく目の前の業に熱をこめて三昧に入るか、善意愛労の奉仕で、谷間の中にも天国のある事を実証するか、―――そういうさまざまの生き方があり、すべて値打ちはあるのです。
 しかし、私は言います。最大の山道案内人、生命をとして私たちを救い出してくれる唯一の方が、ガスの向うからやって来られる!と。その方に現実お会いしたら、すべての宗教の教えは、それが真実でありつつも空文と化します。イエス様の実現の前には、太陽の前に月が光を消すように。法則や、悟りや、心のもち方や、生き方の教えではない。人生をドン底より救い上げる人格者としての救い主イエスが来られるのです。
 (1977.11.6週報「キリストの福音」より)

 
地べたに書く
いよいよ、来週はクリスマス礼拝と、CSと合同のクリスマス祝会であります。礼拝では洗礼式と聖餐式を執行します▲イエスの誕生は本当は五月か六月かであろうと言われています。少なくとも、羊を外で飼っている頃の筈であります。しかし、いつの間にか十二月に定着しました。多分ローマの冬至祭とごっちゃになったのだろうと言われています。冬至は夜が最も長く昼は最も短いのであります。そして気温は益々下がるのでありますが、次の日よりしだいに昼の時間が長くなる。「冬来たりなば春遠からじ」であります。そういう冬至の感触が、キリスト降誕の意義になにか近いものを思わせたのでしょう▲クリスマスは戦後世俗化してしまって心あるクリスチャンは何だかクリスマス行事にためらいを覚えているのも事実であります。私の伯父は、戦前でしたが、クリスマスより復活節を盛大に祝ったものです。それも一つの見識ですね。とは言え、あまり固い事を言わず子供達といっしょに、たのしくクリスマスを祝う時神様は一緒にお喜びでしょう。
 (1977.12.18週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-10-13 18:11 | 日岡だより

No.716 あなたは種まく農夫である/神様に会いたい/地べたに書く 2015.10.4

あなたは種まく農夫である

 あなたは、あなたが自分はこんな人間であると思っているとおりの人間であります。
 イエスは言われます。「あなたの信じるとおりに、あなたは成るだろう」
 
 あなたは農夫です。あなたは種をまきます。農夫は日夜おきふしする程に、種は芽を出し、芽をのばし、次々に成長して実をむすびます。
 あなたは、あなたの心に良い種をまくか、悪い種をまくかです。良い種は良い実をむすび、悪い種は悪い実をむすびます。良い種は、良い言葉、良い思いです。悪い種は悪い言葉、悪い思いです。
 
 あなたは一刻一刻、良い種か悪い種かを選ぶ権利があります。あなたの目のさめている間、あなたはあなたの心に、良い種か、悪い種かいずれかをまくのです。
 (1977.12.18週報「キリストの福音」より)
 
 
 
我と我が家は主に仕えん(二)
  神様に会いたい

 私の父、釘宮太重にとっては、キリスト教の教会の玄関をくぐるという事は、世間体が恥しいということもさりながら、自分のような者が上品な知識階級の人達のいくヤソ教の教会に行って、取り合ってくれるだろうかという気おくれもあったかもしれません。
 ともあれ思いきって教会に入りました。
「牧師さん。はたして神さんなどあるもんじゃろうか。私は正直一途に生きて、そして人にすてられ、天道是か非か、神も仏もあるものかと思うちょる処です。本当に神さんがいるものなら、今私に会わしちみせち下さい。」
 と、早速の無茶苦茶な強談判ですが、牧師先生は、いささかも動ぜず、その時言われたそうです。
「釘宮さんといわれますか。あなた、キリスト教ではお坊さんや神官でなくても、誰でもお祈りさえすれば、神様にお会いできるし、神様とお話しもできるのです。キリスト教では、神様は世界に只一人、まことの神様、天にいらっしゃる私共のお父上です。子供が親に申し上げるように、お祈りしてごらんなさい。必ず神様に会えます。」
「よっしゃ。今晩祈ろう。今晩祈って神さんが出て来なければ、わしゃもう死ぬんじゃ。」
 (1977.10.16週報「キリストの福音」より)
 
 
地べたに書く
旧聞に属するが、大分市役所の職員組合が、今度の新市庁舎の駐車場を市民に開放する為、自分達はマイカー出勤を一切やめる旨、決議したそうである。これは十二分にほめられていい事だ▲組合と言えばエゴむき出しの利益要求責任回避のみであると思っていたのに、これは朗報である。ついでに書くが、自動車がある、道路がよい、駐車場がひろい――これが文明だと思っていた時代はもう過去になりつつある。スエーデンでは駐車場つきビルは建築禁止である▲価値基準転換の時代が来つつある。水洗便所が文化的と思うのはあやまりである。木造土壁の家にくみ取り式便所、裏に豚とにわとりがいて、菜園がある。それが、うらやましい文化生活と目される日が来るだろう▲こういう社会批評は少々過激の感もあるし、本紙の任務ではない。聖書は人間の価値基準の転換をせまる。聖書は言う。貧しい人は幸福だ、今、悲しんでいる人は幸福だ、迫害されている人は喜び喜べ。そして、又いわく、自分で正しいと思っている人は去れ。自己義認の人よ去れ。罪人よ来たれ。悪人よ来たれ。汝らこそは正客であると(マタイ九・13)。
 (1977.10.16週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-10-07 23:22 | 日岡だより