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No.715 泣く者と共に泣く/地べたに書く 2015.9.27

〔イエス伝(7)〕
泣く者と共に泣く

 ナインという町は、イエスの育ったナザレより南東に向って九キロ、当時はかなりの大きい町であったらしい。町の東に、今も岩にきりこんだ墓のあとがある。町の周囲には賊をふせぐ石壁がつらなり、東より来る道に町の門がひらかれている。その道をイエスの一行が来たり、それを迎えるように町の中より一隊の行列が出て来た――――
 「ちょっ、えんぎでもない」
 日本なら、弟子の一人でもこう言うところだ。その一隊は葬儀の列であったのである。
 
 聞いてみると、ある未亡人の、そのひとり息子が死んだというのだ。見れば、ひつぎのそばで一人の婦人が喪服を身につけて、目を泣きはらしている。ひつぎは今から岩に切り込んだあの墓に向うのである。イエスの一行は道のわきに退き、ひつぎの一行がイエスの前を通りすぎようとする。
 子供を亡くした親の悲しみは特別である。しかも親は未亡人で、そのひとり息子の死である。その女の悲しみは格別であった。
 「なぜ、神は罪なき者に不幸をもたらすか」
 このヨブ記の悲しみが、今又、この一人のあわれな婦人の魂をおそっている。しかし女は(特に早くより未亡人となり世間に耐えてきたこの女は)、あくまで神の御手に従順に従おうとして今イエスの前を歩いているのである。
 それを見ていて、イエスの心臓も又、共につぶれそうになったであろう、彼は「泣く者と共に泣」かずにおれないからである。涙がイエスの目に溢れる。ヨハネ福音書の記者であれば、ここでも「彼は泣いた」と書いたかもしれない。
 
 イエスは、つつッと前に出られた。そして、女に声をかけられた。
 「お母さん、泣かないでいなさい」
 その声に、あまりな「深い同情」が満ちていたので、その女はおどろいた。しかも、それは弱々しい同情でなくて力強い、井戸におちた体を引っぱり上げてくれるような雄々しい腕の力を感じさせる声であった。びっくりして顔をあげると、そこには若いラビ(宗教上の師匠)が立っていた。そして、そのラビがひつぎに近づかれるのでとっさに引き止めようとした。ラビはひつぎにさわって、汚さるべきではなかったからである。しかし、そのラビは一向に気にする風はない。然り、このラビは死人に近づいているのではない、この方こそ生命の与え主なのであるから。ラビはひつぎに手をかけた。そして言う。
 「若者よ、さあ、おきあがれ」
 命令である。若者の霊はイエスの御命令に従った。天にても、地にても、魂をとき、魂をしばりつける権威をもち給う方の命令に。
 
 この時、この若者が、死より甦らされた、このおどろくべき救の理由は、ひとえにこの母親に対するイエスの同情であった。
 この母親にも、まわりの者たちにも「信仰」があったようには見えない。又、この青年自身に対してイエスの格別の愛着があったようにも見えない(この点、ヤイロの娘やラザロの場合と違う)。ただひたすらな、この母親の深い悲しみに対するイエスの同情、全く一方的な、何の見返りも要求せぬイエスの同情がこの救をもたらしたのである。
 (1977.10.16週報「キリストの福音」より)
 
 
 
地べたに書く
「母ちゃん、あの子がにくらしい。殺してちょうだい」と、四才位の女の子が母に言うのをある人が聞いたという。これはもう正しくテレビの影響である。今の子供は、幼児時代に殺人場面のテレビを二万回は見るだろうという。そして大きくなって、ハイジャックする▲現代の悪魔はテレビや週刊誌を使って日夜休みなく、サタンの教えを説教する。教会は週に一、二度一時間ずつのメッセージ。これでは、現代人の魂はどっちに向くか、凡そきまっている。マスコミによるくりかえしの飽く事なき宣伝はかのヒットラーの常套手段であった。この手で今もサタンは民衆をたぶらかしにかかる。「俗悪なむだ話と偽りの知識による反対論をさけなさい」(第一テモテ書六・20)
 (1977.10.9週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-09-30 23:00 | 日岡だより

