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No.711 雄々しい人生を送れ/おのれを尊べ 2015.8.30

雄々しい人生を送れ

 聖書の人物を見ると、勇気ある雄々しい人物の行列におどろくのであります。アブラハム、モーセ、ヨシュア、ギデオン、ダビデ、ダニエル、ステパノ、パウロ等々。
 勇気とは粗暴の別名ではありません。勇気とは失敗の懸念をさしおいて事をはじめ、不利な戦線にあっても自ら精神を鼓舞して敢闘する態度です。
 (1977.10.2週報「キリストの福音」より)
 

おのれを尊べ

 「へりくだりなさい」とか、「自分を捨てなさい」とかいう御教えを聞いて、自分で自身を卑下したり、痛めつけたり、自身を悪ざまにののしる事が美徳のように思っている人がいます。
 
 神様は人を十分に考えつくされ、全力をつくして、造られたのであります(詩一三九・13~15)。神様は人を造られた時、「これはすばらしい」と喜びなさったのであります(創一・31)。
 
 一面、神の前に、人はアダム以降の罪性に染んでいますから、「義人なし、一人だになし」(ローマ三・10)と言うのは真実であります。この罪の自覚は、聖霊の働きと律法の教えによって生じます。
 
 しかし、生まれながらの素朴な肉体人間は美わしいものであります。赤ん坊や、幼児の可愛らしさを思いなさい。誰が、この子供たちを責め得るでしょうか。
 この子供達も、イエスの血によって救われねばなりません。しかし、イエス様はこの子供達をお責めにはならず、祝福なさいました。
 
 「人間の霊はすばらしいが、肉体はけがれている。肉体をはなれてエクスタシーに入ってはじめて救を得る」という異端の信仰が、初代教会の頃にありました。
 肉の思いに、罪が残り、居すわり、悪魔の温床になりやすい事は事実ですが(ローマ七・17~23)、しかし、この肉の体がわるいのではありません。
 
 唯物論者に言わせれば、人間とはこの生理的肉体人間だけの事かもしれません。霊も心も疎外した片ちんばな意見ですが、かと言ってこの肉体は我にあらず、霊のみが我なりと言うのも、同様にせまい意見です。この私は、事実この肉体であります。この肉体をはなれて、この私はありません、今の処。
  
 人間は罪にそむと、「自分のからだを恥かしめる」(ローマ一・24)ようになるものです。性の罪は他人に対する盗みや暴力の罪ではなくて、おのれ自身の体に対する罪であります(第一コリント六・18)。この観点に立って、はじめて性的自淫行為が罪である事がわかります。又、だれに迷惑をかけなくても自殺が罪である事がわかります。
 故に、一つの文明が没落する時、同性愛、性不倫、自殺が流行するのであります。
 
 「各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ち」(第一テサロニケ四・4)と聖書にあります。自分の体を尊びなさい。自分の体の栄光に目をとめて、神様を賛美しなさい。
 
 神様は、くすしき御わざと、全知をもって私の体をつくられた。私の体には、神様の目的と設計がある。私の全生涯を通じて、この肉体で過ごすよう、神のプランがあった。この神様の御計画を受け入れなさい。
 
 その時、あなたの容貌があなたに気に入らないとすれば、あなたは神様の御計画が気に入らないという事です。あなたの生れつき弱い肉体に不満をもっているとすれば、あなたは神様のプランに対して不満であるという事です。
 
 自分自身をあわれみ、つまらない自分と呼び、顔もダメ、頭もわるい、気性もねじけている、私はだめな人間ですと、謙遜そうになげいているのは、実は神様に対する反抗であります。
 
 あやまった悲しみは悪魔のワナであって死に至り、神から来る正しい悲しみは救をもたらします(第二コリント七・10)。謙遜もへりくだりも、悪魔のワナである事があります。
 神を信じるものは、自己を信じます。神を尊ぶものは自己を尊びます。
 私たちは神の宮であります。これをこぼつ者は、神様がこれを滅ぼすであろう(第一コリント三・17)と聖書にあります。私達については神様という、すばらしい後ろ盾がある、自信をもって、この時代に立って出て行きましょう。
 (1977.9.25週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-08-31 23:00 | 日岡だより

No.710 永遠の若さ/地べたに書く/涙 2015.8.23

永遠の若さ

 神様には、なんの形もありません。(申命四・15)、その姿を見た人はいません(ヨハネ一・18)、又決して神様を形ある偶像にして、これを拝んではいけません(出エジプト二〇・4)。しかし、もし神様の姿を人間の形にして想像することが許されるならば、それは「永遠の若さ」をもった聖なる青年の顔ではないでしょうか。
 (1977.9.25週報「キリストの福音」より)
 

地べたに書く 

 朝早く、まだ気持ちのいい時に、パリサイ人たちは姦淫の女を連れて来て、イエスにその罪を問うた。愛のひとかけらもない彼らを前に、イエスは無言であった。そして身をかがめて地面に何かを書いておられた、と聖書にある。女へのあわれみとパリサイ人への怒りと、二つの火が心に燃えて、心なしか指もふるえつつ地面にかかれたかもしれない。その言葉はすぐに消されて、今はそれを読むすべもない。しかし、天国の記録には、今もその言葉が残されていないだろうか。
 日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦と、不思議に勝ち続けた日本人(あえて、軍部、政府と言わず、天皇をも含めて)は、今度も又勝つかと思って太平洋戦争を始めた。海軍などは当初反対だったというが、とにかくどうかなると思ったのであろう、徹底的には反対せず、そして戦争に負けた。
 戦後の経済もこれに似ている。朝鮮戦争以降、これという指導者も政治理念もなく、不思議にもうかりつづけ、繁栄をつづけてきた。もう危ないよ、と言われても「何とかなる」と日本人全体が思い込んでいる。しかし、日本はもうこれまでの繁栄の条件をあらかた食いつぶし、今残っているのは人間だけである。食糧もエネルギーも危ない。一朝時ある時には日本列島は飢餓とくらやみである。今この島々に満ち溢れる人間を生まれ変わらせる以外、救いの道はない。
 (1977.9.25週報「キリストの福音」より)
 
 
 
 イエス様はラザロの墓の前で激しく感動された。
 愛するラザロの死の周辺の、不信仰や傍観的ささやきの中で、イエス様は激しい情動をおこされた。それがどういう感情であったか、今の私たちには知るよしもないが、そばにいた弟子たちにも異常な衝動を与えたらしい。その時、「イエスは涙を流された」。これは英文聖書では、最も語数の少ない節として有名なヨハネ福音書第一一章35節である。
 「Jesus wept.」
 今から三十年程前、鹿児島県の霧島神宮下の研修館で日キ教団青年部の修養会があった。その時の発題説教に当時の九州教区総会議長の野町良夫牧師(四十才前であったろう。まだ若かった)が立った。先生は折しも、胃けいれんをおこされて身をよじるようにして必死の説教をされ、その直後、倒れて別府に帰られたのであったが・・・・。
 その野間先生の説教中に、私は先生の説教そのものに感動したとか、興奮したとかいうのではないのに、訳も分らず涙がドッと両方の目から溢れ出した。涙がこんなに熱いものだとは、久しく忘れていたような、幼年時代にワーンと泣いたあのようなはげしい涙で、私の両眼はポンプのように涙を出し、私はしゃくり上げて泣いた。感激とか感動とかいう一般的感情の部類に入らぬ一種しらけた意識が目ざめていて、ただ異常に涙だけ出て泣けるのである。
 今思えば、異言に似ているが。
 普通、泣くには、悲しくて泣くとか。くやしくて泣くとか、うれしくて泣くとかそれだけであろう。しかし、聖なる情動で泣くこともあるのである。こういう泣き方は一般的人間社会には共通体験が少ないから、表現する言葉もない。言葉はないけれど、これは事実である。
 私はその時より数年前に、すでに救の確かさと言うべき回心をしていたので、いわゆるコンバージョンとはちがう、しかし又、聖霊の充満とか、油そそぎとか言うようなそんな大それたものでもなかった。とは言え大それたものではなかったとわざわざ謙遜をもって言うけれども、しかし私に取っては大変な聖霊体験の始めであったのである。
 その修養会の直後、私の人生の転換がスルスルとやって来て、やがて伝道者に召される行程がその時にきまったように思われる。昨年、野間先生にお会いした時、その事を始めて告白して、先生と神様の前に感謝したのであった。
 (1977.9.4週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-08-27 09:27 | 日岡だより