No.714 生活に勝利せよ/エピクテトスの言葉/悲しみの人/地べたに書く 2015.9.20

生活に勝利せよ

◇「生存している人は多いが、生活している人は少ない」と言った人があります。
◇生活とは、人間としての責務を果たすことであります。この責務を回避すると「生存」になり果てます。
◇「生存」に意義を発見し使命を見出す時、私共は「生活」を獲得します。それが勝利です。
 (1977.12.18週報「キリストの福音」より)
 

エピクテトスの言葉

 信仰に熱心になると親が嫌う。親に従おうとすれば信仰をやめねばならない。そういう悩みをもつ人々に、エピクテトス(五五―一三五年)の言葉をおくろう。
 「病気に心得のない親が、病気の息子に有害なことを有益だとして命令したとする。息子がその時、親の命令に服さないとしたら、彼は親不孝の子であろうか。いや、親は元来自分の子に善意をもち、よい事を望んでいるのであるから、息子がよい事をするのは、親の本当の望みをかなえたことになる。その事が理屈で親に分ってもらえぬなら君の行動で示すことだ。よく親に仕え、親切に、争わず、エゴでなく、辛抱づよくあれ。それでも分ってくれぬなら、肉体の親でなく、すべてのものの親である神の命令なのだと思ってよき方を為せ。」
 エピクテトスはストア派の哲学者であって決してクリスチャンではないが、聞くべきものをもっている。
 (1977.10.16週報「キリストの福音」より)
 
 
 
我と我が家は主に仕えん(一)
悲しみの人

 「彼はあなどられて人に捨てられ
 悲しみの人で、病を知っていた」
           (イザヤ五三・3)
 これはイエス様についての預言として有名な聖句です。けれども、私はこの御言葉にふれるたびに、私の父のことを思い出してしまうのです。私の父は釘宮太重と言います。この太重という字は「たじゅう」と、そのまま音読みです。ちょっと変わった名前ですが、その名付けの言われは知りません。
 私の父は、小男で、ぶ男、生母に三才の時死別、学校に余りやってもらえず、病気がち。青年時独立して一人生計をいとなむ。近親者より誤解をうけ、泥棒猫の如く言われ、遂に破産する。貧乏と病気と、それよりつらいのが冷たい世間と親・兄弟との離反。正に、「彼はあなどられて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた」のであります。
 この父の目に入ったのが、キリスト教会の新聞広告、「すべて労する者、重荷を負う者われに来たれ。我汝らを休ません」。―――ああ、これは労働者や沖仲仕の募集広告ではない。自分のように人に捨てられ苦労のドン底にいる者への呼びかけだ。そう気がついて、早速教会に行きました。そして、二度、三度、扉をひらいて中に入りかけたのですが…………
 (1977.10.9週報「キリストの福音」より)


地べたに書く
地べたに書いて、すぐにかき消される文字であるが、時折のことを毎週書きたい。▲天下の創価学会の創立になる創価学園、最近では東大合格者にも二ケタの実力校、無資格教師が十五人もいたとて東京都の学事部の注意を受けた。最近熱心に教育キャンペーンをはっている毎日新聞すら、「実力主義の弊」と中見出し。「実力主義の勇み足」とでもすればまあまあだのに▲東大めざしての実力主義が免許も資格もくそくらえの実力主義をうみ出したのは皮肉である。これを文句つけるのは「資格偏重主義」。職人も技術士となる資格時代、このカタガキ尊重主義をけとばして、天下の創価学会なのだ、文部省くそくらえ、無認可大学を建てませんか▲又もや、ハイジャック。十六億円と同志釈放という、要求丸のみの政府回答。こういう甘いヒューマニズム解決は次々に次のハイ・ジャックをうみ出す▲よくテレビ・マンガなどで小娘一人の生命のために地球軍対××星軍の決戦に手をこまねいている図があるが、あれは本当に「世界より重い人間一人の生命」を知っている体の発想ではない▲日本政府に言う。今度、ハイ・ジャックがおこって、日本国天皇が三億円(金はまけてやる)みずから持ってこい。戦争責任を認めて出てくるなら、同志の釈放も要求しないとでも言って来たら、どうしますか。天皇の名誉と庶民の生命の比いずれが重し。
 (1977.10.2週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-09-24 23:19 | 日岡だより