No.709 御言葉を心におさめよ/試練三原則 2015.8.16

御言葉を心におさめよ
 
 聖書はあやまり無き、天の父なる神様の御言葉です。この言葉には生命がありますから、心の畑に埋めこんでおきますと、知らぬ間に大変な成長をして、三十倍、六十倍、百倍の実(品性、豊かさ、健康)をみのらせます。
 日本の昔からある掛軸や、壁につるした色紙のように、聖句を書いて、日夜吟唱するのはよい事ですね。又、手帖の片すみや、腕時計や、コンパクトの裏に聖句を書き込んでおいて、日常生活の合間に神様の言葉にふれておる事は、大きい祝福をあなたに呼びこみます。申命記一一・18~21を参照しましょう。

それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし、これを子供たちに教え、家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、それについて語り、また家の入口の柱と、門にそれを書きしるさなければならない。そうすれば、主が先祖たちに与えようと誓われた地に、あなたがたの住む日数およびあなたがたの子供たちの住む日数は、天が地をおおう日数のように多いであろう。

 あなたの生命の日数も長かれ!
 (1977.8.21週報「キリストの福音」より)
 

試練三原則
 
 患難は決してうれしいことではありません。それに遭えば一刻も早く去ってほしいイヤな事であります。しかし、この世の中で、一度も患難にあった事のないような人を想像することは出来ません。又もしそのような人があったとしたら、多分はなもちならぬ高慢な人か、又はフヌケのような頼りにならぬ人でしょう。
 私たちが多少でも、人に同情をよせ、自分に反省することの出来るのは、私達が患難を経験するからであります。
 
 患難はしばしば自分の愚かさや過ち、罪より来るものであります。それは十分に反省を要します。
 しかし又、人の害意、敵(サタン)の攻撃による事もあります。何のかかわりもない筈の暴力団よりインネンをつけられる事もあります。
 このような患難に対しては、クリスチャンは勝ち得て余りあるイエスの力を頂戴しましょう。
 
 患難は、神の子にとり父なる神様よりの尊い訓練であります。たとえ、その患難が私たちの罪の行為の結果であったとしても、それは決して罰ではなく、矯正の為の訓練であります。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。もしあるとすれば、その人はかくし子である、と聖書は言うのであります。(ヘブル書一二・5~11)
 
 患難にあった時の注意を聖書はこう告げています。(ペテロ一書四・12~13、ヤコブ書一・2~4)
 (1) その試練を何か思いがけない事が来たかのようにおどろいてはいけない。あわててはいけない。ろうばいは悪魔に対する敗北のしるしになる。「やッ、覚悟していたものが来たな」と、英雄的精神をふるいおこしなさい。火事場に行く消防夫は、火の粉よりさけられない。
 (2) 試練をかえって喜びとしなさい。敵に追われて走る敗走兵にとりランニングは苦痛であるが、寒風をついてランニングの練習をするマラソン選手にとっては、その苦痛が喜びであります。
 それは、おのが苦痛に意義を見出しているからであります。患難には、主イエス様の御苦しみと天と地の開きはあっても、平行的に似た処があって、肉において苦しむ事は、それによって罪よりのがれ、おのれを鍛錬し、成長し、人の罪をさえ負う事すらあるのである。そのような、尊い意義に目ざめよう。
 (3) とは言え、矢張り試練はつらい。喜ばしいとは見えない。その時必要なのは忍耐である。忍耐は練達をうむ(練達は耐えるコツであり、試練を喜ぶ技術である(ロマ書五・3~4)。
 
 あなたが最大に喜び、意気揚々としている時、注意しなさい、悪魔にほえたけるライオンのように、喰いつくそうとして我らのまわりにうろついている(ペテロ一書五・8)。先週、阿蘇聖会で、大いに喜びました。こういう大盛事のあと、えてしてサタンは私達を攻撃して来ます。
 目をさましていなさい。信仰に立ちなさい。男らしく、強くあってほしい(コリント一書一六・13)
 (1977.8.28週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-08-21 08:19 | 日岡だより

No.708 神はないという人とあるという人と 2015.8.9

神はないという人とあるという人と 
 
 神はないという人が多い。神様は見えないのだから無理もありません。然し、見えないでも信じているものは、実はたくさんあります。月の裏がわを見た事はないが、アポロ宇宙船の報告を信じています。エネルギーというのは、何のことやら良くわからんが、物理の先生の言うことは信じています。私の両親がこの父母であるという証拠は余りない(顔が似ている、血液型に矛盾はない、長い間いっしょに生活しているというだけだ)が、父母を信じている。第一、私の「心」というものは一切見えないが、私の「心」、この「私自身」を信じている。
 
 神は無い、と言う人は、大別して次の三つに分けて考えられます。
 (1) 第一の型は、心霊的なことに全く無関心で、そんな事はどうでもよい、と思っている人々です。こういう人達のことを、「愚かな者は神は無いと言う」と聖書は指摘しています。神はいないという人は、たとえその人が大学の教授であっても愚かな人なのであります。
 (2) 次のグループは、人生に絶望し、自分に悲観して、「神はどこにいますか」となげいている人達です。ちょうど、人ごみの中で母を見失って泣いている幼児のように、神様を見失っているのです。「おまえの神はどこにいるか」とあざ笑う悪魔の声にまどわされず、今いかなる絶望の避地にあろうとも、そこより神を見い出し、神に帰るべきです。(詩篇四二)
 (3) 第三は、おごりたかぶって、現在の自分の成功繁栄を誇って、神などいるものか、と言っている人達です。彼らは、神などいない方が都合がよいのです。時おりもたげてくる良心を眠らせる為には、神などあってはじゃまなのです。ナポレオンはセントヘレナに流されるまでキリストの事を語りませんでした。毛沢東は死ぬ少し前に、「私は神に会う準備をせねばならぬ」と言いました。聖書は「悪魔も神を信じてわなないた」と言います。神を有ると知っているのに無い事にして生きているわけです。
 
 神はある、と言う人々にも、また大別して三つの型があります。
 (1) 第一の型。知的に神はあると認めていますが、その事に、無感動ですし、生活に何の影響も与えません。神はないという型の第一の愚かな人々と、それ程大差ないのであります。
 (2) 第二は、神を恐怖する型。宗教儀式やお札(ふだ)やおさい銭で、神様をまつり上げ封じ込むのです。建築の際のこんじん除け、車のお守り札、みなそうです。これが、高等宗教になると、道徳、倫理で人間生活をかたくしばり上げて、神様の前にきよく正しく生きようと、キリスト教で言う律法主義、倫理的厳酷主義に陥ります。
 (3) 第三は、愛の神を信じ、愛の神と共に生きる、生きる喜びを知っている神体験です。このように、我が内に生きている神を知るまでは、本当の「神はある」と言う人ではないのであります。
 神は無いと言う人に言います。
 神様は断じています。神様は生きています。
 神様がいないと言うのは、あなたの中の胃が
 「おれは生きている。おれは自然に生れ、ここにあり、そして生きている。おれの主人である何某(あなたの事です)などあるものか」
 と言うのにひとしい事です。
 あなたがご自身を「我」と自覚しているような精神の次元は、物質の次元ではありません。その次元が肉体生理におよぼす影響は表情や言葉や脳波で検討できましょうが、その根源は神秘です。そのような深い、且つ高度の次元の「あなた」は、本当は神は無いなどと言わぬ筈です。へりくだって、冷静になれば、誰でも「神はいる」というのが当然の事なのであります。
 (1977.7.31週報「キリストの福音」より)


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by hioka-wahaha | 2015-08-12 10:12 | 日岡だより