No.713 「熱望して祈れ、信じて成功せよ」/イエスはなぜ死んだか 2015.9.13

「熱望して祈れ、信じて成功せよ」

◇人類の祖先(は決して猿ではありません)は他の生物にまして、異常に生き抜こうとする熱望がつよかったに違いない。そこで他の動物がこわがって近づかない火を手に入れて人類進歩の第一歩となった。
◇熱望すると火中に手を入れることができる。火中に栗を拾うのでなく、火中に金を発見することができるのである。
 (1977.10.9週報「キリストの福音」より)
 


イエスはなぜ死んだか

 「金も命も名もいらぬ。そういう人でなければ大事はできぬ」
 と大西郷は言ったそうです。そういう西郷さん自身でさえ、やや名望好みのところがあり、それが進路をあやまったのだと言う人もあります。なにせ、あの西郷さんの事であります。そういう少々の短所を聞いても少しも彼に対する敬愛の念のうすれぬのは不思議であります。
 ところでイエス様こそ、本当に「生命もいらぬ、名もいらぬ」人であったと思います。弟子にそむかれ、弟子にすてられ、素っ裸にされて、極悪人のように十字架上に処刑されるのですから、名誉も何もあったものではありません。
 ユダヤ人は古代ローマ人や昔の日本人のように、恥辱を死にまさる苦しみと考えていました。その恥辱に耐えてイエス様は十字架より墓へと死の旅路を行かれました。なぜ、日蓮大聖人のように死刑場の現場で神様の力で救われなかったのでしょうか。
 神様のお考えによれば、キリストは一度死んで地獄まで下り、死に打ち勝って復活し、その上で神のおそばにまで昇天しなければならない。そうでなければ、人間の罪も、その苦悩も病気も救う事ができない。この事が、聖書の最も大事な教え(第二コリント一五・3、4)なのであります。
 イエス様は死なねばならなかった。そして、事実私どもの自覚する罪、自覚しない生来の罪、生れながらの罪を背負って、一たび死んで下さったのであります。
 
 復活は、当初弟子たちにすら、愚かな話に思えました(ルカ二四・11)。アテネの人は、「死人のよみがえりのことを聞くとあざ笑い」、「いずれ聞く事にする」と帰っていったそうです(使徒一七・32)。パウロが彼の証しを長々と語っている間静かに聞いていたフェスト総督も、ことイエスの復活に及ぶと、たまりかねて叫びました、「パウロよ。お前は気が狂っている。博学がおまえを狂わせている」。思いもかけず、ここでパウロが当時名の知れた博学の人であった事も証明されますし、そして死人の復活などという奇蹟物語は、伝道上の障害にこそなれ、決して現代人のみならず、昔の人にも役には立たなかった事を示しています。
 
 遠藤周作という小説家は、「沈黙」とか「死海のほとり」とか「イエスの―――」とか、信仰小説を書いています。なかなか評判はいいようです。しかしあの人の信仰は現代人らしい、弱さに居すわって逆説的に信仰を告白するやり方です。人間の科学的常識や生活上の矛盾に体ごとぶっつかろうとせず、早目に手をあげると、ああいう風になります(日本の宗教で言えば、シンラン風な行き方、戦争中より無的弁証法というやつで皇国主義的圧迫に対する言い逃れを覚えてきた日本のインテリはこれがうまいのです。そして、それが決して全然あやまりではない、尊い真理がある処に妙味はあるのです)。
 その遠藤氏ですら、ペンテコステの聖霊経験以後のペテロたちのみごとな変身ぶりは説明のしようがないと言っています。
 あのおっちょこちょいで、臆病もののペテロが、聖霊経験以後、大胆不敵、すばらしい弁論(説教)、一群をひきいる組織力と権威を兼ねあわせてもちました。パリサイ人達は、いくら目をこすって見ても、彼が無学な只人である事を認めざるを得ませんでした(使徒四・13)。
 なぜでしょう、復活のイエスが約束通り、その聖霊を天より彼らにお送り下さったからです。十字架の死は復活の為、復活は昇天の為、昇天は聖霊をお下しになる為です。この聖霊の働きを知らないと、イエス様の理解が遠藤周作流におわり、信仰は生活をかえず、只々、おのが才能にたよるのみになります。
 (1977.10.9週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-09-17 10:22 | 日岡だより