No.707 家庭礼拝のすすめ/自在な体操、自在な歌、自在な信仰。 2015.8.2

家庭礼拝のすすめ 
 
 五月二十七日(金)、中野家で家庭礼拝を持った。十人に満たぬ少人数ではあったが、賛美と祈祷とメッセージと聖句のコールの嵐が室内にふきまくるようなすばらしい集会であった。当教会における家庭集会の第一回であるが、第一番手として中野兄と同高代姉が家庭を開放する事を決心されたことを、大いにたたえたい。気質としては内気で遠慮ぶかい二人であるから、あるいは清水の舞台からとびおりるような決心であったかもしれないがようこその決心をして下さった。
 初代の教会には、会堂はなかった。各々信者の家庭で集会をひらき、そこを「××家の教会」と称したのである。今でも、信仰の迫害をうけている共産圏国家の地下教会の多くは「家の教会」である。家の教会は、見すぼらしいかしれないが、迫害などに抗して絶対崩れない信仰のとりでである。最近、ある人の本では、教会の礼拝よりも家庭礼拝を大切だという意見があった、少々行きすぎた意見ではあるが、意味はふかい。
 家庭礼拝は教会の軍隊の前線に似ている。各家庭が祈りの細胞としてガッチリ守ってくれていれば、本陣の教会は大いに安全である。家庭を開放して、もよりの信者さん方を集めて拡大家庭礼拝をもつ時、その家の敷居の下から屋根組みのすみずみまで、神の霊気がしみわたる。そういう家庭には必ず神の祝福が来る。そして又、参加させてもらった信者各位も教会の会堂礼拝とはちがった、生活のにおいのする信仰に燃える。
 四国の三島真光教会の牧師金田福一先生は三十年前平信徒として、貧乏と病気のドン底にあった時、一家そろって聖書輪読と賛美と祈りの家庭礼拝をはじめた、これが先生一家の奇跡的「貧乏と病気」脱出の原因であったと、先生は証ししていられる。
 私は、少年時、母と二人ぐらしの淋しい家庭であったが、小学校四年生頃より、毎朝、食前に新約聖書を一章読んでお祈りをした。詩篇も読んだので、一冊あげるのに一年半かかるが、十七才で社会に出るまで五回ぐらいは通読したことになる。私が、二十二才の時、刑務所の中で、そばに聖書がない時でも、御言葉により養われ得たのは、母と共に八年間読み通した聖書の記憶があったからである。
 生活をきよめ、栄光ある人生を送る事は、容易でないように思われてる。もちろん、容易であるとも言いがたいが、しかし、家庭にまず神礼拝と賛美と祈りのある時、それはすべての人に可能の事となるのである
 (1977.6.5週報「キリストの福音」より)


 
自在な体操、自在な歌、自在な信仰。
 
 野口体操という不思議な体操がある。
 その本が最近出た。「からだに貞く」(柏樹社刊)という。
 この四月から大分市のクリスチャンの有志が三十人程集って、合唱の練習をしている。その際、首、肩、腰と、力を抜いていく体操がある。どうも、野口体操に似ているなあ、と思って聞いてみた。おどろいた。この野口体操の創始者野口三千三氏は、この合唱団の先生の母校・東京芸大における恩師であられた。なる程、・・・・
 ある人に、この脱力体操の初歩コースを教えたら、早速肩のこりがなおってしまった。
 二十年程前、受売りで指導していた「ランドーンの健康法」や、イスラム教の一派の「練習」にも、これに似た芽生えがあった。
 ランドーン方式は、広い道場にただ一人いる。ただ一人で自由に動く、立つも坐るも、駆けるもころぶも、そしてじっとしておるも自由である。内なる「心」が澄んでくるまで待つ。そして体が自然にほどけるままに運動する、というのであった。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝である」(ヨハネ一四、5)とイエスは言われる。枝の受ける栄養や、信号は幹を通ってくる。クリスチャンの受ける霊的栄養や信号は、内なるキリストより来る。耳や目を通して入ってくる御言を、魂にその真意を悟らせ思い出させてくれるのは、内在する聖霊である。それを内なる声と呼ぼう。内なる声をきくこと、これはクリスチャンの成熟の為に大切な課程である。
 今、当教会で、自由さんびの時間を設けている。自由なメロディー、自由な和声とリズム、自由なことばで会衆一同歌う。発声器官が緊張をほぐされ、のびやかな声で、神への賛美がうたわれる。正しく「霊の歌」(エペソ五・18)であって、初代教会の聖歌の発生期はこういうものであったろうと思われる。
 先日、来席された立木稠子さん(前記合唱団の主任講師、声楽家)が、この自由さんびをお聞きになって、「すばらしい。オペラのような声がでますねえ。録音しておきたかったですよ」と賛嘆された。一流の方に認めてもらえて、大変うれしかったのである。
 内なる声をきいて、そのままに歌う。同様に、内なる動きを貞いてそのままに体操する(これが野口体操の根本でしょうか)。そして内なるキリストの言をきいて、そのままに告白し生きる、これが信仰なのである。(1977.7.3週報「キリストの福音」より)



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by hioka-wahaha | 2015-08-06 08:16 | 日岡だより