No.712 聖書を読もう/砂時計の法 2015.9.6

聖書を読もう

 航空法では、沿岸から七二〇キロ以上の洋上を飛ぶ飛行機には、乗客一人一人に緊急用品を備えることを義務づけている。そこで、日本のある航空会社の緊急用品の一部に
 「新約聖書の英文、和文が一冊ずつ。つり道具一式」とある。緊急時の、体と魂の糧の為に、なかなか気のきいた配慮と言わずばなるまい。
 
 あなたはクリスチャンですか、勿論、毎日聖書をおよみ下さい。聖書は日毎の糧であります。
 あなたは非クリスチャンですか。でも、聖書をおよみ下さい。できれば、どうぞ毎日お読み下さい。
 実行できそうもない事が書いてあったら、その時こそどうぞ、へりくだってお祈り下さい。信仰の奥義はそのへんから始まります。
 (1977.10.2週報「キリストの福音」より)
 
 
 
 
砂時計の法

 今晩の食事は焼肉にでもしようかと思う。そこで、ご自慢の自家製のたれを作っていると、そこへ親族の漁師の家からイキのいいぶりを持ってきてくれる。そこですぐたれは冷蔵庫に入れて、ぶりをおろしにかかればいいのに、せっかく意気ごんでいた焼肉料理の方に未練が残って、台所の中でしばし迷う人がある。ひどい人は、「今日、ぶりなんか持って来やがって。あした持ってくればよいのに」と、その親族の漁師一家をうらみがましくさえ思う。
 
 人生には、そのまま受け入れねばならぬ事と、自分で変えられる事とがある。私が日本人に生れた事、今日は気圧が低くて雨が近づいているのか、リューマチが痛むとか、そういう事は、私の方で変える事ができない。前文で言えば、親族より厚意のぶりをもらった事は、当方で変更のきかない、感謝すべき事である。反面、焼肉料理を魚料理に変更する事は自分で出来る事である。
 出来ない事は感謝をもって受け入れ、出来る事はする、これは人生の秘訣。
 
 クリスチャンにとっては、すべての物事は神の御心か、あるいは黙認のもとにある(黙認というのは、サタンがヨブに災害を与えるのを神が許したように、それ自体がよい事ではないが、神が悪魔や悪人のわざを見逃しておられるようなことをさす)。故に、すべての事が、神の御手の中で発展解決していくことを信じて受け入れるとよいのだ。
 
 ルターに言わせると、頭の上に雀がフンをおとすのは仕方がない。雀に向かっておこるのさえアホウな話である。しかし、頭の中に、雀の巣をつくらせてはいけない。故に、髪の毛よりフンを洗いおとすぐらいの事はせねばならない。(聖書では、小鳥はしばしば悪魔の比喩である)。
 
 焼肉とぶりの例で、もう一つ問題点は、「思いわずらい」である。同時に二つをしようとし、同時に二つの事を考えようとすると、思いわずらい・煩悶がおこる。
 
「人生は砂時計のようなものだ。砂時計のガラスの器は中央がくびれていて、上から下へ、一度に一粒しか砂は通りぬけられない。
たとえ多忙きわまる時でも、いっぱいつまった仕事は一つづつ、姿をあらわす。順番に、一度に一つづつ、処理して行く。その事をしないのは怠惰、一度に二つ事をしようとするのはおろかである。」(J・G・ギルキー)
 特に試練の日には、この砂時計の処理法を忍耐をもって持続しなさい。又、あまりにも単調で膨大な量の仕事にも、この秘訣が適切である。
 
 あずきを選別する時、一度にあずきの山をかきまわすのでなく、少しずつ手もとに引きよせて、一粒一粒捨てるものと、用いるものとに二つに分ける。同じように、人生の問題も一つ一つ選別する。自分の力で処理できるものと、神様にゆだねて安んじて置くものと。「私達は、達し得た処に従って」(ピリピ三・16)生きるほかないのですから。
 (1977.10.2週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-09-09 18:27 | 日岡だより